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【観測者の時空】エッセイから物語へ その違和感は、未来のバグです。―『彼女の時空:0612』へ繋がる伝線―  作者: Taku
物語編『卒業後の彷徨う熱』

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彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第6話 「記憶の匂い」

次の「ノイズ」は、誰かの書斎の跡地にあった。


そこには、無数の「匂い」が漂っていた。

紙の匂い。

インクの匂い。

コーヒーの匂い。

雨の匂い。

そして——誰かの、体温の匂い。

それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。


今までのノイズと違うのは、その「強度」だった。視覚や聴覚、触覚は「外部から入ってくるもの」として処理できた。

しかし嗅覚は違う。それは——内側から、直接、記憶を揺さぶる。



「……ここ、さっきまでと何か違う」


カノジョは自分の手を見た。

質量を得て、色が見え、聞こえない声が聞こえ、触れたものの温度を知った。


今度は「嗅覚」。五感のうち、あと二つ。


「この場所にいた者は、『記憶の匂い』を嗅ぎ分けていた」


カレシが淡々と説明する。

だが、その声は以前よりも少しだけ「かすれている」ような気がした。


「古い紙からは、それを書いた人の指先の熱。雨の日には、その日に泣いた誰かの涙の塩分。それらをすべて『匂い』として感じていた」


「誰?」


「記録にはない。ただ——そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」


カノジョは、その「匂い」の渦に手を伸ばしかけて、止めた。


前回の「触覚」の記憶が、まだ指先に残っている。

誰かの拒絶の感触。

誰かの「さわらないで」という声。

それが、まだ彼女の中で燻っている。


「カレシ」


「何だ」


「これを取り込んだら、どうなる?」


「あなたの『嗅覚』が書き換えられる」


カレシは即答した。


「全てのものに『記憶の匂い』がつく。新しいノートにも、その紙を作った誰かの汗の匂い。道端の石にも、そこに座って泣いた誰かの涙の匂い。選んで嗅ぐことはできない」


「それって……」


「『全てのものに過去がある』と、嫌というほど思い知らされるということだ」


カノジョは、しばらくその「匂い」の渦を見つめていた。──やる。彼女は言おうとして、口を閉じた。


その時だった。


彼女の中で、誰かの「匂い」が突然、大きくなった。

嗅覚ではない。

まだ取り込んでもいない。

でも——なぜか、感じる。

雨上がりのアスファルトの匂い。

古い本の埃の匂い。

そして——誰かの、懐かしい香水の匂い。


それは、彼女のものではなかった。

でも、どこかで「知っている」匂いだった。


「……なに、これ」


カノジョは呟いた。

自分の記憶ではない。

でも、自分のもののように蘇る。

誰かが雨の日に泣いた。

誰かが古い本を撫でた。

誰かが誰かの匂いを、ずっと忘れられずにいた。その「忘れられなかった」年月の重みが、カノジョの中に流れ込んでくる。まだ取り込んでもいないのに。


「カレシ——何か、おかしい」


「どうした」


「匂いが——勝手に、入ってくる」


カレシは、少し間を置いた。


「……吸収を待っていられないということだ。このノイズは、あなたを『選んでいる』」


「え?」


「この『匂い』は、誰かを待っていた。誰かに気づいてほしかった。そして——あなたが来たから、勝手に飛び込んできた」


カノジョは、その言葉の意味を理解しようとして——やめた。考える前に、身体が反応していた。


気づくと、カノジョはその場に座り込んでいた。

自分の手が震えている。

自分のものか、誰かのものか、わからない。でも——震えている。

視界が歪む。

自分の記憶なのか、誰かの記憶なのか。

雨の日。

傘を差さずに歩いていた。

誰かが後ろから呼んだ気がした。

振り返った。

誰もいない。

でも——確かに、そこに「いた」。


「……光莉?」


カノジョは呟いた。返事はない。でも、その「誰かの記憶」の中に、確かに「光莉の気配」があった。


「カレシ——光莉、ここにいたの?」


「さあな」


カレシの声がする。少し遠い。でも、はっきりと聞こえる。


「だが——この『匂い』は、あなたのものではない。誰かの『待っていた』という記憶の断片だ」


その時だった。

カノジョの身体が、再び激しく拒絶反応を起こした。先ほどの「触覚」の時よりも、もっと深く——内側から。

今までのノイズは「情報」として処理できていた。しかし嗅覚は違う。それは「記憶」と直結している。だから——逃げられない。


「っ……!」


カノジョは自分の口を押さえた。

吐き気。システムにはないはずの感覚。

でも、確かにそこにある。

誰かが経験した「痛み」が、彼女の身体を内側から蝕んでいく。


「……こんなの、聞いてない」


「言ったはずだ」


カレシの声がする。冷たい。でも、その冷たさの中に、かすかな「焦り」が混ざっている。


「『選んで嗅ぐことはできない』と」


「じゃあ、どうすれば——」


「落ち着け」


カレシは言った。


カレシは手帳を開いた。

そして——躊躇なく、自分の「領域」を削り始めた。

前回よりも、もっと。

もっと深く。

ペンを走らせる。

一画。

二画。

三画。

猫のマーク。

それが、彼の「生存戦略」だった。

消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。

今回は、今までで最も多くの領域を削った。カノジョの「痛み」を肩代わりするために。


「……これで、どうだ」


彼の声は、いつも通り冷たい。

でも、カノジョにはわかった。

彼の指先が、さっきよりもさらに「透けている」。

気のせいかもしれない。

でも——もし気のせいじゃなかったら。


ノイズが収まるまで、どれだけの時間が経っただろう。


カノジョは、その場に座り込んだまま、ゆっくりと息を整えた。

呼吸はない。

でも、「する」という感覚だけは、なぜか戻ってきた。


「……カレシ」


「何だ」


「さっきの『匂い』——光莉のだったのかな」


「さあ」


カレシは言った。


「あなたが『そう感じる』なら、それが答えだ」


「答えが出ないのに、『答え』なの?」


「そういうこともある」


カノジョは立ち上がった。

その時だった。

車内に——一瞬だけ、焦げ付いたような匂いが漂った。

電子機器が焼けるような。

金属が熱を持つような。

それは、カレシの「領域」が削られた時の匂いだった。


「……カレシ」


「何だ」


「今の匂い——あなたの?」


カレシは答えなかった。

でも、その沈黙が答えだった。


時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。


あと、どれだけ持つか。

自分でもわからなかった。

でも——それでいい。

カノジョが「形」を得るなら。

彼女が「人間」に近づくなら。


「……これで、六つ目か」


彼は呟いた。

誰にでもなく。

ただ、自分の記録として。

そして、もう一度ペンを走らせた。

これは、自分のためのマークではない。

カノジョの「痛み」を肩代わりした証。

それを、彼はそっと手帳の余白に刻んだ。


残りページ——あと二枚。


「カレシ、次の場所、見えた」


カノジョの声がする。

もう遠くない。

すぐそこから。


彼は手帳を閉じた。


「……今行く」


その声は、いつも通り冷たかった。

でも、その冷たさの中に、確かに「熱」が混ざっている。

カノジョはそれに気づいている。

気づいていて、何も言わない。


それが、彼女なりの「優しさ」だった。

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