彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第7話 「最後の味」
次の「ノイズ」は、誰かの台所の跡地にあった。
そこには、無数の「味」が漂っていた。
甘いもの。
しょっぱいもの。
酸っぱいもの。
苦いもの。
そして——誰かの、最後に食べたものの味。それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。
五感のうち、残すはこれだけ。
質量、色、音、感触、匂い——そして、味。
「……ここ、なんか懐かしい」
カノジョは言った。自分の声なのに、どこか遠くに響く。
「この場所にいた者は、『食べたものの記憶』を味わっていた」
カレシの声がする。
少し遠い。
でも、はっきりと聞こえる。
彼の声は、以前よりも明らかに「かすれている」。
カノジョにはそれがわかる。
でも、指摘しなかった。
「一口ごとに、その食材が育った土地の土の味。誰かが愛情を込めて作ったなら、その人の体温の味。彼女はそれらをすべて『味』として感じていた」
「彼女なの?」
「記録にはない。ただ——そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」
カノジョは、その「味」の渦を感じ取った。これまでと違う。
質量を獲得した時は「重み」だった。
色を見た時は「鮮やかさ」だった。
音を聞いた時は「ざわつき」だった。
触れた時は「痛み」だった。
匂いを嗅いだ時は「記憶のフラッシュバック」だった。
そして今——味。
それは、最も「人間らしい」感覚だった。
「カレシ」
「何だ」
「これを取り込んだら、どうなる?」
「あなたの『味覚』が書き換えられる」
カレシは即答した。
「全てのものに『記憶の味』がつく。どんなに美味しいものでも、その背後にある誰かの苦労の味。どんなに不味いものでも、それを食べた誰かの空腹の味。選んで味わうことはできない」
「それって……」
「『食べる』という行為が、『誰かの人生を食べる』ことになる」
カノジョは、しばらくその「味」の渦を見つめていた。
──やる。
もう迷いはなかった。
でも、その決意とは裏腹に、彼女の足は震えていた。
前回の「嗅覚」で経験したフラッシュバックが、まだ頭の隅に残っている。
誰かの雨の日の記憶。
誰かの待っていた時間。
それが、今も彼女の中で燻っている。
「……大丈夫か」
カレシの声がする。
「大丈夫じゃない」
カノジョは正直に言った。
「でも——やる。これが最後のノイズだ」
「そうなる」
カレシは言った。
「あなたがこの『味』を取り込めば、五感が全て揃う。あなたは——『形』を得る」
カノジョは、その「味」の渦に手を突っ込んだ。
触れた瞬間——世界が、記憶の味で満たされた。
甘い味。誰かが初めて作ったクッキーの、少し焦げた味。しょっぱい味。誰かが一人で食べたカップ麺の、具なしの味。酸っぱい味。誰かが我慢できなくて食べた、青い果物の味。苦い味。誰かが最後に飲んだコーヒーの、冷めてしまった味。
それらが一斉にカノジョの中に流れ込んでくる。
今までのノイズと違うのは——それが「美味しい」と感じられることだった。
痛みではなかった。
拒絶ではなかった。
フラッシュバックでもなかった。
ただ、誰かの「生きていた」という証として、そこにあった。
気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。自分の口の中に、誰かの味が広がっている。それが誰の味なのか——自分でもわからなかった。
光莉の味なのか。それとも、この場所に「味」を遺した誰かの味なのか。
「……カレシ」
「何だ」
「私、今——何を食べてるんだろう」
「何も食べていない」
カレシは言った。
「あなたはただ、誰かの『記憶の味』を感じているだけだ」
「でも、お腹いっぱいなんだ」
カノジョは自分のお腹を撫でた。お腹はない。でも、なぜか「満たされた」感覚があった。
「これが——『生きてる』って感覚なのかな」
カレシは答えなかった。
その時だった。
カノジョは「おにぎり1個半」を思い出した。
自分が最初に「食べた」もの。
質量を得るきっかけになった、あの味。
「……ねえ、カレシ」
「何だ」
「私、何か食べたい」
「今は無理だ」
カレシは言った。
「ここには何もない」
「そうだね」
カノジョは笑った。でも、その笑顔は少しだけ「寂しそう」だった。
立ち上がろうとして、カノジョは違和感に気づいた。カレシが、いつものように手帳を開いていない。ペンを走らせていない。彼はただ、そこに立っていた。自分の領域を削ることなく。
「……カレシ」
「何だ」
「今、あなた——手帳、開かなかったね」
「開ける必要がなかった」
カレシは言った。
「今回は、あなたの『痛み』がなかった。だから——」
「じゃあ、あなたは自分の領域を削らなくて済んだの?」
「そうなる」
カノジョは、その言葉の意味を考えようとした。今回のノイズは「誰かの生きていた証」だった。痛みではなかった。拒絶ではなかった。だから——カレシは削らなくて済んだ。
「……よかった」
カノジョは呟いた。
「何が」
「あなたが、これ以上削られなくて済んだから」
カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
その時だった。
カノジョの視界に、自分の手が映った。
透けていない。
確かに「ある」。
指の形。
爪の形。
手のひらの線。
一つ一つが、はっきりと「見える」。
「……カレシ」
「何だ」
「私——見える。自分の手が。ちゃんと『ある』」
「そうだ」
カレシは言った。
「あなたは今、『質量』を持ち、『色』を見、『声』を聞き、『感触』を知り、『匂い』を嗅ぎ、『味』を感じる。五感が全て揃った。」
「これで、私——」
「『人間』に、近づいた」
カレシの声は、いつも通り冷たかった。
でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。カノジョはそれに気づいている。気づいていて、何も言わない。
「カレシ、これ——食べてみる?」
カノジョは、ポケットから何かを取り出した。
ラムネ。一粒。
旅の途中で拾った、最後の一粒。
「いらない」
カレシは言った。でも、その声は少しだけ「迷っている」ように聞こえた。
「一つだけだから」
カノジョは、そのラムネを差し出した。
「ほら」
「……馬鹿なことを言うな」
カレシは言った。
でも、彼は受け取らなかった。
受け取れなかった。
正確には——受け取る「機能」が、もう彼には残っていなかった。
カノジョは、そのことに気づいてしまった。
五感が全て揃った今、彼女には「見えた」。
カレシがどれだけ削られてきたか。
彼の手帳の残りが、あと一枚しかないことも。
そして——彼にはもう、「味覚」自体が存在しないことも。
「……カレシ」
「何だ」
「あなた——」
「行くぞ」
カレシは言った。
「次の場所はない。もう、ノイズは全て回収した」
「じゃあ、私たち——」
「『光莉』を探しに行くんだろう」
カレシは、冷たく返した。でも、その瞳は、カノジョをまっすぐに見つめていた。
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
残りページ——あと一枚。
彼は、その最後のページを開いた。
白い。
何も刻まれていない。
「……味覚、か」
彼は呟いた。
人間だった頃の記憶はない。
でも——もし、カノジョが差し出したあのラムネを口にできていたら。
その甘さを感じられていたら。
彼は、ペンを走らせた。
自分のためのマークではない。
これは——カノジョのために刻む、最後のマークになるかもしれない。
「……これで、七つ目」
彼は呟いた。
誰にでもなく。
ただ、自分の記録として。
「カレシ、次の場所——もう見えてる」
カノジョの声がする。すぐ隣から。
カレシは手帳を閉じた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。
でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。
カノジョはそれに気づいている。
気づいていて——初めて、彼に近づいた。そして、そっと彼の手を握った。
「……なにをする」
カレシの声が、一瞬だけ震えた。
「なんでもない」
カノジョは笑った。
「ちょっと、触れてみたかっただけ」
その手のひらには、カレシの「冷たさ」があった。
でも——その奥に、確かに「熱」があった。
自分のものか、誰かのものか、わからない。
でも——それでいい。それが「伝線」というものだ。




