第12話 【観測者の卒業】第2.5話 「境界線のパレット」
それは、正史の世界に生きる、とある「視覚の能力者」の網膜が捉えた奇妙なバグだった。
管理社会によって完全に最適化された、美しい街外れのとあるカフェ。光の三原色すらも計算され尽くしたテーブルの上に、場違いな白い粒が五つ、並べられていた。
ただの市販のラムネ。本来なら視界の端に映るだけの、どうでもいい無駄な記号。
しかし、色彩に対してあまりにも鋭敏なその人物の瞳には、その五つの白が、まるでパレットの上に零された異物のように見えていた。
(……おかしい。あの白、光の透過率が歪んでいる)
それは、現在の世界システムが定義するどのカラーコードにも該当しない色だった。絶対的な白の奥から、じわじわと滲み出てくるような、凍えるほど冷たく、けれどどこか気高さを感じさせる「青」の残影──コード「0712」。
その色彩の能力者は、思わずベンチの前で足を止めた。
そこには誰もいない。ただ、誰もいないはずの空間から、まるで陽炎のように微かな、でも決定的な「誰かの存在」が世界の網膜に強制的に焼き付けられていく感覚があった。
「……誰、そこにいるの?」
呟きは、誰に届くこともなく雑踏に消えた。
だがその瞬間、世界の記述は確かに書き換わった。その鋭い視覚によって、カノジョというバグの存在強度が、正史の時空へさらに深く、不可逆的に固定されたのだ。
「──ふぅ、任務完了! 今回の世界観説明も完璧だったでしょ、カレシ!」
ピクセル単位の歪みを経て、中継セクターへと帰還したカノジョは、ベンチから回収してきたラムネの袋を誇らしげに掲げた。
だが、デスクの前に佇むカレシは、すぐに言葉を返さなかった。
彼の黒髪の輪郭は、先ほどよりも明らかに薄くなっている。メガネを直す長い指先は痛々しく点滅し、まるで実存の限界を告げるプロセッサのように、青いノイズが絶え間なく明滅していた。
「……良好です。パッチの結合強度は予定数値をクリアしました。これで雇い主の望むプロモーションとしての体裁は保てます」
カレシはいつもの冷徹なトーンを維持しようとしていたが、その声はかすかに掠れていた。
「ねえ、カレシ。やっぱりあなた、どこかおかしいよ。身体から青い粉みたいなのが出てる」
「気のせいです。あなたの視覚センサーの補正エラーです」
「嘘。私、あっちの世界に行って戻ってくるたびに、どんどん感覚がはっきりしてくるの。お腹が空くのも、街の風が冷たいって思うのも……。だから、あなたのその青い色が、すごく痛そうに見える」
カノジョはそう言うと、手元に残ったラムネの袋から、大粒の白い塊を一つだけ取り出した。
「これ、あっちの世界の色彩の人がじっと見てたやつ。……はい、あげる。一粒残しておいたから」
カレシは動きを止めた。冷徹な監査官の目が、カノジョの差し出した手のひらを見つめる。
システムにとって、これは「無駄」であり「不合理」だった。エネルギーの譲渡としても、計算の効率としても、何の意味も持たない行動。
「……何です、それは。私はブドウ糖の補給など必要としていません」
「いいから受け取りなさいよ。監査官への、ノーギャラ案内人からの特別ボーナス。
……なんか、あなたに食べさせなきゃいけない気がしたの。半分こ、じゃないけどさ」
カノジョは笑った。
それは、かつて白い部屋で「機能」として稼働していた頃には絶対に浮かべることのなかった、あまりにも人間らしく、不器用な他者への優しさ(熱)の形だった。
カレシはしばらく沈黙した後、点滅する指先で、壊れ物を扱うようにその一粒をそっと受け取った。
それを口に運ぶことはせず、ただ自分の手帳の、びっしりと並んだ手書きの猫のマークのすぐ隣へ、そっと包むように仕舞い込む。
「……計算外のノイズです。やはり、あなたのデータ構造は徹底的にパージされるべきだ」
吐き捨てられた言葉とは裏腹に、手帳に新しく刻まれた猫のマークは、今までで最も深く、丁寧に記述されていた。
──中継セクターLOGでの色彩能力の女──
LOG_012【色彩能力】ラムネの青いノイズと、見えないシステムによる包囲網
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