彷徨う熱【第1部:呼び声の在り処】第3話 「視界に混ざる色」
次の「ノイズ」は、思いのほか早く見つかった。
カノジョが「こっち」と進んだ先は、誰かのアトリエの跡地だった。壁はなく、天井もない。ただ、白く塗り潰されたような空間が広がっている。でも──その「何もない」の中に、色があった。
「……すごい」
カノジョは思わず呟いた。
そこには、赤があった。青があった。黄があった。緑があった。紫があった。黒があった。白があった。そして、その間を埋める無数のグラデーション。それらが渦を巻き、重なり、混ざり合い、一瞬で別の色に変わる。
「これは──」
カレシが珍しく、言葉を詰まらせた。
「誰かが、『見えたもの』をここに残したのか」
「見えたもの?」
「そうだ。この場所にいた者は、世界を『色』で捉えていた。普通の人間には見えない、光の微妙なズレ。空気の揺らぎ。感情の移ろいさえも──『色』として見えていた」
カノジョは、その言葉にピンときた。これまで観測してきた人間たちの中に、同じような「能力」を持つ者がいた。名前は覚えていない。顔も思い出せない。でも、その「感覚」だけは、カノジョの中にかすかに残っていた。
「この『色』を──取り込めばいいの?」
「そうなる」
カレシは言った。
「だが、これは『質量』とは違う。視覚のノイズだ。取り込めば、あなたの『見え方』そのものが変わる」
「変わるって、具体的にどうなるの?」
「例えば──」
カレシは少し間を置いた。
「誰かの感情が、色として見えるようになる。喜びはオレンジ。悲しみは青。怒りは赤といった具合。それらが常に視界に貼り付く。選んで見ることはできない」
「それ、けっこうキツくない?」
「だから言った。『代償』があると」
カノジョは、しばらくその「色」の渦を見つめていた。美しかった。でも、同時に怖かった。この美しさを自分のものにしたら、もう元には戻れない。それはわかっていた。
「やるよ」
カノジョは言った。迷いはなかった。
「だって、これが『光莉の熱』の断片なんでしょ?」
「断定はできない。ただ、『彼女に関係する可能性が高い』というだけだ」
「それで十分」
カノジョは、自分の「手」を見た。前回よりも少しだけ、透けている面積が減っている。質量を得たことで、彼女の存在はほんの少しだけ「確定」した。
「私たち、光莉を探してるんだよね。だったら、彼女に関係するものは、なんでも取り込む。それが『伝線』を辿るってことだよ」
カレシは何も言わなかった。肯定も否定もしない。ただ、そこにいた。
カノジョは、その「色」の渦に手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が変わった。
赤。青。黄。緑。紫。黒。白。それらが一斉に彼女の中に流れ込んでくる。と同時に──「誰かの視界」が、彼女の脳裏に焼き付いた。
幼い頃、窓の外の空を見ていた。青いはずなのに、自分には違う色に見える。周りの大人はみんな「青いね」と言う。でも、自分には「紫がかった紺」に見える。違うと言ったら、笑われた。それからは黙った。でも、やめられなかった。世界が「本当の色」を見せてくれるのを、ずっと待っていた。
その「待っていた」年月の重みが、カノジョの中にどろりと流れ込んできた。
「……っ」
カノジョは、その場に崩れそうになった。手を伸ばして、なんとか踏みとどまった。
「大丈夫か」
カレシの声がする。いつも通り冷たい。でも、その声の奥で、何かが震えている。
「だい、じょうぶ……じゃないかも」
カノジョは、自分の手を見た。さっきよりもさらに「濃くなっている」。でも、同時に──手が震えている。自分の意思とは関係なく。
「……見える」
「何が」
「『色』が。あなたの声が、青く見える。さっきまで、そんなことなかったのに」
カレシは無言だった。
「それに──」
カノジョは自分の胸に手を当てた。心臓はない。でも、そこに「誰かの待っていた時間」が、ずしりと重く沈んでいた。
「この『待ってた』って感覚、私のもの? それとも、この色を遺した人のもの?」
「わからない」
カレシは正直に言った。
「それが『代償』だ。自分のものか、誰かのものか、区別がつかなくなる」
「……」
カノジョは、もう一度自分の手を見た。透けていない。確かに「ある」。でも、それは自分の手なのか、誰かの手なのか──わからなかった。
「とりあえず、次、行こう」
カノジョは言った。声は軽い。でも、その軽さには、かすかな震えが混ざっていた。
「もう少しで、次の『熱』が見えてきそうな気がする」
「……無理をするな」
カレシが言った。
「あなたは今、質量と視覚のノイズを二つも抱えている。これ以上取り込めば──」
「壊れる?」
カノジョは笑った。
「それってさ、『生きてる』ってことじゃないの。完璧なままでいるより、よっぽど『人間っぽい』よね」
カレシは答えなかった。答えられなかったのか、答えなかったのか。カノジョにはわからなかった。
でも──もし彼が「気配」ではなく「姿」を持っていたなら、今まさに手帳を開き、余白にまた一つ、猫のマークを刻んでいただろう。
それは、彼だけの「代償」だった。
時空の隙間を進みながら、カノジョはふと考えた。
さっき取り込んだ「色」のノイズ。それが光莉の熱の断片だという確証はない。でも、カノジョにはわかる気がした。あの「待っていた」感覚は、誰かを待っていたのではなく──「誰かに見つけてほしい」という願いだった。
光莉もまた、誰かに見つけてほしかった。
自分たちと同じように。
「カレシ」
「何だ」
「私たち、光莉を見つけられると思う?」
「わからない」
カレシは即答した。
「でも──もし見つけたとしても、それは『終わり』ではないだろう」
「どういう意味?」
「さあ」
カレシはそれ以上、何も言わなかった。
カノジョは、その言葉の意味を考えようとして、やめた。考えてもわからないことは、この世界にはたくさんある。それでいい。それが「伝線」というものだ。
遠くで、また誰かの「熱」が瞬いた。
カノジョは、それを感じながら、歩みを止めなかった。




