彷徨う熱【第1部:呼び声の在り処】第2話 「質量を持つということ」
旅に出ると決めたはいいものの、どこへ向かえばいいのか、カノジョにはまったく見当がつかなかった。
光莉の「熱」は拡散している。カレシはそう言った。ならば、その断片を一つずつ集めていけばいい。それはわかる。でも──「どこ」に拡散しているのか。
「まずは、『質量』を獲得するところからだ」
カレシが言った。二人はまだ「気配」のままだ。誰かに「見られる」ことでしか存在を確定できない、あの曖昧な状態。
「質量?」
「そうだ。あなたは『おにぎり1個半』を食べた。それで一時的に実体を得た。だが、それは消費すれば消える一時的なものだ。恒常的に『そこにいる』ためには──」
「『何か』を自分のものにしなきゃいけないってこと?」
「……その表現は乱暴だが、概ね正しい」
カレシは淡々と言った。しかし、その声の奥に、かすかな「迷い」が混ざっていることにカノジョは気づいていた。彼もまた、この方法が正しいのかどうか、確信を持てていないのだ。
「じゃあ、どこに行けばいいの?」
「私は監査官だ。観測はできるが、『感覚』には詳しくない」
「つまり、私のカンで行けと?」
「その通りだ」
カレシはあっさりと言い放った。
カノジョは「えー……」と声を漏らしたが、確かに彼の言う通りだった。感覚を取り戻しつつあるのは自分だけ。カレシはまだ「冷たさ」のままだ。
カノジョは、自分の「気配」を研ぎ澄ませた。
耳を澄ませる。手足はないが、なぜか「感じる」ことはできる。風の冷たさ。土の匂い。遠くの誰かの声の残響。
そして──かすかな「重み」。
「……こっち」
カノジョは言った。カレシは何も言わず、彼女の後に続いた。
二人の「気配」が、時空の隙間をすり抜けていく。誰も見えない。誰も気づかない。ただ、そこを「通り過ぎた」という痕跡だけが、かすかに残る。
辿り着いたのは、誰かの執務室の跡地だった。
机はない。椅子もない。壁もない。ただの更地。しかし、その「何もない」空間に、確かに「何か」が残っていた。
「ここは……」
「かつて、誰かが『決断』を繰り返した場所だ」
カレシが言った。
「長年にわたって、『選ぶこと』を避け続けた男がいた。彼は『決めない』という選択を貫いた。その『重み』が、この場所に染み込んでいる」
カノジョは、その「重み」を感じ取った。言葉にできない。でも、そこにあった。
「これを──取り込めばいいの?」
「そうなる。だが──」
「代償があるんでしょ?」
カノジョは、カレシの言わんとしていることを察した。ノイズを取り込むということは、そのノイズが持つ「痛み」も一緒に引き受けるということだ。
「わかってるよ。楽な方法じゃないってことくらい」
「それでも、やるのか」
「やるよ。だって、ここにじっとしてても、消えるだけだし」
カノジョは、自分の「気配」をギュッと縮こめた。そして──その「重み」に向かって、手を伸ばした。手はない。でも、「伸ばす」という感覚だけがあった。
触れた瞬間、カノジョの中に何かが流れ込んできた。
それは「決断しないことの重み」だった。
毎日、毎日、目の前に積まれる選択肢。どれを選んでも正解がない。どれを選んでも誰かが傷つく。だから──選ばなかった。選ばないことを選び続けた。
その積み重ね。
それが質量となって、カノジョの中に沈殿していく。
気づいた時には、カノジョは自分の「手」を見ていた。
ぼんやりと、透けている。でも──確かに「ある」。指先がかすかに熱い。
「……手、ある」
「質量を獲得したようだな」
カレシの声は、相変わらず冷たかった。でも、その声の奥で、ほんの少しだけ「安堵」が混ざっているような気がした。
「でも、なんだか……」
カノジョは自分の手を握ったり開いたりした。動く。自分の意志で動く。でも──どこか、自分のものじゃないような感覚があった。
「これは、誰かの『重み』だ」
カレシが言った。
「あなたのものではない。あなたはそれを『預かっている』だけだ」
「預かる……か」
カノジョは、その言葉を反芻した。
その時だった。
カノジョの視界が、一瞬だけブレた。自分のものではない映像が、脳裏をかすめた。
誰かの机。引き出しの中。黄ばんだ紙。そこに刻まれた数字。誰かがそれを握りしめている。離せない。離せない──。
「……っ」
カノジョは頭を振った。映像は消えた。
「どうした」
「いや、なんでもない。ちょっと、変なものが見えたような」
「それが『代償』だ」
カレシは言った。
「ノイズを取り込めば、そのノイズが持っていた『記憶』も混ざる。自分のものか、誰かのものか──区別がつかなくなる」
「それが『壊れる』ってこと?」
「そうなる」
カノジョは、自分の手をもう一度見た。
透けている。でも、さっきよりは少しだけ「濃くなった」気がする。
「……まだ、大丈夫。こんなもん、へっちゃらよ」
彼女は笑った。でも、その笑顔には、かすかな震えが混ざっていた。
「ところで、カレシ」
「何だ」
「あなたはさっき『私は監査官だ。観測はできるが、感覚には詳しくない』って言ったよね」
「それが何か」
「じゃあ、どうやって私の後についてきたの? 『感覚』がないのに、どこに『重み』があるかなんて、わからないはずでしょ」
カレシは答えなかった。
カノジョは、その沈黙の中に、彼なりの「答え」を見た気がした。彼もまた、何かを「感じている」。ただ、それを認めたくないだけ。
「……まあ、いいや」
カノジョは言った。
「とりあえず、最初の『ノイズ』、ゲットっと。これで私たちも一歩前進、だね」
「『前進』ではない」
カレシは冷たく言い放った。
「『後戻りできない場所に足を踏み入れた』だけだ」
「それでも、『進んだ』ことに変わりないでしょ」
カノジョは笑った。その笑顔は、さっきよりも少しだけ──「自分のもの」に見えた。
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
そこには、びっしりと文字が並んでいる。監査ログ。観測データ。そして──余白に刻まれた、無数の「猫のマーク」。
彼は、そのマークを一つ、指でなぞった。
「……これで、二つ目か」
呟きは、誰にも届かなかった。
それは、彼自身を圧縮保存するための「生存戦略」。消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに閉じ込めて、手帳に貼り付けている。そうすることで、かろうじて「消えない」状態を維持している。
カノジョは知らない。
彼がどれだけ自分の領域を削っているのかを。
彼がどれだけの「代償」を払っているのかを。
「カレシー、次の場所、見えてきたよ!」
遠くから、カノジョの声がする。
カレシは手帳を閉じた。
「……今行く」
その声は、いつも通り冷たかった。でも、その冷たさの中に、ほんの少しだけ──「熱」が混ざっているような気がした。
気のせいかもしれない。でも──もし気のせいじゃなかったら。




