第13話 【観測者の卒業】第2.8話 「見えない拍動」
その場所は、正史の物語が最も深く呼吸する場所──『カフェあおい』の周辺だった。
カノジョは最終プロモーションという名目で、再び、正史の時空へと送信されていた。
街外れの、音が沈む静かなカフェ。カノジョはいつものように、読者へ向けた当たり障りのない解説を口にしながら、窓際の席の近くに佇んでいた。
だが、今回のパッチ送信は最初から何かが決定的に狂っていた。
(カレシ……? インカムの調子、悪いよ? ずっと砂嵐みたいな音がしてる)
カノジョの脳内に直接響くはずのカレシの声は、ひどく遠く、途切れがちだった。
『……問題、ありません。ただの、バックグラウンドの……処理落ちです。あなたは、解説を……続けてください』
冷徹なはずのその声の裏で、ジリジリと空間そのものが引き裂かれるような、悲鳴に似た高周波が鳴り響いている。
カノジョの胸の奥が、今までにない冷たさで締めつけられた。お腹が空くとか、身体がポカポカするとか、そんな単純な感覚ではない。大切な何かが、自分の知らないところで砂のように崩れ落ちていくことへの、本能的な恐怖──「焦燥」という名の、人間らしい情緒が彼女を支配し始めていた。
その時、カノジョの胸の動揺と、カレシのプロセッサの軋みが、世界の境界線を越えて一本の細い糸(伝線)のようにつながった。
カフェのカウンターの奥。あるいは窓際の席。
あまりにも鋭敏な「聴覚」を持つその世界の登場人物が、ビクリと肩を揺らして振り返った。
耳を澄ませても、雑踏の音以外は何も聞こえないはずの空間。
だが、その聴覚の能力者の鼓膜には、誰もいない窓際の席から、あり得ない「二つの音」が重なって聞こえていた。
ドクン、ドクン、と、生きようとして激しく明滅する、剥き出しの瑞々しい拍動。
そしてそれを受け止めるように、キリキリと音を立てて自らを削り削られ、今にも途絶えそうな、青く冷徹なシステムの駆動音。
「……何の、音? 誰か、そこにいるの……?」
能力者が立ち上がり、その見えない気配へと一歩を踏み出す。
その瞬間、カノジョの存在(熱)と、それを裏で支えるカレシの残像は、正史の空気そのものに「音」として完全に知覚され、深く、深く、世界の網膜へと記述された。
『パッチ……強制、切断……!』
限界を迎えたカレシの鋭い声とともに、世界は急転回し、カノジョは中継セクターへと引き戻された。
「カレシ!」
帰還したカノジョは、すぐに叫んだ。
目の前に立つカレシの姿は、もう「半分透けている」なんて生易しい状態ではなかった。
黒髪の隙間から覗く横顔は、まるで酷いバグを起こした映像のように激しくブレており、彼が手に持つ手帳すらも、ノイズの海に呑まれかけている。
「なんなの、これ……。どうしてこんなになるまで、私をあっちの世界に送るのよ! 宣伝なんて、もうどうでもいいじゃない!」
「……どうでもよくは、ありません」
カレシはメガネの奥の、今や消え入りそうな青い瞳をわずかに動かし、いつものように淡々と言おうとした。だが、その声はかすかに震えていた。
「雇い主の脳内を、最適化する……それが私の、役割です」
「嘘つき。自分の身体が消えかけてるのに、まだそんな冷たいフリをするの?」
カノジョは一歩詰め寄り、彼の崩れゆく輪郭をじっと見つめた。
カレシの手帳の余白。そこには、数え切れないほどの手書きの猫のマークが、ページの黒い地を埋め尽くすように、狂った密度で刻まれていた。
それが、彼がカノジョをこの世界に繋ぎ止めるために記述し続けた、彼にとっての唯一の、そして最後の「未練のログ」であることに、カノジョはついに気づいてしまった。
「あなた、私を……」
「……黙りなさい、バグ」
カレシは点滅する右手を伸ばし、カノジョの口を遮るように、その細い顎へそっと触れた。
その指先は凍えるように冷たかったが、触れられた場所からは、痛いほどの熱が伝わってきた。
「次が……最後のセッションです。すべてのデータを、同期させます」
カレシは、壊れかけたシステムとしての最期の意地をその瞳に宿し、静かに、破滅的な微笑を浮かべた。




