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【観測者の時空】エッセイから物語へ その違和感は、未来のバグです。―『彼女の時空:0612』へ繋がる伝線―  作者: Taku
物語編『卒業後の彷徨う熱』

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彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第8話 「見えないものを探す」

五感が全て揃った。


カノジョは自分の手を見た。

透けていない。

確かに「ある」。

質量。色。音。感触。匂い。味。

それらが一つになり、彼女の中で響き合っている。──はずだった。


「……カレシ」


「何だ」


「なんか、変」


「どう変だ」


「わからない。でも──なんか、変」


歩き始めてから、どれだけの時間が経っただろう。光莉の「気配」は、どんどん近くなっている。でも、その前に──彼女の中で何かが、狂い始めていた。


最初は、視界が二重になった。

自分の「色」と、誰かの「色」が重なる。


次に、耳鳴りがした。

自分の「声」と、誰かの「声」が混ざる。


そして──感触。

自分の「皮膚」と、誰かの「皮膚」が、同じ場所にある感覚。


「……っ」


カノジョは立ち止まった。


「大丈夫か」


カレシの声がする。

少し遠い。でも、はっきりと聞こえる。


「大丈夫──じゃない」


カノジョは自分の腕を掴んだ。自分の腕なのに、自分のものじゃないみたいだった。


「ノイズが、勝手に──動いてる」


「どういうことだ」


「わからない。でも、今までバラバラだったのが──一つになろうとしてる。勝手に。私の意志とは関係なく」


カレシは、少し間を置いた。


「……体内の過負荷だ」


「え?」


「あなたは五感を個別に取り込んだ。それぞれを『情報』として処理できていた。だが、それが今──一つになった。『情報』ではなく『体験』として。」


「『体験』?」


「そうだ。あなたは今、『誰かの生きていた感覚』を、自分のものとして同時に体験している。質量、色、音、感触、匂い、味──それらが一つになった時、それはもはや『ノイズ』ではない。『記憶』だ。」


カノジョは、その言葉の意味を理解しようとして──やめた。考える前に、身体が反応していた。


気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。


自分の手が震えている。

自分のものか、誰かのものか、わからない。でも──震えている。


視界が歪む。

自分の記憶なのか、誰かの記憶なのか。


雨の日。傘を差さずに歩いていた。

誰かが後ろから呼んだ気がした。

振り返った。

誰もいない。

でも──確かに、そこに「いた」。


「……光莉?」


カノジョは呟いた。

返事はない。

でも、その「誰かの記憶」の中に、確かに「誰か」の気配があった。

それが光莉なのか、それとも別の誰かなのか──もうわからなかった。


「カレシ──私、熱い」


「熱い?」


「身体が──燃えそう」


カレシは、その場で立ち止まった。

彼には「熱」は感じられない。

でも──彼女の声には、確かに「熱」があった。自分が持っていないものを、彼女は今、感じている。


「……システムエラーだ」


カレシは言った。


「あなたは今、人間の『五感』を手に入れた。だが──その代償として、『感情』も同時に手に入れている。喜び、悲しみ、痛み、そして──」


「そして?」


「『恐怖』だ」


カノジョは、その言葉を聞いた瞬間、はっきりと理解した。自分が今感じているのは「熱」ではない。誰かの「熱」が、自分のものになった混乱。そして──その先にある「消えるかもしれない」という恐怖。


その時だった。カノジョの身体が、再び激しく拒絶反応を起こした。

今までのどの時よりも、深く。内側から。

今までのノイズは「情報」として処理できていた。しかし──五感が全て揃った今、それらは「体験」として、彼女の中を駆け巡る。


誰かの重みが、彼女の足を重くする。

誰かの色が、彼女の視界を歪める。

誰かの声が、彼女の耳にささやく。

誰かの感触が、彼女の手を震わせる。

誰かの匂いが、彼女の鼻をくすぐる。

誰かの味が、彼女の口の中に広がる。


それらが一斉に、同時に──カノジョの中で衝突する。自分のものか、誰かのものか、わからない。区別がつかない。もう、何が何だか。


「……カレシ」


声が震える。自分の声なのに、誰かの声のように遠い。


「たす、けて……」


その言葉が、カノジョの口から漏れた。これまで何度も「助けて」と言いかけて、飲み込んできた言葉。


でも、今回は違った。自分で自分の身体をコントロールできない。本当に、壊れそうだった。


カレシは、その瞬間──初めて「焦り」を顔に浮かべた。冷徹な監査官の仮面が、ほんの一瞬だけ剥がれた。


「……くそっ」


彼は呟いた。

そして──手帳を開いた。

最後から二番目のページ。

そこには、まだ何も刻まれていない。


「カレシ、やめて」


カノジョは言った。自分の身体は動かない。でも、声だけは何とか出る。


「もう、私のためにページを使わないで」


「うるさい」


カレシは言った。声は冷たい。でも、その冷たさの中に、かすかな「震え」が混ざっている。


「これはあなたの旅じゃない。私の任務だ」


「任務って──観測者じゃなくなったのに」


「観測者じゃなくなっても、私は私だ」


カレシは、ペンを走らせた。

一画。二画。三画。猫のマーク。

それが、彼の「生存戦略」だった。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。


今回は、今までで最も多くの領域を削った。最後から二番目のページを、全て使って。カノジョの「過負荷」を肩代わりするために。


「……これで、どうだ」


彼の指先が、明らかに透けている。それでも、彼は構わなかった。


カノジョには、その「透け方」がわかった。


触覚を得た彼女は、彼の「冷たさ」と、その裏にある「信じられないほどの熱量」を、皮膚感覚として知っている。

彼が削られるたびに、自分の何かも一緒に削られているような感覚があった。


ノイズが収まるまで、どれだけの時間が経っただろう。


カノジョは、ゆっくりと息を整えた。

呼吸はない。でも、「する」という感覚だけは、なぜか戻ってきた。


自分の手を見る。透けていない。

確かに「ある」。

でも、その手は誰かの重みを抱えている。

誰かの色が視界の端でちらつく。

誰かの声が耳の奥でささやく。

誰かの感触が指先に残る。

誰かの匂いが鼻をくすぐる。

誰かの味が口の中に広がる。


それが全部、自分のものになった。誰かのものではなく、自分のものとして、そこにある。


「……カレシ」


「何だ」


「ありがとう」


カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。


「ねえ、その手帳──」


「見るな」


カレシは言った。でも、カノジョはもう見てしまっていた。最後から二番目のページ。そこには、無数の猫マークが刻まれている。前回よりも、もっと多く。もっと深く。その余白は──もう、ほとんど残っていなかった。


「……あと、一枚?」


「そうだ」


カレシは言った。


「最後の一枚が残っている。それで──終わる」


「終わるって、何が」


「私の『記録』が」


カノジョは、その言葉の意味を考えようとして──やめた。考えることが、怖かった。


その時だった。


カレシの身体が、大きく揺れた。倒れはしなかった。でも──その輪郭が、一瞬だけ「ぼやけた」。


「カレシ!」


カノジョは手を伸ばした。彼の手を掴んだ。冷たい。でも──その冷たさの中に、確かに「熱」があった。自分のものか、彼のものか、わからない。でも──離したくなかった。


「……離せ」


カレシの声は、いつも通り冷たい。でも、その声の奥で、何かが「壊れかけて」いるのがわかった。


「離さない」


カノジョは言った。


「私、もう決めたから。あなたを──」


「行くぞ」


カレシは、カノジョの手を振りほどいた。その手つきは、以前よりもずっと「冷たかった」。感情を削ぎ落とされた──ただの「システム」のそれだった。


「光莉が、待っている」


時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。


残りページ──あと一枚。


彼は、その最後のページを開いた。白い。何も刻まれていない。


「……これで、最後か」


彼は呟いた。誰にでもなく。ただ、自分の記録として。


これまでの猫マークの一つ一つは、彼が消えかけるたびに自分の存在を圧縮保存した「生存戦略」だった。


カノジョがノイズを取り込むたびに、彼の領域は削られ、そのたびに彼は自分の一部をマークに変えて手帳に貼り付けた。手帳の残りが一枚。それが意味することを、彼は知っていた。


彼はペンを走らせようとして──止めた。


まだ、決めていない。でも、決めなくてもいい。それが「卒業」というものだ。


「カレシ、次の場所──もう見えてる」


カノジョの声がする。

すぐ隣から。

彼女の声は、もう「遠く」ではない。

はっきりと、近くに聞こえる。

でも──彼の耳には、なぜか「遠く」に感じられた。

自分が、遠くなっている。

自分が、薄くなっている。


カレシは手帳を閉じた。


「……今行く」


その声は、いつも通り冷たかった。

でも、その冷たさの中に──かつてあった「熱」は、もうなかった。


カノジョはそれに気づいている。

気づいていて、何も言えない。

それが、彼女の「無力さ」だった。


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