第9話後半 「所有編:モノを抱えること」
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視界が歪んだ。
規則的な低音。換気のような、機械の駆動音のような。規則的すぎて、逆に気持ち悪い。
――いた。
窓辺。いや、ベランダの手すりの上。境界が曖昧な場所。
「ようこそ」
カノジョがいた。
「最適化された『所有』の世界へ」
次の瞬間、部屋が変わった。
同じ間取りだった。でも――
壁には何もない。本も、写真も、置物もない。
家具は最小限。椅子、机、ベッド。すべて無駄のないデザイン。色も統一されている。グレー。ただのグレー。
クッションもカーテンもない。
「ここでの所有は『効率』です」
カノジョが言う。
「モノは機能のため。愛着や思い出は、ノイズです」
「ノイズ……」
康介は繰り返す。
「データ管理に例えましょう。過去のデータを全部とっておけば、ストレージが埋まります。大事な処理が遅れる」
「過去のモノは、未来を圧迫する」
それは理屈だった。正しい。
でも――
康介は壁の一点を見た。小さなフォトフレーム。誰かの笑顔。
「あれは?」
「許容された所有物です」
「許容?」
「モチベーションを12%上げることがデータで証明されています。だから残されています」
「効果のないものは?」
カノジョは答えなかった。代わりに、部屋を見渡した。
さっきまであったはずのクッションが消えている。マグカップも。予備の靴ひもも。
康介はクローゼットを開けた。服は三着。すべて同じサイズ、同じ機能。
「モノは、あなたを最適にするためにある。それだけです」
カノジョの声は優しかった。
でも、なぜか寂しかった。
「……これをどう説明するんだ」
康介はポケットを探った。
そこには――あの黄ばんだ手紙。なぜか持っていた。この世界にはないはずなのに。
カノジョが首をかしげた。
「それは、ノイズです」
「機能を果たしていない」
「じゃあ、消えるのか」
「はい。すぐに」
手紙が、透き通り始めた。
康介は思わず握りしめた。
「待ってくれ」
カノジョが止まった。手を下ろす。
「なぜです?」
「これを読むと、あの頃の自分を思い出すんだ」
「あの頃?」
「間違えた自分。迷った自分。誰かを好きでいすぎて、どうにもならなかった自分」
「それが、何の役に立つのですか?」
康介は言葉に詰まった。
役に立つかどうか。
それが基準だった。この世界の。
「役に立たない」
彼は言った。
「邪魔だし、余分な物だ。見返しても、何の生産性もない。でも……」
手紙を見る。字は掠れている。
「この手紙がなければ、あの頃の自分は、完全に消える」
カノジョは無言だった。
少しだけ、目を伏せた。
「それが、嫌なのですか」
「……ああ」
康介は頷いた。
「面倒くさいけど、それが嫌だ」
カノジョはしばらく考えていた。本物の「考える」だった。計算ではない。
「私は――」
彼女は言いかけて、やめた。
そして、小さく言った。
「その気持ちは、定量化できません」
「効率の指標にはならない」
「だから――」
「わからない、ということです」
それが、彼女の口から出た初めての「わからない」だった。
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世界がほどけた。
透明な層が剥がれ、元の空気が戻る。コピー機の音。遠くの笑い声。
タンスの引き出しは開いたまま。
スマートウォッチが光っている。
「未使用品を検出。処分しますか?」――はい / いいえ
康介は長く見つめた。
そして、そっとスマートウォッチを外した。机の上に置く。
指で、引き出しの中の手紙に触れた。
閉めない。開けたままにしておく。
「……明日、また読もう」
そう呟いた。誰に向けてでもない。
風が吹いた。窓が少し開いていた。カーテンが揺れる。
その不完全な風が、なぜか気持ちよかった。
【観測者としての作者の独白】
私たちは「モノを持たない生活」を美しいと思うようになった。
ミニマリズム。断捨離。サブスクリプション。合理的で機能的で気持ちがいい。
でも「手放すこと」が習慣化したとき、「なぜ手放せないのか」という感情ごと手放してしまっていないか。
使い道のないモノ。誰にも見せない手紙。穴の空いたマフラー。効率的じゃない。邪魔だ。荷物になる。
でもその「非効率な所有」の中にしか、「自分が歩んできた道」は刻まれない。
モノを持つことは、過去の自分を捨てないことだ。間違えた自分。恥ずかしかった自分。誰かを好きすぎてどうしようもなかった自分。それらを「まだここに置いておく」選択は面倒で場所を取る。
でもその面倒くささが、人間の「つながり」の正体かもしれない。
私はまだ、「必要のないモノ」を手放さずにいるだろうか。
それとも手放す快適さに自分を合わせてしまっていないだろうか。




