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【観測者の時空】――『彼女の時空』外縁、与えられた役割から卒業し、不完全な世界で自分の物語を選んでいく  作者: Taku
物語編 2『卒業後の彷徨う熱』

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彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第10話 「残ったもの」

光莉の「熱」を感じてから、どれだけの時間が経っただろう。


カノジョはその場に座り込んだまま、動けなかった。


自分の手を見ている。

透けていない。確かに「ある」。

でも、その手は誰かの重みを抱えている。

誰かの色が視界の端でちらつく。

誰かの声が耳の奥でささやく。

誰かの感触が指先に残る。

誰かの匂いが鼻をくすぐる。

誰かの味が口の中に広がる。


それが全部、自分のもののようにも思えるし、誰かのもののようにも思える。


「……カレシ」


返事は、少し遅れて返ってきた。


「何だ」


声がする。遠い。でも、はっきりと聞こえる。以前よりも、少しだけかすれている気がした。


「私、これからどうすればいいんだろう」


「あなたはもう、『観測者』ではない。『探す』という役割も終わった。光莉の『熱』は、あなたの中にある。」


「じゃあ、もう……終わり?」


「終わりではない。『始まり』だ。あなたはこれから、その『熱』を抱えて生きていく。それだけのことだ」


カノジョは立ち上がった。足が震えている。自分のものか、誰かのものか、わからない。でも、立たなければ。


「あなたの声、さっきより遠い気がする」


「気のせいだ」


その声は、確かに遠かった。追及しなかった。追及したら、何かが壊れる気がしたから。


時空の隙間を、二人は歩いていた。行き先はない。ただ、「歩く」という行為だけが、彼らを前に進ませる。


歩いているうちに、カノジョの中のノイズが次第に静まっていった。


誰かの重みが、自分の重みになった。

誰かの色が、自分の視界を彩った。

誰かの声が、自分の言葉になった。

誰かの感触が、自分の手に馴染んだ。

誰かの匂いが、自分の記憶になった。

誰かの味が、自分の好みになった。


「……なんだ、これ」


「『慣れた』のかな」


「そうかもしれない。ノイズは、時間と共に『自分のもの』になる。それが『適応』というものだ」


「それって、『忘れる』ってこと?」


「違う。『忘れる』のではなく、『受け入れる』のだ。それが『生きる』ということだ」


その時、カノジョの視界に、かすかな違和感が映った。


カレシの輪郭。ぼんやりと見える。でも、以前よりもずっと薄い。


「……あなた、透けてない?」


「気のせいだ」


声は、わずかに震えていた。


「違う。透けてる。私たち、『形』を得たのは私だけ? あなたは──そのまま?」


カレシは答えなかった。答えられなかったのか、答えなかったのか。わからなかった。


「……そういうことか」


カノジョは呟いた。


「あなたは、自分の『領域』を削って、私を『形』にしたんだ。そうでしょ?」


沈黙が、そのまま答えになった。


カノジョは、自分の手を見た。透けていない。確かに「ある」。でも、その手があるのは、彼が自分の領域を削ったからだ。


「手帳、見せて」


少し間があった。やがて、カレシは手帳を差し出した。手は、少し震えていた。


カノジョは、その手帳を開いた。


びっしりと並んだ監査ログの合間に、無数の猫マークが刻まれている。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けていた。そうすることで、かろうじて「消えない」状態を維持している。


「……これ、全部──」


「自分の存在を圧縮したものだ。あなたがノイズを取り込むたびに、私は領域を削られた。そのたびに、自分の一部をマークに変えて、ここに貼り付けた」


「それで、『消えない』ようにしてたの?」


「そうだ」


「じゃあ、手帳がなくなったら──」


「消える」


何の感情も込めずに、ただの事実として。


最後のページを開いた。白い。何も刻まれていない。


「あと一枚、だね」


「そうだ」


「ここに、何を刻むの?」


「決めていない」


「決めなくてもいい、とか言わないでよ」


「それが『卒業』というものだ、とは言わない。ただ──まだ、決めていない」


カノジョは、もう一度手帳を見た。

無数の猫マーク。その一つ一つが、彼の消えかけた瞬間だった。でも、彼は消えなかった。消えなかったから、ここにいる。


「……ありがとう。今まで、本当にありがとう」


カレシは答えなかった。

でも、その沈黙が答えだった。


カノジョは手帳を返した。カレシはそれを受け取り、ゆっくりと閉じた。最後の白いページは、まだ空いたままだった。


「次、行こう」


カノジョの声は、すぐ隣からした。


カレシは手帳を懐に収めた。


「……今行く」


その声は、いつも通り冷たかった。

でも、手帳を懐に収める指先だけが、わずかに遅れて動いた。


カノジョは、それを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。

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