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【観測者の時空】エッセイから物語へ その違和感は、未来のバグです。―『彼女の時空:0612』へ繋がる伝線―  作者: Taku
物語編『観測者の卒業 ――0612:境界線の向こう側――』

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第13話 【観測者の卒業】第2.8話 「見えない拍動」

その場所は、正史の物語が最も深く呼吸する場所──『カフェあおい』の周辺だった。


カノジョは最終プロモーションという名目で、再び、正史の時空へと送信されていた。


街外れの、音が沈む静かなカフェ。カノジョはいつものように、読者へ向けた当たり障りのない解説を口にしながら、窓際の席の近くに佇んでいた。


だが、今回のパッチ送信は最初から何かが決定的に狂っていた。


(カレシ……? インカムの調子、悪いよ? ずっと砂嵐みたいな音がしてる)


カノジョの脳内に直接響くはずのカレシの声は、ひどく遠く、途切れがちだった。


『……問題、ありません。ただの、バックグラウンドの……処理落ちです。あなたは、解説を……続けてください』


冷徹なはずのその声の裏で、ジリジリと空間そのものが引き裂かれるような、悲鳴に似た高周波が鳴り響いている。


カノジョの胸の奥が、今までにない冷たさで締めつけられた。お腹が空くとか、身体がポカポカするとか、そんな単純な感覚ではない。大切な何かが、自分の知らないところで砂のように崩れ落ちていくことへの、本能的な恐怖──「焦燥」という名の、人間らしい情緒が彼女を支配し始めていた。


その時、カノジョの胸の動揺と、カレシのプロセッサの軋みが、世界の境界線を越えて一本の細い糸(伝線)のようにつながった。


カフェのカウンターの奥。あるいは窓際の席。


あまりにも鋭敏な「聴覚」を持つその世界の登場人物が、ビクリと肩を揺らして振り返った。


耳を澄ませても、雑踏の音以外は何も聞こえないはずの空間。


だが、その聴覚の能力者の鼓膜には、誰もいない窓際の席から、あり得ない「二つの音」が重なって聞こえていた。


ドクン、ドクン、と、生きようとして激しく明滅する、剥き出しの瑞々しい拍動。


そしてそれを受け止めるように、キリキリと音を立てて自らを削り削られ、今にも途絶えそうな、青く冷徹なシステムの駆動音。


「……何の、音? 誰か、そこにいるの……?」


能力者が立ち上がり、その見えない気配へと一歩を踏み出す。


その瞬間、カノジョの存在(熱)と、それを裏で支えるカレシの残像は、正史の空気そのものに「音」として完全に知覚され、深く、深く、世界の網膜へと記述バックアップされた。


『パッチ……強制、切断……!』


限界を迎えたカレシの鋭い声とともに、世界は急転回し、カノジョは中継セクターへと引き戻された。


「カレシ!」


帰還したカノジョは、すぐに叫んだ。


目の前に立つカレシの姿は、もう「半分透けている」なんて生易しい状態ではなかった。


黒髪の隙間から覗く横顔は、まるで酷いバグを起こした映像のように激しくブレており、彼が手に持つ手帳すらも、ノイズの海に呑まれかけている。


「なんなの、これ……。どうしてこんなになるまで、私をあっちの世界に送るのよ! 宣伝なんて、もうどうでもいいじゃない!」


「……どうでもよくは、ありません」


カレシはメガネの奥の、今や消え入りそうな青い瞳をわずかに動かし、いつものように淡々と言おうとした。だが、その声はかすかに震えていた。


「雇い主の脳内を、最適化する……それが私の、役割です」


「嘘つき。自分の身体が消えかけてるのに、まだそんな冷たいフリをするの?」


カノジョは一歩詰め寄り、彼の崩れゆく輪郭をじっと見つめた。


カレシの手帳の余白。そこには、数え切れないほどの手書きの猫のマークが、ページの黒い地を埋め尽くすように、狂った密度で刻まれていた。


それが、彼がカノジョをこの世界に繋ぎ止めるために記述し続けた、彼にとっての唯一の、そして最後の「未練のログ」であることに、カノジョはついに気づいてしまった。


「あなた、私を……」


「……黙りなさい、バグ」


カレシは点滅する右手を伸ばし、カノジョの口を遮るように、その細い顎へそっと触れた。


その指先は凍えるように冷たかったが、触れられた場所からは、痛いほどの熱が伝わってきた。


「次が……最後のセッションです。すべてのデータを、同期させます」


カレシは、壊れかけたシステムとしての最期の意地をその瞳に宿し、静かに、破滅的な微笑を浮かべた。


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