第7話後半 「最適化編:違和感を手放すとき」
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わずかなノイズ。一瞬の暗転。
そして、景色が切り替わる。
同じような街。同じような人々。
でも、
すべてが、静かすぎる。
誰も迷わない。誰も立ち止まらない。
誰も、何かに引っかかることがない。
表情はある。でも、それは「適切な表情」であって、その人の内面を映していない。
そこに、“カノジョ”がいた。
いつの間にか。最初からそこにいたかのように。
「いい状態だよね」
穏やかな声。
責めるでもなく、褒めるでもなく。
「全部、うまくいってる」
純は、ゆっくりとうなずいた。
考えるまでもなかった。
「……うん。問題ないと思う」
「でしょ?」
カノジョは微笑んだ。
「無駄もないし、失敗もない。
誰も傷つかないし、誰も遅れない。
これ以上、何を望むの?」
それは、理想だった。
完全に整った世界。
誰も苦しまない。誰も迷わない。誰も間違えない。
「何が問題なの?」
カノジョが問う。
純は、少し考えた。
頭の中で、言葉を探す。
でも。
答えが、出てこない。
いや、正確に「問題」と呼べるものが、どこにも見当たらなかった。
「……問題、ないと思う」
純は、そう言った。
その言葉は、あまりにも自然に出てきた。
違和感も、迷いもなかった。
むしろ、それを言うことで、自分の中のざわつきが静まる気がした。
カノジョは、満足そうにうなずいた。
「そう。それでいい」
その声は、優しかった。
優しすぎて、少しだけ怖かった。
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気づくと、純は元の席に戻っていた。
食事は、まだ温かい。
周囲の音も、さっきと同じ。
誰かの笑い声。食器の触れ合う音。
純は、もう一度料理を口に運んだ。
やはり、美味しい。
問題はない。
何も、おかしくない。
でも。
さっき、何かを考えかけていた気がする。
何だったか。
思い出そうとしたが、うまくいかない。
記憶の奥に、ぼんやりと引っかかるものがある。でも、それが何かはわからない。
「……まあ、いいか」
純はそう呟いて、食事を続けた。
その違和感は、すぐに、どこかへ消えていった。
——はずだった。
数分後、純はまた手を止めた。
理由はわからない。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけざわついている。
「……何だろ」
食事は美味しい。
仕事も順調だ。
何も問題はない。
でも——その「何も問題がない」ということ自体に、ほんの少しだけ、引っかかるものがあった。
まるで、完璧すぎることが、かえって「おかしい」ような。
でも、その「おかしい」という感覚を、うまく言葉にできない。
純は、その引っかかりを振り払うように、もう一度フォークを手に取った。
考えるのをやめた。考えないことが、ここでは「正しい」から。
消えたはずの違和感は、完全には消えていなかった。ただ、とても小さくなって、胸の奥の奥に潜んでいた。気づかないだけで、そこにあった。
純は、そのことに、まだ気づいていなかった。
いや——気づかないようにしているのかもしれない。
どちらにしても、もうそれを確かめる方法はなかった。
【観測者としての作者の独白】
最適化は、優しい。
失敗も、迷いも、痛みも取り除いてくれる。
不快なことから、私たちを守ってくれる。
だから人は、それを疑わなくなる。
疑うこと自体が「非効率」だから。
違和感すら、最適化されていく。
「何かがおかしい」と感じる力——
それは、人間が持つ最も繊細なセンサーの一つだ。
でも、そのセンサーが最初に削られていく。
不快なものを見ないようにする。
考えたくないことを考えないようにする。
気づかないふりをすることに慣れていく。
そして、ある日——
気づくこと自体を、やめてしまう。
もし、疑問を持たなくなったとき、
その人はまだ「自分」でいられるのだろうか。
それとも、ただ最適化された環境に「適応した」だけなのだろうか。
「問題ない」と口にした瞬間、本当に問題はなくなるのか。
それとも——問題を見えなくしただけなのか。
私はまだ、“違和感”を手放していないだろうか。
気づかないふりをしていないだろうか。




