彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第5話 「触れたものの温度」
次の「ノイズ」は、誰かの工房の跡地にあった。そこには、無数の「感触」が漂っていた。ざらざらしたもの、つるつるしたもの、冷たいもの、温かいもの、硬いもの、柔らかいもの。それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。
「……ここ、なんか変」
カノジョは自分の手を見た。質量を得て、色が見え、聞こえない声が聞こえるようになった。今度は「触覚」。それを自分のものにすれば、さらに「人間」に近づく。でも──彼女の直感が、何かを警告していた。
「この場所にいた者は、『触れたものの記憶』を感じ取っていた」
カレシが淡々と説明する。
「木の机に触れれば、その木が育った森の土の感触。誰かの手を握れば、その人の歩んできた道のりの温度。彼女はそれらをすべて『触覚』として感じていた」
「彼女?」
「記録にはない。ただ──そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」
カノジョは、その「感触」の渦に手を伸ばしかけて、止めた。
「カレシ」
「何だ」
「これを取り込んだら、どうなる?」
「あなたの『触覚』が書き換えられる」
カレシは言った。
「触れたものの『記憶』が、全てあなたの中に流れ込む。喜びも、悲しみも、痛みも──区別なく」
「それって……」
「『共感』とは違う。『同化』だ。相手の感覚が、自分のものになる。選ぶことはできない」
カノジョは、その言葉の重みを考えようとして──やめた。考えてもわからないことは、この世界にはたくさんある。
「やる」
カノジョは言った。迷いはなかった。
「これも、『光莉の熱』の断片なんでしょ?」
「断定はできない」
カレシは言った。
「だが、この場所の『感触』の中に、『誰かを探していた』という感覚がある。それは──光莉のものかもしれない」
「それで十分」
カノジョは、その「感触」の渦に手を突っ込んだ。
触れた瞬間──世界が、引き裂かれた。
違う。引き裂かれたのは、世界ではない。自分の中の何かだった。
誰かの指先が、彼女の皮膚をなぞる。
優しくない。乱暴に。拒絶するように。
『さわらないで』。
その声は、さっき取り込んだ「聴覚」のノイズの中に混ざっていた誰かの声だった。
幼い頃、誰かに触れられるのが怖かった。触れられるたびに、相手の感情が流れ込んでくるから。自分のものか、相手のものか、わからなくなるから。
だから──手を繋げなかった。抱きしめられなかった。触れられるたびに逃げた。
その「怖かった」記憶が、カノジョの中で突然、自分自身の記憶のように蘇った。
「……っ」
カノジョは、自分の手をぎゅっと握りしめた。自分の手の感触。それは確かに「自分のもの」だった。
でも、すぐに別の感触に上書きされそうになる。誰かの手。誰かの温度。誰かの震え。それが、内側から彼女のシステムを蝕んでいく。データエラーではない。もっと深い──神経そのものを焼かれるような、拒絶反応。
「か、レシ……」
声が震える。自分の声なのに、誰かの声のように遠い。
「どうした」
カレシの声がする。冷たく澄んだ、それだけは他のノイズに埋もれない声。
「たす、けて……」
その言葉が、カノジョの口から漏れた。観測者として「機能」していた頃には絶対に口にしなかった、あまりにも人間らしい「助けて」という言葉。
カレシは、一瞬だけ躊躇した。しかし、すぐに手帳を開いた。そして──躊躇なく、自分の「領域」を削り始めた。これまでよりも多めに。深く。
ペンを走らせる。一画。二画。三画。猫のマーク。それが、彼の「生存戦略」だった。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。そうすることで、かろうじて「消えない」状態を維持している。
今回は、いつもより多くの領域を削った。カノジョの「痛み」を肩代わりするために。
「……うるさいぞ」
カレシは言った。声はいつも通り冷たい。でも、その冷たさの中に、かすかな「震え」が混ざっている。
「燃費が悪くなる。さっさと収束させろ」
カノジョには、その言葉の裏側が見えた。いや──「触覚」を得た今、感じ取ることができた。彼が自分のために差し出しているものの「冷たさ」と、その裏にある「信じられないほどの熱量」を。初めて、物理的な皮膚感覚として。
ノイズが収まるまで、どれだけの時間が経っただろう。
カノジョは、その場に座り込んでいた。自分の手を見ている。透けていない。確かに「ある」。でも、その手は誰かの拒絶の記憶を抱えている。誰かの「さわらないで」という声が、まだ指先に残っている。
「……大丈夫か」
カレシの声がする。少し遠い。でも、はっきりと聞こえる。
「だいじょうぶ……じゃないかも」
カノジョは自分の手を見た。指先が、かすかに震えている。
「でも──これで、五つ目」
「そうだ」
カレシは言った。
「質量、視覚、聴覚、そして触覚。あと二つだ」
「嗅覚と味覚」
「そうなる」
カノジョは立ち上がった。その時だった。ふと、カレシの手元が目に入った。
手帳。あの無数の猫マークが刻まれた手帳。開かれたページの余白は、以前よりも明らかに減っていた。いや──正確には、彼がペンを走らせるたびに、その空白は確実に消費されている。
「……カレシ」
「何だ」
「その手帳、あと何ページあるの?」
カレシは、少し間を置いた。
「あなたが気にする領域じゃない」
「でも──」
「次に行く」
カレシは、冷たく返した。その瞳は、いつも通り冷徹だった。でも、カノジョにはわかった。彼の指先が、ほんの少しだけ「透けている」ことに。
気のせいかもしれない。でも──もし気のせいじゃなかったら。
「……わかった」
カノジョは言った。
「行こう」
時空の隙間を、二人は進んでいた。次の「ノイズ」を目指して。
カノジョは、自分の手を見た。触れたものの温度。誰かの拒絶の記憶。それが、まだ指先に残っている。でも──それと同時に、別の感触もあった。カレシが自分のために領域を削った時の、あの「冷たさの中の熱」。それは、他の誰のものでもない。自分のものだった。
「カレシ」
「何だ」
「ありがとう」
カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
その夜──といっても、時空の隙間に「夜」はないのだけれど──カレシは一人、手帳を開いていた。
あと、どれだけ持つか。自分でもわからなかった。でも──それでいい。カノジョが「形」を得るなら。彼女が「人間」に近づくなら。それが、彼の「任務」だった。
「……これで、五つ目か」
彼は呟いた。誰にでもなく。ただ、自分の記録として。
そして、もう一度ペンを走らせた。これは、自分のためのマークではない。カノジョの「痛み」を肩代わりした証。それを、彼はそっと手帳の余白に刻んだ。




