彷徨う熱【第1部:呼び声の在り処】第4話 「聞こえるはずのない声」
次の「ノイズ」は、誰かの記録室の跡地にあった。
そこには、無数の「声」が漂っていた。声というより、「音」の残響に近い。誰かの呟き。誰かの笑い声。誰かのため息。誰かの泣き声。それらが層のように重なり、時空の隙間で渦を巻いている。
「……ここ、すごい」
カノジョは思わず呟いた。彼女の声は、その「音」の渦に吸い込まれていった。
「この場所にいた者は、『聞こえないはずの音』を聞いていた」
カレシが淡々と説明する。
「空気の振動。建物の軋み。遠くの誰かの心臓の鼓動。そして──時空の隙間から漏れ出る『熱』。彼女はそれらをすべて『声』として聞いていた」
「彼女?」
「記録には残っていない。ただ──そういう能力を持つ者が、確かにここにいた」
カノジョは、その「声」の渦に手を伸ばしかけて、止めた。
「これを取り込んだら、どうなる?」
「あなたの『聴覚』が書き換えられる」
カレシは即答した。
「今まで聞こえなかったものが聞こえるようになる。同時に──聞こえるべきものが聞こえなくなるかもしれない」
「例えば、自分の声とか?」
「……そうなる可能性はある」
カノジョは、しばらくその「声」の渦を見つめていた。
質量を手に入れた。色が見えるようになった。次は「音」。それを自分のものにすれば、さらに「人間」に近づく。でも、その代償として、何かを失う。
──それでも。
「やる」
カノジョは言った。
「だって、これも『光莉の熱』の断片なんでしょ?」
「断定はできない」
カレシはいつも通り冷たく言った。
「だが、彼女に関係する可能性は、確かにある」
カノジョは、その「声」の渦に手を突っ込んだ。
触れた瞬間、世界が音で満たされた。
誰かの呟き。『今日は寒いな』。誰かの笑い声。『それ、面白いね』。誰かのため息。『また明日か』。誰かの泣き声。『ごめんね』。
それらが一斉にカノジョの中に流れ込んでくる。と同時に──「誰かの耳」が、彼女の脳裏に貼り付いた。
幼い頃、自分の心臓の音がうるさくて眠れなかった。規則的じゃない。時々、跳ねる。それが怖かった。でも、誰にも言えなかった。『気のせいだ』と言われるのがわかっていたから。それでも、やめられなかった。世界が「本当の音」を教えてくれるのを、ずっと待っていた。
その「待っていた」年月の重みが、またカノジョの中にどろりと流れ込んでくる。
気づくと、カノジョはその場にしゃがみ込んでいた。
「……大丈夫か」
カレシの声がする。でも、その声が「カレシの声」なのか、「誰かの声」なのか、カノジョにはわからなかった。
「だれ……?」
「カレシだ」
「……カレシ?」
カノジョは自分の声を聞いた。自分の声のはずなのに、誰かの声のように遠い。
「私の声、変?」
「聞こえている。だが、あなたの耳には、別の声も聞こえているのだろう」
カレシの声は、なぜかはっきりと聞こえた。他の声はすべて濁って、重なって、区別がつかないのに。彼の声だけは、冷たく澄んで、他のノイズに埋もれない。
「なんで、あなたの声だけ、はっきり聞こえるの?」
「さあな」
カレシは言った。
「私の声は『冷たい』からかもしれない。ノイズに染まらない。それだけのことだ」
「……そう、なのかな」
カノジョは、自分の耳を塞いだ。塞いでも、声は聞こえる。自分の心臓の音。誰かの心臓の音。それらが重なって、一つの鼓動になる。
ドクン、ドクン。
規則的じゃない。時々、跳ねる。
それが、自分の鼓動なのか、誰かの鼓動なのか──わからなかった。
「次、行こう」
カノジョは立ち上がった。足が、少し震えている。
「もう少しで、次の『熱』が見えてきそうな気がする」
「……無理をするな」
カレシが言った。
「あなたは今、質量と色と音のノイズを三つも抱えている。これ以上取り込めば──」
「『壊れる』って言いたいの?」
カノジョは笑った。その笑顔は、さっきよりももっと「誰かのもの」に見えた。
「でもね、カレシ。私たち、もうとっくに『壊れ始めてる』んだよ」
カレシは答えなかった。
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
そこには、びっしりと並んだ監査ログの合間に、無数の猫マークが刻まれている。彼は、その一つ一つを指でなぞった。
これは、彼自身の「生存戦略」だった。
消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けている。そうすることで、かろうじて「消えない」状態を維持している。
今回もまた──カノジョがノイズを取り込むたびに、彼の領域は削られていた。手帳に刻む猫マークは、また一つ増える。
カノジョは知らない。
彼がどれだけの代償を払っているのかを。
彼がどれだけ「壊れながら」、それでも彼女を支えているのかを。
「……これで、四つ目か」
彼は呟いた。誰にでもなく。ただ、自分の記録として。
「カレシー、早く!」
遠くから、カノジョの声がする。それは確かに「カノジョの声」だった。でも、その奥に、誰かの「待っていた」という声が重なっている。
カレシは手帳を閉じた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。でも、その冷たさの中に、ほんの少しだけ──「壊れかけている」という震えが混ざっている。
カノジョはそれに気づかない。まだ。




