彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第12話 「答えのない場所」
時空の隙間は、どこまでも続いていた。
カノジョは歩き続けている。前に、前に。どこへ向かっているのかは、自分でもわからない。ただ、光莉の熱が、かすかにこちらを呼んでいる気がした。
カレシの声は、前より近い。最後のページにあの猫マークを刻んでから、彼の輪郭は少しだけ濃くなった。完全ではない。でも、消えはしなかった。
「光莉、まだ近くにいる?」
少し間があった。
「私には、わからない。あなたの『感じる』ことに、私は答えられない。私は観測者ではない。ただの──記録者だ」
カノジョは笑った。その笑顔は、少しだけ疲れているように見えた。それでも、笑うことをやめなかった。
「私の中のノイズって、誰のものなんだろう」
「あなた自身が決めることだ。『誰のものかわからない』という状態を受け入れるか、『誰かのもの』と決めるか。それもまた、あなたの選択だ」
その言葉を、胸に刻んだ。
また歩いた。
光莉の熱は、どんどん近くなっている。でも、決して「そこ」には辿り着かない。かすかに見える。かすかに聞こえる。かすかに匂う。でも、触れない。味わえない。
「光莉って、本当にいるのかな」
「もしかすると、いないのかもしれない。私たちが『いると感じている』だけかもしれない」
「それでも、探すの?」
「それが伝線、というものだ」
声は、少しだけ優しくなった気がした。
その時、視界にかすかな影が映った。誰かの影。でも、その誰かはいない。
「あそこ、誰かいる?」
「いない。ただの──気配だ」
カノジョは、その影に向かって手を伸ばした。触れない。でも、温度だけは感じた。冷たくない。温かい。誰かの体温。それも、かすかに。
「……光莉の?」
「あなたがそう感じるなら、それが答えだ」
「答えが出ないのに、答えなの?」
「そういうこともある」
声に、少しだけ諦めが混ざっていた。
カノジョは、その場に座り込んだ。疲れた。自分のものか、誰かのものか、わからない。でも──疲れた。
「休んでいい?」
「好きにしろ」
目を閉じた。
瞼の裏に、誰かの色が広がる。
誰かの声が聞こえる。
誰かの感触が手のひらに残る。
誰かの匂いが鼻をくすぐる。
誰かの味が口の中に広がる。
それが全部、自分のもののようにも思えるし、誰かのもののようにも思える。
気づくと、眠っていた。
夢を見た。誰かの夢。自分のものか、誰かのものか、わからない。でも──そこに光莉がいた。
『見つけてくれて、ありがとう』
光莉は言った。でも、その声はカノジョの声にも聞こえた。誰の声か、わからなかった。
「……光莉?」
『私は、もういない。でも──熱は残った。あなたの中に』
「それで、いいの?」
『それが伝線、というもの』
その言葉を、聞いたことがある。
カレシが、何度も繰り返してきた言葉。
でも、今は光莉が言っている。自分のものか、誰かのものか、わからない。
目が覚めた。誰もいない。カレシの気配だけが、かすかにそこにある。
「……夢を見た。光莉が出てきた」
「何て言っていた」
「『ありがとう』って。それから──熱は、私の中に残った、って」
カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
カノジョは立ち上がった。足は、もう震えていなかった。
「もう、いいや」
「何が」
「光莉を探すの。だって、もう『見つけた』から」
カレシは、少し間を置いた。答えられなかったのか、答えなかったのか。わからなかった。でも──わからなくていい。それが伝線、というものだ。
「じゃあ、帰ろう。カフェあおいへ。私たちが卒業した、あの場所へ」
時空の隙間を、二人は戻っていた。
行き先は決まっている。行きは「光莉を探す」旅。帰りは「自分たちの場所へ戻る」旅。
「手帳、まだある?」
「ある」
「最後のページ、まだ空いてる?」
「あいている、わけではない。もう、刻んだ」
「そっか。そこに、何か足すの?」
「決めていない。決めなくてもいい」
「卒業、ってやつね」
カノジョは笑った。その笑顔は、さっきよりもずっと、自分のものに見えた。




