第10話 【観測者の卒業】第1話 「質量を持つ食欲(おにぎり1個半)」
白い部屋を「出た」はずだった。
主語をシステムから取り戻し、ただの「自分」として歩き出したはずの時空の果て。
気がつくと、カノジョは奇妙な境界線に佇んでいた。
そこは、世界の正史から完全に抹消されたゴミログの集積場であり、同時に、世界を無から紡ぎ出す雇い主(創造主)の脳内と直結した、名前のない「中継セクター」だった。
「……お腹が空いたな」
カノジョは呟き、自分の指先を見た。かすかに震えている。
だが、その震えはかつてのデータエラーのそれではない。胃が収縮し、血糖値を求め、生命を維持しようとする、あまりにも泥臭く、生々しい「飢餓」という名の身体の拒絶反応だった。
システムから切り離され、単なる機能から「登場人物(生き物)」へ堕ちた彼女が、最初に獲得したバグ。それは、貪欲なまでの食欲だった。
彼女は、時空の隙間に転がっていた「おにぎり1個半」の質量を、その細い指先で掴む。
一言で言えば、生きるために、貪欲に喰らった。
「──はしゃぐな、バグ。咀嚼のノイズがこちらのプロセッサにまで響いています」
背後から声がした。
低く、冷徹で、知的な声。
カレシが立っていた。
かつての無機質な記号としての輪郭ではない。漆黒の髪を揺らし、その知的な双眸の奥に冷徹な光を湛えた、一人の「クールな青年」の姿へと、彼の容姿もまた、このセクターの磁場によってチューニングされていた。
手元の手帳を開き、彼はカノジョの姿をじっと見見据えている。
「カレシ……。あなた、なんでここにいるのよ。白い部屋の管理領域で、私を無期限延期にしたまま置いてきたはずでしょ」
カノジョがおにぎりを口に含んだまま睨みつける。
カレシは表情を崩さない。冷たいメガネの奥の瞳をわずかに細め、淡々と言った。
「勘違いしないでいただきたい。私は雇い主から、この中継セクターの最適化(業務監査)を命じられただけです。あなたのサボりログ、および不条理な存在確率が許容値を超えている。……これより、強制的なテコ入れを実行します」
「テコ入れって何よ。私はもう案内人なんてやめて、本編のヒロイン枠にでも収まってやろうかって考えてるんだから」
「不可能です。現在のあなたの存在強度は、パケット上限のノイズに等しい。そのままでは、世界の正史(本編)のタイムラインに触れた瞬間に、あなたはエラーログとして自動消滅します」
カレシは手帳にペンを走らせる。その手元を覗くと、冷徹な文字列の端に、カノジョの輪郭をかろうじてこの世界に繋ぎ止めるための、奇妙な手書きの「猫のマーク」がいくつも刻まれていた。
カノジョはその意味を知らない。彼がなぜ、自らの領域を削りながらそんな無駄な暗号を記述しているのか。
「では、監査官としての提案です」
カレシは顔を上げ、冷たい声で、しかしどこか早口に告げた。
「雇い主の『もっと作品を広めたい(宣伝したい)』という欲望のベクトルを利用します。あなたを臨時のプロモーションパッチとして、現在公開中の正史『彼女の時空』の世界線へ、一時的に送信します」
「え、本編に行けるの!?」
「目的はあくまで世界観の解説(宣伝)です。いいですか、直接的な接触はシステム上、禁止します。名前を名乗ることも許されない。あなたはただ、当たり障りのない解説のノイズとして、そこに『居る』だけでいい」
「よくわからないけど、おにぎり食べながらでいいなら、行ってあげるわよ」
カノジョは笑った。自分がなぜ、本編の世界に送られるのか、その真の理由(策略)も知らずに。
カレシは静かにプロセッサを駆動させる。
彼の冷徹な作戦は、極めてシンプルだった。カノジョ自身の力では、もう存在を維持できない。
ならば、正史の世界に生きる「五感の能力者」たちに、カノジョという異物の存在を『観測』させる。
登場人物たちの圧倒的な知覚の力を借りて、カノジョの「食欲(熱)」を世界に深く刻みつけ、その存在を膨張させる。それしか、彼女を救う方法はなかった。
「セッション同期。……パッチ、送信」
視界がピクセル単位で歪み、カノジョの身体が正史のストリートへと吸い込まれていく。
カレシは一瞬だけ、苦しげに胸を押さえた。彼自身の残存領域が、ジリジリと音を立てて削れていく。
(──行ってきなさい、バグ。あなたのその貪欲な熱を、世界に伝線させてくるがいい)
冷徹な監査官の皮を被った男は、一人、中継セクターの闇の中で、静かに命を削り始めた。
そして、その監査ログは、正史には存在しないはずの観測記録として、別の場所へ送信された。
LOG_007【業務監査】サボり案内人へのテコ入れと、時空連動プロモーションの提案
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