彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第10話 「残ったもの」
光莉の「熱」を感じてから、どれだけの時間が経っただろう。
カノジョはその場に座り込んだまま、動けなかった。
自分の手を見ている。
透けていない。確かに「ある」。
でも、その手は誰かの重みを抱えている。
誰かの色が視界の端でちらつく。
誰かの声が耳の奥でささやく。
誰かの感触が指先に残る。
誰かの匂いが鼻をくすぐる。
誰かの味が口の中に広がる。
それが全部、自分のもののようにも思えるし、誰かのもののようにも思える。
「……カレシ」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「何だ」
声がする。遠い。でも、はっきりと聞こえる。以前よりも、少しだけかすれている気がした。
「私、これからどうすればいいんだろう」
「あなたはもう、『観測者』ではない。『探す』という役割も終わった。光莉の『熱』は、あなたの中にある。」
「じゃあ、もう……終わり?」
「終わりではない。『始まり』だ。あなたはこれから、その『熱』を抱えて生きていく。それだけのことだ」
カノジョは立ち上がった。足が震えている。自分のものか、誰かのものか、わからない。でも、立たなければ。
「あなたの声、さっきより遠い気がする」
「気のせいだ」
その声は、確かに遠かった。追及しなかった。追及したら、何かが壊れる気がしたから。
時空の隙間を、二人は歩いていた。行き先はない。ただ、「歩く」という行為だけが、彼らを前に進ませる。
歩いているうちに、カノジョの中のノイズが次第に静まっていった。
誰かの重みが、自分の重みになった。
誰かの色が、自分の視界を彩った。
誰かの声が、自分の言葉になった。
誰かの感触が、自分の手に馴染んだ。
誰かの匂いが、自分の記憶になった。
誰かの味が、自分の好みになった。
「……なんだ、これ」
「『慣れた』のかな」
「そうかもしれない。ノイズは、時間と共に『自分のもの』になる。それが『適応』というものだ」
「それって、『忘れる』ってこと?」
「違う。『忘れる』のではなく、『受け入れる』のだ。それが『生きる』ということだ」
その時、カノジョの視界に、かすかな違和感が映った。
カレシの輪郭。ぼんやりと見える。でも、以前よりもずっと薄い。
「……あなた、透けてない?」
「気のせいだ」
声は、わずかに震えていた。
「違う。透けてる。私たち、『形』を得たのは私だけ? あなたは──そのまま?」
カレシは答えなかった。答えられなかったのか、答えなかったのか。わからなかった。
「……そういうことか」
カノジョは呟いた。
「あなたは、自分の『領域』を削って、私を『形』にしたんだ。そうでしょ?」
沈黙が、そのまま答えになった。
カノジョは、自分の手を見た。透けていない。確かに「ある」。でも、その手があるのは、彼が自分の領域を削ったからだ。
「手帳、見せて」
少し間があった。やがて、カレシは手帳を差し出した。手は、少し震えていた。
カノジョは、その手帳を開いた。
びっしりと並んだ監査ログの合間に、無数の猫マークが刻まれている。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けていた。そうすることで、かろうじて「消えない」状態を維持している。
「……これ、全部──」
「自分の存在を圧縮したものだ。あなたがノイズを取り込むたびに、私は領域を削られた。そのたびに、自分の一部をマークに変えて、ここに貼り付けた」
「それで、『消えない』ようにしてたの?」
「そうだ」
「じゃあ、手帳がなくなったら──」
「消える」
何の感情も込めずに、ただの事実として。
最後のページを開いた。白い。何も刻まれていない。
「あと一枚、だね」
「そうだ」
「ここに、何を刻むの?」
「決めていない」
「決めなくてもいい、とか言わないでよ」
「それが『卒業』というものだ、とは言わない。ただ──まだ、決めていない」
カノジョは、もう一度手帳を見た。
無数の猫マーク。その一つ一つが、彼の消えかけた瞬間だった。でも、彼は消えなかった。消えなかったから、ここにいる。
「……ありがとう。今まで、本当にありがとう」
カレシは答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
カノジョは手帳を返した。カレシはそれを受け取り、ゆっくりと閉じた。最後の白いページは、まだ空いたままだった。
「次、行こう」
カノジョの声は、すぐ隣からした。
カレシは手帳を懐に収めた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。
でも、手帳を懐に収める指先だけが、わずかに遅れて動いた。
カノジョは、それを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。




