表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【観測者の時空】エッセイから物語へ その違和感は、未来のバグです。―『彼女の時空:0612』へ繋がる伝線―  作者: Taku
物語編『卒業後の彷徨う熱』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/55

彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第7話 「最後の味」

次の「ノイズ」は、誰かの台所の跡地にあった。


そこには、無数の「味」が漂っていた。

甘いもの。

しょっぱいもの。

酸っぱいもの。

苦いもの。

そして——誰かの、最後に食べたものの味。それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。


五感のうち、残すはこれだけ。

質量、色、音、感触、匂い——そして、味。


「……ここ、なんか懐かしい」


カノジョは言った。自分の声なのに、どこか遠くに響く。


「この場所にいた者は、『食べたものの記憶』を味わっていた」


カレシの声がする。

少し遠い。

でも、はっきりと聞こえる。

彼の声は、以前よりも明らかに「かすれている」。

カノジョにはそれがわかる。

でも、指摘しなかった。


「一口ごとに、その食材が育った土地の土の味。誰かが愛情を込めて作ったなら、その人の体温の味。彼女はそれらをすべて『味』として感じていた」


「彼女なの?」


「記録にはない。ただ——そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」


カノジョは、その「味」の渦を感じ取った。これまでと違う。

質量を獲得した時は「重み」だった。

色を見た時は「鮮やかさ」だった。

音を聞いた時は「ざわつき」だった。

触れた時は「痛み」だった。

匂いを嗅いだ時は「記憶のフラッシュバック」だった。


そして今——味。


それは、最も「人間らしい」感覚だった。


「カレシ」


「何だ」


「これを取り込んだら、どうなる?」


「あなたの『味覚』が書き換えられる」


カレシは即答した。


「全てのものに『記憶の味』がつく。どんなに美味しいものでも、その背後にある誰かの苦労の味。どんなに不味いものでも、それを食べた誰かの空腹の味。選んで味わうことはできない」


「それって……」


「『食べる』という行為が、『誰かの人生を食べる』ことになる」


カノジョは、しばらくその「味」の渦を見つめていた。


──やる。


もう迷いはなかった。

でも、その決意とは裏腹に、彼女の足は震えていた。


前回の「嗅覚」で経験したフラッシュバックが、まだ頭の隅に残っている。

誰かの雨の日の記憶。

誰かの待っていた時間。

それが、今も彼女の中で燻っている。


「……大丈夫か」


カレシの声がする。


「大丈夫じゃない」


カノジョは正直に言った。


「でも——やる。これが最後のノイズだ」


「そうなる」


カレシは言った。


「あなたがこの『味』を取り込めば、五感が全て揃う。あなたは——『形』を得る」


カノジョは、その「味」の渦に手を突っ込んだ。


触れた瞬間——世界が、記憶の味で満たされた。

甘い味。誰かが初めて作ったクッキーの、少し焦げた味。しょっぱい味。誰かが一人で食べたカップ麺の、具なしの味。酸っぱい味。誰かが我慢できなくて食べた、青い果物の味。苦い味。誰かが最後に飲んだコーヒーの、冷めてしまった味。


それらが一斉にカノジョの中に流れ込んでくる。


今までのノイズと違うのは——それが「美味しい」と感じられることだった。

痛みではなかった。

拒絶ではなかった。

フラッシュバックでもなかった。

ただ、誰かの「生きていた」という証として、そこにあった。


気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。自分の口の中に、誰かの味が広がっている。それが誰の味なのか——自分でもわからなかった。

光莉の味なのか。それとも、この場所に「味」を遺した誰かの味なのか。


「……カレシ」


「何だ」


「私、今——何を食べてるんだろう」


「何も食べていない」


カレシは言った。


「あなたはただ、誰かの『記憶の味』を感じているだけだ」


「でも、お腹いっぱいなんだ」


カノジョは自分のお腹を撫でた。お腹はない。でも、なぜか「満たされた」感覚があった。


「これが——『生きてる』って感覚なのかな」


カレシは答えなかった。


その時だった。


カノジョは「おにぎり1個半」を思い出した。

自分が最初に「食べた」もの。

質量を得るきっかけになった、あの味。


「……ねえ、カレシ」


「何だ」


「私、何か食べたい」


「今は無理だ」


カレシは言った。


「ここには何もない」


「そうだね」


カノジョは笑った。でも、その笑顔は少しだけ「寂しそう」だった。


立ち上がろうとして、カノジョは違和感に気づいた。カレシが、いつものように手帳を開いていない。ペンを走らせていない。彼はただ、そこに立っていた。自分の領域を削ることなく。


「……カレシ」


「何だ」


「今、あなた——手帳、開かなかったね」


「開ける必要がなかった」


カレシは言った。


「今回は、あなたの『痛み』がなかった。だから——」


「じゃあ、あなたは自分の領域を削らなくて済んだの?」


「そうなる」


カノジョは、その言葉の意味を考えようとした。今回のノイズは「誰かの生きていた証」だった。痛みではなかった。拒絶ではなかった。だから——カレシは削らなくて済んだ。


「……よかった」


カノジョは呟いた。


「何が」


「あなたが、これ以上削られなくて済んだから」


カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。


その時だった。


カノジョの視界に、自分の手が映った。

透けていない。

確かに「ある」。

指の形。

爪の形。

手のひらの線。

一つ一つが、はっきりと「見える」。


「……カレシ」


「何だ」


「私——見える。自分の手が。ちゃんと『ある』」


「そうだ」


カレシは言った。


「あなたは今、『質量』を持ち、『色』を見、『声』を聞き、『感触』を知り、『匂い』を嗅ぎ、『味』を感じる。五感が全て揃った。」


「これで、私——」


「『人間』に、近づいた」


カレシの声は、いつも通り冷たかった。

でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。カノジョはそれに気づいている。気づいていて、何も言わない。


「カレシ、これ——食べてみる?」


カノジョは、ポケットから何かを取り出した。

ラムネ。一粒。

旅の途中で拾った、最後の一粒。


「いらない」


カレシは言った。でも、その声は少しだけ「迷っている」ように聞こえた。


「一つだけだから」


カノジョは、そのラムネを差し出した。


「ほら」


「……馬鹿なことを言うな」


カレシは言った。

でも、彼は受け取らなかった。

受け取れなかった。

正確には——受け取る「機能」が、もう彼には残っていなかった。


カノジョは、そのことに気づいてしまった。


五感が全て揃った今、彼女には「見えた」。


カレシがどれだけ削られてきたか。


彼の手帳の残りが、あと一枚しかないことも。


そして——彼にはもう、「味覚」自体が存在しないことも。


「……カレシ」


「何だ」


「あなた——」


「行くぞ」


カレシは言った。


「次の場所はない。もう、ノイズは全て回収した」


「じゃあ、私たち——」


「『光莉』を探しに行くんだろう」


カレシは、冷たく返した。でも、その瞳は、カノジョをまっすぐに見つめていた。


時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。


残りページ——あと一枚。


彼は、その最後のページを開いた。

白い。

何も刻まれていない。


「……味覚、か」


彼は呟いた。

人間だった頃の記憶はない。


でも——もし、カノジョが差し出したあのラムネを口にできていたら。


その甘さを感じられていたら。


彼は、ペンを走らせた。

自分のためのマークではない。

これは——カノジョのために刻む、最後のマークになるかもしれない。


「……これで、七つ目」


彼は呟いた。

誰にでもなく。

ただ、自分の記録として。


「カレシ、次の場所——もう見えてる」


カノジョの声がする。すぐ隣から。


カレシは手帳を閉じた。


「……今行く」


その声は、いつも通り冷たかった。


でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。


カノジョはそれに気づいている。


気づいていて——初めて、彼に近づいた。そして、そっと彼の手を握った。


「……なにをする」


カレシの声が、一瞬だけ震えた。


「なんでもない」


カノジョは笑った。


「ちょっと、触れてみたかっただけ」


その手のひらには、カレシの「冷たさ」があった。


でも——その奥に、確かに「熱」があった。


自分のものか、誰かのものか、わからない。


でも——それでいい。それが「伝線」というものだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ