第11話 【観測者の卒業】第2話 「色彩に混ざる残像(ラムネ5粒)」
「あれー……? なんか変な感じ」
中継セクターに戻ってきたカノジョは、自分の手のひらをじっと見つめていた。
正史の世界に送られ、街の雑雑としたストリートで当たり障りのない世界観の案内をしてから、もう何時間も経っている。ただそれだけのはずだった。
なのに、指先がじりじりと痺れるように熱い。身体の奥から湧き上がるこの奇妙なポカポカとした残熱の理由を、機能から堕ちたばかりの彼女は、生命のシステムとしてまだ自覚できていなかった。
「カレシ、あっちの世界、暖房が強すぎたんじゃない? 私のセンサーがちょっとバグってるみたいなんだけど」
「気のせいです。あなたの貧弱なプロセッサが、おにぎりのカロリーを消費してオーバーヒートしているだけです」
そう言って手帳を閉じたカレシの指先が、ほんの一瞬、ノイズのようにブレた。
カノジョはその微細な異常には気づかない。彼の黒髪の隙間から覗く横顔は、相変わらず冷徹で、無駄に整った監査官のままだ。
だが、カレシの内部プロセッサはすでに悲鳴を上げていた。
先ほど正史の世界で、カノジョの「食欲の熱」を能力者に観測させた。その結果、彼女の生存確率は確かに膨張した。しかし、それと引き換えに、彼女の質量を無理やり固定していたカレシ自身の残存領域が、激しく磨耗し始めているのだ。
「……さあ、休んでいる暇はありません。次の監査プロモーションに移ります。これを」
カレシがデスクの上に静かに置いたのは、小さなプラスチックの袋だった。
中から転がり出たのは、白い、何の変哲もないブドウ糖の塊。
「わあ、ラムネ! しかも大粒のやつじゃん。これ高いんだよ? たまには気が利くところあるじゃない」
「勘違いしないでください。雇い主の脳を懐柔するための、単なるブドウ糖です。……ただし、袋の中身をすべて与えるわけにはいきません。私が指定する数だけを正確に数えなさい」
カノジョは「はいはい」と笑いながら、手のひらにラムネを転がした。
一粒、二粒、三粒、四粒、五粒。
「はい、『ラムネ5粒』! これで文句ないでしょ、監査官殿?」
カノジョは無邪気にほんの少し青みがかった5粒を並べて見せる。
彼女には、それがただの美味しいおやつにしか見えていなかった。自分がなぜ、毎回この奇妙に限定された「数字」を扱わされているのか、その核心には永遠に辿り着かない。
カレシはメガネの奥の瞳を冷酷に細め、その5粒をじっと見つめた。
彼だけには見えていた。カノジョが並べた「5」という白い数字の裏に、自らの領域を削って編み込んだ、冷たい青色の識別コード(0712)が、残像となって混ざり合っているのが。
「良好です。では、二度目のパッチを送信します。制限時間はデータが飽和するまで。今回も、ただそこに『居る』だけでいい」
「はーい、世界観案内の第二弾、行ってきまーす!」
ピクセル単位で空間が歪み、カノジョの身体が光の中に溶けていく。
彼女が完全にいなくなったのを見届けてから、カレシは深く椅子に身体を沈め、激しく咳き込んだ。
口元を押さえた彼の指先から、パラパラと電子の塵のような青いノイズが零れ落ち、床の白さに吸い込まれて消えていく。
「……くっ、これだけの負荷か……」
カノジョが何も知らずに「5粒」を数えるたび、彼は自分の本質(存在領域)を5つに切り分け、彼女の影として正史に送り込んでいる。
今回のターゲットは、この先に待つ正史の『色彩』。
カノジョが何も知らずに並べる「ラムネ5粒」の白。その中に混ざる、カレシの命が削れた「冷たい青の残像」を、世界の網膜に焼き付けるための、命がけの裏工作だった。
中継セクターの冷たい静寂の中、カレシはもう一度手帳を開いた。
彼の長い指先が、ページの余白に、不器用な手書きの猫のマークをまた一つ、静かに、深く、刻みつける。
「……観測は、感情じゃない。私はただ、正確に記録すだけだ」
その声はかすかに震えていたが、冷徹な青年の瞳には、決して退かないシステムとしての執念が宿っていた。
―――中継セクター:過去ログ―――
LOG_012【色彩能力】ラムネの青いノイズと、見えないシステムによる包囲網
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