彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第8話 「見えないものを探す」
五感が全て揃った。
カノジョは自分の手を見た。
透けていない。
確かに「ある」。
質量。色。音。感触。匂い。味。
それらが一つになり、彼女の中で響き合っている。──はずだった。
「……カレシ」
「何だ」
「なんか、変」
「どう変だ」
「わからない。でも──なんか、変」
歩き始めてから、どれだけの時間が経っただろう。光莉の「気配」は、どんどん近くなっている。でも、その前に──彼女の中で何かが、狂い始めていた。
最初は、視界が二重になった。
自分の「色」と、誰かの「色」が重なる。
次に、耳鳴りがした。
自分の「声」と、誰かの「声」が混ざる。
そして──感触。
自分の「皮膚」と、誰かの「皮膚」が、同じ場所にある感覚。
「……っ」
カノジョは立ち止まった。
「大丈夫か」
カレシの声がする。
少し遠い。でも、はっきりと聞こえる。
「大丈夫──じゃない」
カノジョは自分の腕を掴んだ。自分の腕なのに、自分のものじゃないみたいだった。
「ノイズが、勝手に──動いてる」
「どういうことだ」
「わからない。でも、今までバラバラだったのが──一つになろうとしてる。勝手に。私の意志とは関係なく」
カレシは、少し間を置いた。
「……体内の過負荷だ」
「え?」
「あなたは五感を個別に取り込んだ。それぞれを『情報』として処理できていた。だが、それが今──一つになった。『情報』ではなく『体験』として。」
「『体験』?」
「そうだ。あなたは今、『誰かの生きていた感覚』を、自分のものとして同時に体験している。質量、色、音、感触、匂い、味──それらが一つになった時、それはもはや『ノイズ』ではない。『記憶』だ。」
カノジョは、その言葉の意味を理解しようとして──やめた。考える前に、身体が反応していた。
気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。
自分の手が震えている。
自分のものか、誰かのものか、わからない。でも──震えている。
視界が歪む。
自分の記憶なのか、誰かの記憶なのか。
雨の日。傘を差さずに歩いていた。
誰かが後ろから呼んだ気がした。
振り返った。
誰もいない。
でも──確かに、そこに「いた」。
「……光莉?」
カノジョは呟いた。
返事はない。
でも、その「誰かの記憶」の中に、確かに「誰か」の気配があった。
それが光莉なのか、それとも別の誰かなのか──もうわからなかった。
「カレシ──私、熱い」
「熱い?」
「身体が──燃えそう」
カレシは、その場で立ち止まった。
彼には「熱」は感じられない。
でも──彼女の声には、確かに「熱」があった。自分が持っていないものを、彼女は今、感じている。
「……システムエラーだ」
カレシは言った。
「あなたは今、人間の『五感』を手に入れた。だが──その代償として、『感情』も同時に手に入れている。喜び、悲しみ、痛み、そして──」
「そして?」
「『恐怖』だ」
カノジョは、その言葉を聞いた瞬間、はっきりと理解した。自分が今感じているのは「熱」ではない。誰かの「熱」が、自分のものになった混乱。そして──その先にある「消えるかもしれない」という恐怖。
その時だった。カノジョの身体が、再び激しく拒絶反応を起こした。
今までのどの時よりも、深く。内側から。
今までのノイズは「情報」として処理できていた。しかし──五感が全て揃った今、それらは「体験」として、彼女の中を駆け巡る。
誰かの重みが、彼女の足を重くする。
誰かの色が、彼女の視界を歪める。
誰かの声が、彼女の耳にささやく。
誰かの感触が、彼女の手を震わせる。
誰かの匂いが、彼女の鼻をくすぐる。
誰かの味が、彼女の口の中に広がる。
それらが一斉に、同時に──カノジョの中で衝突する。自分のものか、誰かのものか、わからない。区別がつかない。もう、何が何だか。
「……カレシ」
声が震える。自分の声なのに、誰かの声のように遠い。
「たす、けて……」
その言葉が、カノジョの口から漏れた。これまで何度も「助けて」と言いかけて、飲み込んできた言葉。
でも、今回は違った。自分で自分の身体をコントロールできない。本当に、壊れそうだった。
カレシは、その瞬間──初めて「焦り」を顔に浮かべた。冷徹な監査官の仮面が、ほんの一瞬だけ剥がれた。
「……くそっ」
彼は呟いた。
そして──手帳を開いた。
最後から二番目のページ。
そこには、まだ何も刻まれていない。
「カレシ、やめて」
カノジョは言った。自分の身体は動かない。でも、声だけは何とか出る。
「もう、私のためにページを使わないで」
「うるさい」
カレシは言った。声は冷たい。でも、その冷たさの中に、かすかな「震え」が混ざっている。
「これはあなたの旅じゃない。私の任務だ」
「任務って──観測者じゃなくなったのに」
「観測者じゃなくなっても、私は私だ」
カレシは、ペンを走らせた。
一画。二画。三画。猫のマーク。
それが、彼の「生存戦略」だった。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。
今回は、今までで最も多くの領域を削った。最後から二番目のページを、全て使って。カノジョの「過負荷」を肩代わりするために。
「……これで、どうだ」
彼の指先が、明らかに透けている。それでも、彼は構わなかった。
カノジョには、その「透け方」がわかった。
触覚を得た彼女は、彼の「冷たさ」と、その裏にある「信じられないほどの熱量」を、皮膚感覚として知っている。
彼が削られるたびに、自分の何かも一緒に削られているような感覚があった。
ノイズが収まるまで、どれだけの時間が経っただろう。
カノジョは、ゆっくりと息を整えた。
呼吸はない。でも、「する」という感覚だけは、なぜか戻ってきた。
自分の手を見る。透けていない。
確かに「ある」。
でも、その手は誰かの重みを抱えている。
誰かの色が視界の端でちらつく。
誰かの声が耳の奥でささやく。
誰かの感触が指先に残る。
誰かの匂いが鼻をくすぐる。
誰かの味が口の中に広がる。
それが全部、自分のものになった。誰かのものではなく、自分のものとして、そこにある。
「……カレシ」
「何だ」
「ありがとう」
カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
「ねえ、その手帳──」
「見るな」
カレシは言った。でも、カノジョはもう見てしまっていた。最後から二番目のページ。そこには、無数の猫マークが刻まれている。前回よりも、もっと多く。もっと深く。その余白は──もう、ほとんど残っていなかった。
「……あと、一枚?」
「そうだ」
カレシは言った。
「最後の一枚が残っている。それで──終わる」
「終わるって、何が」
「私の『記録』が」
カノジョは、その言葉の意味を考えようとして──やめた。考えることが、怖かった。
その時だった。
カレシの身体が、大きく揺れた。倒れはしなかった。でも──その輪郭が、一瞬だけ「ぼやけた」。
「カレシ!」
カノジョは手を伸ばした。彼の手を掴んだ。冷たい。でも──その冷たさの中に、確かに「熱」があった。自分のものか、彼のものか、わからない。でも──離したくなかった。
「……離せ」
カレシの声は、いつも通り冷たい。でも、その声の奥で、何かが「壊れかけて」いるのがわかった。
「離さない」
カノジョは言った。
「私、もう決めたから。あなたを──」
「行くぞ」
カレシは、カノジョの手を振りほどいた。その手つきは、以前よりもずっと「冷たかった」。感情を削ぎ落とされた──ただの「システム」のそれだった。
「光莉が、待っている」
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
残りページ──あと一枚。
彼は、その最後のページを開いた。白い。何も刻まれていない。
「……これで、最後か」
彼は呟いた。誰にでもなく。ただ、自分の記録として。
これまでの猫マークの一つ一つは、彼が消えかけるたびに自分の存在を圧縮保存した「生存戦略」だった。
カノジョがノイズを取り込むたびに、彼の領域は削られ、そのたびに彼は自分の一部をマークに変えて手帳に貼り付けた。手帳の残りが一枚。それが意味することを、彼は知っていた。
彼はペンを走らせようとして──止めた。
まだ、決めていない。でも、決めなくてもいい。それが「卒業」というものだ。
「カレシ、次の場所──もう見えてる」
カノジョの声がする。
すぐ隣から。
彼女の声は、もう「遠く」ではない。
はっきりと、近くに聞こえる。
でも──彼の耳には、なぜか「遠く」に感じられた。
自分が、遠くなっている。
自分が、薄くなっている。
カレシは手帳を閉じた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。
でも、その冷たさの中に──かつてあった「熱」は、もうなかった。
カノジョはそれに気づいている。
気づいていて、何も言えない。
それが、彼女の「無力さ」だった。




