彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第6話 「記憶の匂い」
次の「ノイズ」は、誰かの書斎の跡地にあった。
そこには、無数の「匂い」が漂っていた。
紙の匂い。
インクの匂い。
コーヒーの匂い。
雨の匂い。
そして——誰かの、体温の匂い。
それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。
今までのノイズと違うのは、その「強度」だった。視覚や聴覚、触覚は「外部から入ってくるもの」として処理できた。
しかし嗅覚は違う。それは——内側から、直接、記憶を揺さぶる。
「……ここ、さっきまでと何か違う」
カノジョは自分の手を見た。
質量を得て、色が見え、聞こえない声が聞こえ、触れたものの温度を知った。
今度は「嗅覚」。五感のうち、あと二つ。
「この場所にいた者は、『記憶の匂い』を嗅ぎ分けていた」
カレシが淡々と説明する。
だが、その声は以前よりも少しだけ「かすれている」ような気がした。
「古い紙からは、それを書いた人の指先の熱。雨の日には、その日に泣いた誰かの涙の塩分。それらをすべて『匂い』として感じていた」
「誰?」
「記録にはない。ただ——そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」
カノジョは、その「匂い」の渦に手を伸ばしかけて、止めた。
前回の「触覚」の記憶が、まだ指先に残っている。
誰かの拒絶の感触。
誰かの「さわらないで」という声。
それが、まだ彼女の中で燻っている。
「カレシ」
「何だ」
「これを取り込んだら、どうなる?」
「あなたの『嗅覚』が書き換えられる」
カレシは即答した。
「全てのものに『記憶の匂い』がつく。新しいノートにも、その紙を作った誰かの汗の匂い。道端の石にも、そこに座って泣いた誰かの涙の匂い。選んで嗅ぐことはできない」
「それって……」
「『全てのものに過去がある』と、嫌というほど思い知らされるということだ」
カノジョは、しばらくその「匂い」の渦を見つめていた。──やる。彼女は言おうとして、口を閉じた。
その時だった。
彼女の中で、誰かの「匂い」が突然、大きくなった。
嗅覚ではない。
まだ取り込んでもいない。
でも——なぜか、感じる。
雨上がりのアスファルトの匂い。
古い本の埃の匂い。
そして——誰かの、懐かしい香水の匂い。
それは、彼女のものではなかった。
でも、どこかで「知っている」匂いだった。
「……なに、これ」
カノジョは呟いた。
自分の記憶ではない。
でも、自分のもののように蘇る。
誰かが雨の日に泣いた。
誰かが古い本を撫でた。
誰かが誰かの匂いを、ずっと忘れられずにいた。その「忘れられなかった」年月の重みが、カノジョの中に流れ込んでくる。まだ取り込んでもいないのに。
「カレシ——何か、おかしい」
「どうした」
「匂いが——勝手に、入ってくる」
カレシは、少し間を置いた。
「……吸収を待っていられないということだ。このノイズは、あなたを『選んでいる』」
「え?」
「この『匂い』は、誰かを待っていた。誰かに気づいてほしかった。そして——あなたが来たから、勝手に飛び込んできた」
カノジョは、その言葉の意味を理解しようとして——やめた。考える前に、身体が反応していた。
気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。
自分の手が震えている。
自分のものか、誰かのものか、わからない。でも——震えている。
視界が歪む。
自分の記憶なのか、誰かの記憶なのか。
雨の日。
傘を差さずに歩いていた。
誰かが後ろから呼んだ気がした。
振り返った。
誰もいない。
でも——確かに、そこに「いた」。
「……光莉?」
カノジョは呟いた。返事はない。でも、その「誰かの記憶」の中に、確かに「光莉の気配」があった。
「カレシ——光莉、ここにいたの?」
「さあな」
カレシの声がする。少し遠い。でも、はっきりと聞こえる。
「だが——この『匂い』は、あなたのものではない。誰かの『待っていた』という記憶の断片だ」
その時だった。
カノジョの身体が、再び激しく拒絶反応を起こした。先ほどの「触覚」の時よりも、もっと深く——内側から。
今までのノイズは「情報」として処理できていた。しかし嗅覚は違う。それは「記憶」と直結している。だから——逃げられない。
「っ……!」
カノジョは自分の口を押さえた。
吐き気。システムにはないはずの感覚。
でも、確かにそこにある。
誰かが経験した「痛み」が、彼女の身体を内側から蝕んでいく。
「……こんなの、聞いてない」
「言ったはずだ」
カレシの声がする。冷たい。でも、その冷たさの中に、かすかな「焦り」が混ざっている。
「『選んで嗅ぐことはできない』と」
「じゃあ、どうすれば——」
「落ち着け」
カレシは言った。
カレシは手帳を開いた。
そして——躊躇なく、自分の「領域」を削り始めた。
前回よりも、もっと。
もっと深く。
ペンを走らせる。
一画。
二画。
三画。
猫のマーク。
それが、彼の「生存戦略」だった。
消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。
今回は、今までで最も多くの領域を削った。カノジョの「痛み」を肩代わりするために。
「……これで、どうだ」
彼の声は、いつも通り冷たい。
でも、カノジョにはわかった。
彼の指先が、さっきよりもさらに「透けている」。
気のせいかもしれない。
でも——もし気のせいじゃなかったら。
ノイズが収まるまで、どれだけの時間が経っただろう。
カノジョは、その場に座り込んだまま、ゆっくりと息を整えた。
呼吸はない。
でも、「する」という感覚だけは、なぜか戻ってきた。
「……カレシ」
「何だ」
「さっきの『匂い』——光莉のだったのかな」
「さあ」
カレシは言った。
「あなたが『そう感じる』なら、それが答えだ」
「答えが出ないのに、『答え』なの?」
「そういうこともある」
カノジョは立ち上がった。
その時だった。
車内に——一瞬だけ、焦げ付いたような匂いが漂った。
電子機器が焼けるような。
金属が熱を持つような。
それは、カレシの「領域」が削られた時の匂いだった。
「……カレシ」
「何だ」
「今の匂い——あなたの?」
カレシは答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
あと、どれだけ持つか。
自分でもわからなかった。
でも——それでいい。
カノジョが「形」を得るなら。
彼女が「人間」に近づくなら。
「……これで、六つ目か」
彼は呟いた。
誰にでもなく。
ただ、自分の記録として。
そして、もう一度ペンを走らせた。
これは、自分のためのマークではない。
カノジョの「痛み」を肩代わりした証。
それを、彼はそっと手帳の余白に刻んだ。
残りページ——あと二枚。
「カレシ、次の場所、見えた」
カノジョの声がする。
もう遠くない。
すぐそこから。
彼は手帳を閉じた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。
でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。
カノジョはそれに気づいている。
気づいていて、何も言わない。
それが、彼女なりの「優しさ」だった。




