彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第11話 「手帳の最後のページ」
それから、どれだけ歩いただろう。
時空の隙間には、昼も夜もない。
ただ、どこまでも続く「何もない」だけ。
でも、カノジョにはわかった。カレシの声が、少しずつ遠くなっている。気のせいではない。確かに──遠くなっている。
「休まない?」
「必要ない。私はシステムだ。休息は不要だ」
声は、かすかに掠れていた。
「システムが、声掠れるの?」
カレシは答えなかった。カノジョは追及しなかった。追及したら、彼が「もう限界です」と言いそうで怖かった。
歩きながら、自分の手を見る。透けていない。確かに「ある」。でも、その手は誰かの重みを抱えている。重みは、もうほとんど自分のものになっていた。
「私たち、光莉を見つけられるのかな」
「見つからないかもしれない」
「それでも、探すの?」
「それが『伝線』というものだ」
同じ言葉を、何度も聞いてきた。でも、その声は以前よりもずっと遠かった。
その時、視界の端がゆがんだ。
カレシの輪郭が、風に吹かれる砂のように薄くなっている。前よりも、はっきりと。
「……透けてる。前よりも、ずっと」
「気のせいだ」
「違う」
カノジョは立ち止まった。手を伸ばす。指先が、すり抜ける。触れた、とは言えない。温度も、ほとんどない。
「手帳、出して」
少し間があった。カレシは、震える手で手帳を差し出した。
最後のページ。あと一枚だけ、白い余白が残っている。
「あなた、私のために、自分の領域を削ってきたんだね」
沈黙が返ってきた。
「ありがとう。今まで、本当にありがとう」
「……礼を言われる筋合いはない」
「でも、言う。言いたいから、言う。それが『人間』ってものだよ」
カレシの輪郭が、さらに薄くなった。もう「気配」に近い。
「……時間のようだ。私は、もう──」
「やめて。『もう』なんて、言わないで」
「事実だ。残存領域は、もう限界だ」
カノジョは、白いページを指さした。
「ここに、刻んで。あなたの『名前』を」
「私は、名前を持たない」
「じゃあ、『カレシ』でいい。あなたは、『カレシ』。私の──」
言葉が詰まった。
カレシは、その白いページをじっと見つめていた。そこに、何を刻むべきか。自分の名前か。それとも──
「……決めた」
声は、かすかに震えていた。
ペンが走る。一画。二画。三画。
それは、名前ではなかった。数字でもなかった。ただの──猫のマーク。
でも、これまでのものとは違う。もっと大きく。もっと深く。もっと──熱を込めて。
「……これで、最後だ。これで、私の『記録』は終わる」
「終わらない。『終わり』じゃない。『始まり』」
カノジョは手を伸ばした。
今度は、指先に、かすかな抵抗があった。触れた、とは言えない。
でも、以前のようにすり抜ける感触ではなかった。輪郭が、少しだけ濃くなった気がする。気のせいかもしれない。でも──もし気のせいじゃなかったら。
「……どうやら、まだ消えそうにない」
声は、さっきよりも近かった。
「当たり前でしょ。あなた、私に『ありがとう』って言われて、まだ消えるわけにはいかないでしょ」
「……理不尽な論理だ」
その声には、かすかな温もりが混ざっていた。
カレシは一人、手帳を開いた。
最後のページ。大きく深く刻まれた猫のマーク。これまでのものとは違う。これは──彼の名前だった。
指でなぞる。温かい。自分のものか、カノジョのものか、わからない。でも──それでいい。それが「生きる」ということだ。
「カレシ、次、行こう」
声は、すぐ隣からした。
彼は手帳を閉じた。
「……今行く」
声は近かった。冷たさの奥に、熱が混ざっている。
カノジョは、先に歩き出した。振り返らない。カレシが、その半歩後ろにいることだけを、確かめるように。




