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運命 (Fate)(3)

プリシラは脚に力を込め、レイピアを突き出す準備を整えた。暗闇の端から、粗末な木槌を手にした小さな緑色の影が姿を現した。ゴブリンだ。


彼女は微塵も怯まず、むしろ前へと踏み出した――騎士がこれほどの踏み込みを見せるとは予想していなかった緑の怪物は、不意を突かれた。鋭い切っ先がゴブリンの首に深々と突き刺さる。断末魔を上げる暇も与えず、プリシラは即座に刃を引き抜き、返す刀でその喉を切り裂いた。わずか数秒のうちに、小柄な怪物は半ば首を撥ねられたも同然の状態となった。


ゴブリンは仰向けに倒れ、紫色の血を体内に留めようとするかのように両手で首を抑えてのたうち回った。やがて、数回の痙攣と共に床に血をぶちまけ、動きを止めた。死んだのだ。


「ふむ……」

 彼女は慎重に死体に近づき、剣先で二度叩いてから、それを蹴り転がした。

「解剖学的な構造は同じ、か。興味深いわね」


彼女は動きを止め、懐中時計を取り出した。正午まであとわずかだ。時計を再びポケットに収めると、静かに深呼吸をした。


一時間ほど探索して遭遇したのがゴブリン一匹だけというのは、奇妙に感じられた。もし迷宮内がこれほど空いているのであれば、相応の装備を整えた冒険者なら、二対一の奇襲を心配することなく資源を採掘できるはずだ。


だが、それは彼女の甘い考えだった。その後の三度の遭遇は、回を追うごとに過酷さを増していった。二匹、四匹、そして六匹。さらに悪いことに、彼らの装備も次第に良くなっていく。最初は数回の正確な一撃で済んでいたものが、今や小規模な小競り合いへと発展していた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」

 直近の戦闘を終え、プリシラは肩で息をしながら呼吸を整えていた。時計は午後一時を指しており、最初の戦闘以降、探索はほとんど進んでいなかった。


「……運を使い果たす前に、戻るべきね」

 彼女は時計をしまい、引き返し始めた。回廊には、彼女が通り過ぎた後に残された緑色の死体と紫色の血溜まりが点在していた。


白いコートの袖口には、剣と同様に紫色の返り血が数箇所付着していた。ポケットに入れていた使い捨ての布で剣を拭おうとしたその時、中庭の方から足音が聞こえ、彼女は動きを止めて再び武器を構えた。


(……また別の群れかしら?)

 左耳を壁に当てて様子を伺う。しかし、今度の足音は先ほどよりも重く、数も多い。左手に炎の粒を渦巻かせ、慎重に歩幅を測りながら前進した。だが、予想に反して、前方の中庭からは別の火の光が漏れていた。


用心深く近づくと、男の声が聞こえてきた。

「誰だ? 冒険者か?」


彼女は一瞬躊躇したが、やがて声を張り上げた。

「ええ、あなたたちは?」


数秒の間を置いて、今度は女の声が返ってきた。

「私たちも冒険者よ」


「そう。……あなたたちを信用してもいいのかしら?」


「その心配はいらないよ」

 男の声が答えた。

「この場所にいるだけで十分に過酷だ。できれば同族同士で争いたくはない」


「分かったわ」

 プリシラは念のため左手を構えたまま、中庭へと足を踏み出した。

「私はそのまま通り過ぎるだけだから」


回廊を抜けた彼女を待っていたのは、意外にも見覚えのある顔だった。


「プリシラ殿?」

 兜の奥から、フルプレートに身を包んだ騎士が声をかけた。

「あなたなのですか?」


「ラインハルトさん?」

 続いてプリシラは、隣で弓を構え、矢をつがえようとしていたエルフに気づいた。

「エレインさんも」


「あら、こんにちは」

 相手がプリシラだと分かると、エレインは右手の力を抜き、弦を緩めた。

「この時間にここで誰かに会うなんて珍しいわね」


「またお会いできて光栄です」

 ラインハルトが静かに一礼した。彼はいつもの剣と盾を携えていたが、背中には大きな袋を背負っていた。

「……失礼ですが、ここで何を?」


「探索よ」

 彼女は手の炎を消し、用意していた布で剣を拭き始めた。

「あなたたちこそ、何をしているの?」


「採掘と、狩りですよ」

 彼は事も無げに言うと、袋を床に下ろし、先ほど見かけた黒い滑らかな岩に突き刺さっていたつるはしを掴んだ。


「狩り?」

 プリシラは不思議そうな表情を浮かべた。

「ギルドは魔物の素材を買い取ってくれるの?」


「素材そのものじゃないわ」

 エレインが彼女に近づき、頭からつま先まで品定めするように見た。

「……さっき、戦ったのね?」


「ええ、つい今しがた」

 彼女は半歩下がりながら答えた。

「それが何か?」


「魔石は回収した?」


「マセキ……?」


その一言で、エレインはすべてを察した。エルフは肩越しに相棒へ声をかけた。

「……ちょっと見てきてもいい?」


「ああ。この辺りの安全は確保してあるから大丈夫だ」


「何を見に行くというの?」

 プリシラは、灯りも持たずに自分が来た道を戻っていくエレインを見送った。王室騎士はランタンを手に、慌てて彼女を追った。


「灯りなら必要ないわよ」

 エレインは前を歩きながら言い、少し顔を横に向けて自分の目を指差した。

「エルフの目は、暗闇でもよく見えるの」


数分歩くと、エレインは王室騎士が最初に仕留めたゴブリンの死体の前で足を止めた。腐敗臭が漂い始めていた。にもかかわらず、エルフはベルトの鞘からナイフを抜き、魔物の胸の真ん中を突き刺した。


その行為にプリシラは驚き、一体何を血迷ったのかと問い詰めようとした。しかし、脳が事態を認識するよりも早く、エレインは魔物の体内から紫色の結晶を取り出していた。すると、死体と血溜まりは崩れて塵となり、迷宮へと吸収されていった。


「ほら」

 エレインは、矢じりほどの大きさの結晶をプリシラに放り投げた。

「これをギルドに持っていけば、いくらかの金になるわ」


「へぇ……」

 王室騎士はそれを手の中で転がして観察したが、ただの結晶にしか見えなかった。

「これは何に使われるの?」


「さあね。大きいものほど高く売れるけれど、大きいってことはそれだけ厄介な相手ってことよ」

 彼女は立ち上がり、手に付いたぬめる血を払った。

「それで、もっと殺したんでしょう? 剣に付いた血の量からして、少なくともあと五匹は殺してるはずね」


「……そんなことまで分かるの?」


「これで生計を立ててるからね」

 彼女はくすりと笑った。

「で、どこにいるの?」


「……さらに先よ」


プリシラはエレインを、ゴブリンの群れを仕留めた場所まで案内した。

 回廊の脇には、死体の山が築かれていた。エルフは周囲を見渡すと、それぞれのゴブリンの足を掴み、サッチェルから取り出したロープでひとまとめに縛り上げた。


「これを持って戻りましょう。ラインをあんまり長く一人にしておきたくないしね」


「ええ、異論はないわ」


個々では弱くとも、十匹ものゴブリンは単なる邪魔者以上の存在だった。さらに、蔓で繋ぎ合わせた木の枝を鎧代わりに纏い、より大きな棍棒を振り回す、一段と質の悪い連中だった。


「それにしても」

 エレインは、肩にかけたロープで死体を引きずりながら話し始めた。

「ソロの冒険者にしては、かなりいい仕事をしたわね」


「私が望んでいたほどではないけれど」


「はあ? どういう意味よ。一人で十三匹も仕留めれば十分すぎるくらいでしょう」


プリシラは首を振った。

「私の目的は、第四層へ行くことだから」


その言葉に、エレインは死体を引きずる手を止め、身体を硬直させた。

「……待って、第四層?」


「ええ」


「あそこに『牛人間ミノタウロス』がいるって、分かって言ってるの?」


「承知の上よ」


「それでも行きたいっていうの?」


彼女は頷いた。その瞳には、揺るぎない自信が宿っていた。

「行かなければならないの」


「ふぅん……」

 エレインは再び死体を引きずり始め、小声で呟いた。

「……一人であんなところへ行くなんて、正気とは思えないわね」


中庭に戻ると、エレインはゴブリンの解体作業に入り、ラインハルトは依然として壁から黒い大理石を切り出していた。その間、プリシラは崩れた壁の上に腰を下ろし、剣を手にしたまま休息を摂っていた。


「第四層、ですか」

 ラインハルトがつるはしを岩に叩きつけながら声をかけた。

「……誰かを探しているのですか?」


「ええ」

 プリシラは悲しげな口調で呟いた。

「父が、この迷宮に来ると言っていたの。彼がまだこの下のどこかにいるはずだというのが、唯一の手がかりなのよ」


「第四層……。失礼を承知で申し上げますが――」

 エレインが口を開こうとしたが、ラインハルトがそれを遮った。


「エレイン」


「……事実を言っているだけよ。まともな食事も休息もなしに迷宮で生き残れる者なんてそういないわ。ましてやソロなんて」


「十分に分かっているわ。ルシーナさんともこの迷宮について詳しく話した。けれど、それでも行かなければならない。自分の目で確かめる必要があるの」


エレインは最後のゴブリンの解体を終え、溜息をついた。彼女の手はぬめる紫色の血で染まっていた。血を振り払った後、用意していた布で手を拭い始める。


「想いは立派だけど、ここがどれだけ危険な場所か理解してる? 一歩間違えれば、そこが墓場よ。あるいはそれ以上の悲劇になるわ」


「エレイン。プリシラ殿もリスクは承知の上だろう。でなければ、そもそも我々にこんな話はしない」


「分かってるわ、でも……」

 彼女は眉をひそめ、王室騎士に向き直った。

「……あんた、アルカディアの出身よね?」


「え……? ええ、それがどうして――」


「あんたたちの女王について、聞きたいことがあるの」


その言葉に、ラインハルトはつるはしを振る手を止め、声を荒らげた。

「エレイン!」


「いいえライン、もう終わりにしましょう!」

 エルフは怒りではなく、強い決意を込めて叫んだ。

「あんたは『聖騎士』だったんでしょう! 女王があんたを許すことさえできないなら、こんな嘘をつき続けて生きることに何の意味があるのよ!」


「……いい加減にしろ!」

 彼は叫んだ。

「それ以上、その話をするな!」

 彼のつるはしを握る手は白くなるほど力がこもっていた。

「ロレーヌの名は、アルカディアの過去の汚点だ! 二度と繰り返させはしない!」


「ロレーヌ……?」

 プリシラは小声でその名をなぞり、やがて確信を込めた眼差しで彼を見た。

「……あなたは、ラインハルト・ロレーヌなの?」


空気が張り詰めた。彼は逃げ出したかった。過去を葬り、二度とその名を振り返りたくなかった。だが、プリシラの真剣な眼差しがそれを許さなかった。そこに侮蔑の色はなく、あったのは「再会」という名の認識だった。


「……そうだ。私は、元王室近衛聖騎士――ラインハルト・ロレーヌだ」

※次回更新は5月13日 21:30予定です。

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