彷徨う熱【第2部:五感の旅路】第9話 「残響の先」
光莉の「気配」は、そこにあった。
誰もいない。何もない。
ただの時空の隙間。でも、確かに「いた」。
カノジョにはわかった。
五感が全て揃った今、彼女は「誰かがいた痕跡」を、全身で感じ取ることができた。
質量。色。音。感触。匂い。味。
それらが一つになって、彼女の中で「誰か」を形作っている。
「……ここだ」
カノジョは呟いた。
「光莉は、ここにいた」
「断定はできない」
カレシの声がする。
遠い。でも、はっきりと聞こえる。
彼の声は、前回よりもさらに「冷たさ」だけが残っている。かつてあったかすかな「熱」は、もうそこにはなかった。
「そういう言い方、やめない?」
カノジョは言った。でも、その声は彼に届いているようで届いていない気がした。
「事実だからだ」
「でもね、カレシ」
カノジョは自分の手を見た。
透けていない。確かに「ある」。
でも、その手は誰かの重みを抱えている。
「私たちはもう、『断定』する必要はないんだよ。『感じる』だけでいい。それが『卒業』ってやつなんじゃないかな」
カレシは答えなかった。彼の沈黙には、かつてあった「迷い」すらも含まれていなかった。
カノジョは、その「気配」に向かって手を伸ばした。
触れない。でも──温度だけは感じた。
冷たくない。温かい。誰かの体温。
それも、かすかに。これまでに感じたどのノイズよりも、それは「光莉のもの」のような気がした。
「……いた」
カノジョは呟いた。
「ここに、いたんだ」
その瞬間、彼女の中でノイズが──爆発しなかった。静かに、溶けた。
質量、色、音、感触、匂い、味。
それらが一つになり、彼女の中で「誰か」になった。
それは光莉ではない。でも、光莉の「熱」だった。
「カレシ」
「何だ」
「光莉、ここにいたんだね」
「そうかもしれない」
カレシは言った。
今度は「断定はできない」とは言わなかった。ただ──言わなかっただけかもしれない。カノジョには、もう彼の「沈黙の意味」を読み取ることもできなくなっていた。
「でも──もう、いない」
カノジョは言った。
「『熱』だけが、残ってる」
「それが『伝線』というものだ」
カレシの声は、いつも通り冷たい。
でも、その冷たさの中に──かつてあった「熱」は、もうなかった。
カノジョにはそれがわかった。
五感を得た今、彼女は彼の「声の質感」までも感じ取ることができる。そこには、何もなかった。ただの「記録」だけ。
その時だった。
カノジョの視界に、かすかな光が映った。
光ではない。「気配」の光。
誰かがそこに「いた」という、かすかな残像。それも、今までとは違う。もっと──「濃い」。
「……カレシ、見えた?」
「何が」
「光莉の──『残像』」
カレシは答えなかった。
彼には「見えない」。もう、何も感じ取れない。彼はただの「システム」だった。観測者としての機能すら、削ぎ落とされていた。
カノジョは立ち上がった。足は震えていない。もう、自分のものか誰かのものか、区別をつけることをやめていた。
「あそこに、いる」
「見えない」
カレシは言った。
「私は観測者ではない。ただの──」
「『記録者』?」
「そうだ」
カノジョは、その「残像」に向かって歩き出した。一歩。また一歩。近づくたびに、彼女の中のノイズが静かになっていく。
誰かの重みが、自分の重みになった。
誰かの色が、自分の視界を彩った。
誰かの声が、自分の言葉になった。
誰かの感触が、自分の手に馴染んだ。
誰かの匂いが、自分の記憶になった。
誰かの味が、自分の好みになった。
「……光莉」
カノジョは呼びかけた。
返事はない。誰もいない。
ただの時空の隙間。
でも、確かに「いた」。
「見つけたよ」
その瞬間、彼女の中で何かが──静かに、完了した。
質量、色、音、感触、匂い、味。
それらはもう「ノイズ」ではなかった。
彼女自身の「感覚」だった。
「カレシ」
「何だ」
「光莉は、もういないんだね」
「そうかもしれない」
カレシは言った。
「だが──『熱』は残った。あなたの中に。それで、十分だろう」
「うん」
カノジョは自分の手を見た。
透けていない。確かに「ある」。
でも、その手は誰かの重みを抱えている。
それはもう「他人のノイズ」ではなく、自分の一部だった。
「これで、私たちの『旅』は終わり?」
「そうかもしれない」
カレシは言った。
「もう、探すべき『ノイズ』はない。あなたは五感を得た。光莉の『熱』も、あなたの中にある。」
「じゃあ、私たち──」
「『卒業』するかどうかは、あなた次第だ」
カレシの声には、まだ「冷たさ」だけがあった。カノジョは、その冷たさに触れたくなった。でも、触れなかった。触れたら、彼が壊れそうで怖かった。
その時だった。カレシの輪郭が、一瞬だけ「ぼやけた」。倒れはしなかった。
でも──その「ぼやけ」は、以前よりも明らかに大きかった。
「カレシ!」
「気にするな」
カレシは言った。
その声は、機械のように平坦だった。
「私はまだ、持つ」
「持つって──」
「最後のページまで」
カノジョは、その言葉の意味を理解した。
手帳の最後のページ。
あと一枚。
それが彼の「寿命」だった。
「カレシ」
「何だ」
「手帳、見せて」
カレシは、少し間を置いた。
しかし、やがて手帳を差し出した。
彼の手は、少し震えていた。
でも、その震えは「機械的な誤差」のようにも見えた。
カノジョは、その手帳を開いた。
びっしりと並んだ監査ログの合間に、無数の「猫マーク」。
それが、彼の「生存戦略」だった。
消えかけるたびに、自分の存在を小さなマークに圧縮して、手帳に貼り付けていた。
最後のページ。
あと一枚だけ、白い余白が残っている。
「……ここに、何を刻むの?」
「決めていない」
カレシは言った。
「決めなくてもいい。それが──」
「『卒業』ってやつね」
カノジョは言った。でも、その声は少しだけ「寂しそう」だった。
「カレシ、もう──いいよ」
「何が」
「光莉を探すの、もう終わりにしよう」
「なぜだ」
「だって、もう『見つけた』から」
カレシは、少し間を置いた。
「……どこに」
「ここに」
カノジョは自分の胸を指さした。
「光莉は、私たちの中にいる。最初から、ずっと」
カレシは答えなかった。
でも、その沈黙は「否定」ではなかった。
時空の隙間で、カレシは一人、手帳を開いていた。
最後のページ。白い。何も刻まれていない。
彼は、そこに何を刻むべきか、まだ決めていない。でも──決めなくてもいい。それが、彼の「自由」だった。
「……これで、終わるのか」
彼は呟いた。誰にでもなく。
ただ、自分の記録として。
ペンを走らせようとして──止めた。まだ、決めていない。でも、もう時間がないことも、彼は知っていた。
「カレシ、帰ろう」
カノジョの声がする。すぐ隣から。
「どこへ」
「『カフェあおい』へ」
カレシは手帳を閉じた。
「……了解した」
その声は、いつも通り冷たかった。
でも、その冷たさの中には──もう、誰の気配も残っていなかった。
カノジョはそれを理解している。
理解していて、何も届かない。
それが、彼女の「限界」だった。
―――中継セクターより―――
無事に五感を探す旅を終え、帰還した二人の姿。
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第三部『熱の結晶』の前に、幕間――
『熱を探さない』を挟みます。
カノジョ&カレシ、そして読者様の少しばかりの休息です。
ここまでの観測ありがとうございました。




