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劣化(1)

リオナラは朦朧としながら目を覚ました。朽ちた木の壁の隙間から差し込む一筋の陽光が目に飛び込んでくる。数回瞬きをすると、ようやく視界が定まり、周囲がはっきりと見え始めた。

 そこは小さな木造の小屋で、湿ったカビと土の臭いが鼻を突いた。


「ここは……?」


彼女は困惑しながら呟いた。最後に覚えているのは、注文した新しい装備の代金を払うためにジェラルトの店にいたことだ。だが、次に気づいた時には、この見知らぬ小屋の中にいた。腕を動かそうとしたが、両腕とも背後で固く縛られていた。


「えっ?」

 立ち上がろうとすると、座っていた椅子ごと体が持ち上がった。

「何これ……私、どこにいるの?」


自問自答したその時、左側から小さなすすり泣きが聞こえた。その音の主の方を向くと、左奥の壁に立てかけられた何かにしがみつき、丸まっている金髪の少女の姿があった。


「ねえ……あなた――」

 言葉は最後まで続かなかった。小屋の中の暗闇に目が慣れてくると、その少女がしがみついているのが、痩せこけた老人の死体であることに気づいたからだ。


「あああああああ!」


彼女の悲鳴を聞きつけ、小屋の扉が激しく叩き開けられた。黒いフォーマルなロングコートを纏った、しなやかな体つきの男が入ってくる。


「黙れ! 一体何の騒ぎだ!?」


死体を間近で見るのが初めてだったリオナラは、数時間前に食べた朝食を吐き戻したい衝動を抑えられなかった。

「うげっ! 品性のかけらもないな!」


嘔吐物の溜まりが男の靴の近くに落ち、彼は嫌悪感に顔を歪めて後ずさった。リオナラの口内には苦い酸っぱさが広がり、男が叫ぶたびに吐き気が増していく。

「まだお前に用があるからいいものの、そうでなければ今すぐ灰にしてやるところだぞ」


「な、な……な……!?」

 問い返そうとするが言葉にならず、空気を求めて喘ぐたびにしゃっくりが出てしまい、それが男をさらに苛立たせた。


「チッ! 静かにしろ、ガキが!」

 男は溜まりを跨ぎ、手にしていた歩行杖で彼女の頭を殴りつけた。衝撃で彼女の頭が上下に激しく揺れる。頭頂部から鼻筋にかけて、血が滴り始めた。


「ううっ!」


彼は次に右側の少女に目を向けた。

「お前もだ! そんな汚らわしい死体にしがみつくのはやめろ!」


震える金髪の少女は答えなかった。そのエメラルド色の瞳からは、一切の光が失われている。

「チッ!」

 男は背を向け、背後で扉を乱暴に閉めた。


リオナラは絶望を感じていた。自分に何が起きたのか分からない。頭は痛みで脈打ち、四肢は縛られ、すぐ隣には見ず知らずの他人の死体がある。

 胸が締め付けられ、呼吸は浅く、速くなっていく。腕の感覚が失われ、口の中は苦く、心臓が今にも口から飛び出しそうだった。


(プリス……プリスが……助けてくれる……)

 制御不能な体の震えを抑えながら、彼女は心の中で祈った。

(私……どうして……? どうして……こんなことに……!?)


胃の底から這い上がってくる冷たい感覚が、破壊的な疫病のように全身へと広がっていった。絶望に溺れていくような感覚。それは数年前にも感じたことのある、あの絶望だった。


全身の傷跡が痛み始めた。父親から受けた虐待を思い出させる、脈打つような痛み。

「役立たずめ! 役立たずが!」

 脳裏に父親の怒声が響き、肌の上で鞭がしなる感覚が蘇る。

「お前が……お前が代わりに死ぬべきだったんだ……! 母親はお前のために命を落としたんだぞ! この役立たずの『出来損ない』が!」


彼女の瞳から焦点が消え、周囲の空気が急速に冷え込み始めた。リオナラの体から、強烈な死のオーラが溢れ出し始める。小屋の隙間から生えていた小さな草の束が、彼女の魔力に当てられただけで、枯れ果て、丸まっていく。


その黒ずんだ魔力は地面を伝い、死の霧となって広がり、かつて生きていたあらゆるものを侵食《しんしょく》し、あるいは死滅させていった。そこには、亡くなった養父に虚ろにしがみついていた少女も含まれていた。


彼女は反応しなかった。それどころか、少女エレノアはその冒涜的な魔力を受け入れた。黒い霧が彼女のつま先に触れると、それは疫病のように全身へ伝わった。血管が黒く浮き上がり、肌から生気が失われていく。「死」が彼女の体を這い上がっていく様は、次の犠牲者を道連れにしようとする水死人の幽霊のようだった。


だが、エレノアに訪れた死は、決して安らかなものではなかった。霧が体の半分ほどに達した時、彼女の顔が苦痛に歪んだ。悲鳴を上げることはできなかった――声が出なかったのだ。黒い霧は腐敗のように広がり、瞬く間に彼女の肉体を蝕んでいった。筋肉は痛みと衝撃で不随意に痙攣した。


わずか数秒のうちに、エメラルド色の瞳の金髪少女は、同類の死体にしがみつく青白い骸と化した。

 数秒が過ぎ、数分が経った。ピクリ、と動いた。


老人の指が動き、木の床をかきむしった。突如として、老人の死体から骨の砕ける不気味な音が響き渡り、彼は自力で立ち上がった。傍らには、力なく倒れたエレノアの死体があった。

 霧は地面近くに留まっていたが、やがて凝縮され、ゆっくりとリオナラの体へと戻っていった。それが体内に戻った瞬間、彼女は跳ね起きた。激痛が全感覚を襲い、胸の中心がマグマのように熱くなるのを感じた。


これほどの激痛を経験したのは初めてだった。だが、悲鳴を上げることはできなかった。筋肉同士が消耗戦を繰り広げているかのように硬直し、息をすることも、叫ぶことも、動くことさえままならなかった。

(私に……私に何が起きているの!?)


ふくらはぎ、太もも、腕、前腕、そして胸。全身の肉体が外側に向かって爆発するような感覚に襲われた。全筋肉に過度な負荷がかかり、彼女はそのまま意識を失った。小屋は再び静寂に包まれた。


---


小屋の外。しなやかな体つきの男と、筋骨隆々の相棒が、棍棒やピッチフォーク、短剣を手にした十人ほどのゴロツキと共に待ち構えていた。


「本当に来ると思うか?」

 筋骨隆々の男が疑わしげに尋ねた。彼は濃緑色のズボンを履き、胸当ての下に白いシャツを着ていた。捲り上げられた袖からは、巨大なレザーカイタスを装着した太い腕が覗いている。


しなやかな男は首を振り、肩をすくめた。

「来るさ。辛抱強く待れ」


スラム街は、待ち伏せにはうってつけの場所だった。衛兵もおらず、英雄気取りで首を突っ込んでくる者もいない。プリシラは、自分がどこへ向かうべきか正確に把握していた。

 騎士の急ぎ足に、装備が触れ合う音が重なる。彼女は鞘からレイピアを引き抜いた。


(チャールズとカール……)

 残された名前に思いを巡らせる。

(なぜリオを狙ったの? 私を誘い出すため?)

 論理的な説明は見つからなかった。だが、なすべきことは明白だった。彼女が養父の小屋へと続く広場に足を踏み入れると、数人の武装した男たちが目に入った。体格は様々だが、彼らが彼女の命を狙っていることだけは確かだった。


男たちの中から、一人の男が首謀者として立ちはだかった。黒いロングコートを纏った、細身の男だ。スラム街にはあまりにも不釣り合いな存在だった。


「ようこそ、魔法剣士のお嬢さん。予想よりも早かったですね」

 彼は自信たっぷりに微笑み、軽く一礼した。

「私の名はチャールズ。ここがお前の終着駅だ」


「リオナラをどこへやったの?」


「あのガキか? 小屋の中にいるが、二度と会うことはないだろうよ」


プリシラが左手を挙げると、リンゴほどの大きさの火球が現れた。彼女は怒りに震えていたが、放たれる魔力は完全に安定していた。


「この場所を焼き払うことに躊躇はないわ。彼女が無事であることを証明しなさい!」


「チッ、あの野郎……」

 しなやかな男は舌打ちし、筋骨隆々の男に小屋の中を確認するよう促した。

「まともな魔術師だなんて、イヴァンの奴は聞いてなかったぞ」


大男が扉を開けた瞬間、痩せこけた老人が中から飛び出し、彼に体当たりした。だが、かつての老人とは似ても似つかない、凶暴な死体となっていた。細い腕が大男の肩をロックし、彼を地面に押し倒すと、野生の飢えを剥き出しにして顔面に噛み付こうとした。その濁った黄色の瞳には人間らしさはなく、ただ本能のみが宿っていた。


「あああああ!」

 大男が悲鳴を上げ、チャールズは振り返って杖を死体へ向けた。

「ファイアボルト!」


杖の先から火の弾が放たれ、虚ろな死体の側面に命中して炸裂した。だが、それは止まらなかった。それどころか、死体はさらに活気づいたように見えた。

「一体何なんだ……!?」


大男は死体の喉を掴み、顔を背けながら、必死に噛み付こうとする死体を突き放そうともがいた。


プリシラは小屋の入り口で何が起きているか見ていなかったが、そのわずかな隙を逃さず突進した。ピッチフォークを手にした三人のゴロツキが、彼女の勢いを止めようと立ちはだかる。彼女は左手を前に突き出し、叫んだ。

「ブラスト! ファイアボール!」


掌から突風が巻き起こり、火球を煽る。それは螺旋を描く劫火《ごうか》となり、男たちを完全に焼き尽くして黒焦げの死体へと変えた。仲間が悶絶しながら死んでいく様を見て、残りの者たちは躊躇した。


その躊躇が首謀者への道を開いた。プリシラは迷わず踏み込む。レイピアを突き出したが、チャールズは左に避けて辛うじて刃をかわした。


「くっ……!」

 チャールズは刃の風を感じた。至近距離での騎士の威圧感は凄まじかった。あともう一振りあれば仕留められる、しかし――


「おらぁぁぁ!」

 大男が、先程の蘇った死体をプリシラの右側に投げつけた。彼女は草地を転がり、老人の死体はさらに数回回転して別のゴロツキの近くで止まった。


「うっ……!」

 唸り声を上げて立ち上がろうとした瞬間、背中を木製の棍棒で殴られた。

「ああっ!」


彼女がよろめくと、別のゴロツキが短剣を手に正面から刺そうと駆け寄ってきた。だが、彼女は反射的にレイピアを払い、相手の喉元を切り裂いた。男は傷口を押さえながら後退した。

(数が多すぎる……!)


主要な二人を除いても、まだ七人の武装した男たちが残っている。魔法で一掃することもできるが、そうなれば周囲は火の海だ。リオナラが本当に小屋の中にいるのなら、彼女を巻き込む危険のある炎の魔法は使えない。


どうすべきか策を練っている間に、チャールズが再び杖を掲げた。

「ウィンドバレット!」


圧縮された風の弾丸が高速で放たれた。彼女が辛うじてそれを避けると、ピッチフォークを持った別の男が素早く踏み込み、彼女の右脇腹を突き刺した。


「んっ……!」

 鎖帷子《くさりかたびら》を貫く金属の鋭い痛みを感じ、彼女は奥歯を噛み締めて耐えた。レイピアの柄頭《つかがしら》でピッチフォークを叩き落とし、即座にそれを踏みつける。続けて持っていた男の胸を蹴り飛ばし、武器を奪った状態で彼を後退させた。


別の者が全体重を乗せて短剣で突っ込んできたが、彼女は巧みにかわし、相手の腕に二撃、浅い突きを食らわせた。男は武器を取り落とした。

「はぁ……はぁ……」


プリシラが呼吸を整えようとするが、ゴロツキたちは執拗に彼女を包囲する。得物の長さがバラバラなため、誰が最初に仕掛けてくるか片時も目が離せない。

(このままじゃ、魔法を使う暇がない……!)


「呪文を唱えさせるな! 攻撃し続けろ!」

 チャールズが叫び、隣の筋骨隆々の男を促した。

「行け、カール。ここで仕留めるぞ」


カールはレザーカイタスの下で指の関節を鳴らし、自分の拳を叩いた。

「合点だ、ボス」


勢いづいたゴロツキたちが、さらに攻撃的になり始めた。一人が背後からピッチフォークで刺そうとしたその時――彼女が振り返るよりも早く、一本の矢が男の首に深々と突き刺さった。


「がはっ!」

 男は血を吐きながら草の上に倒れ、喘ぎ、数秒後に絶命した。全員の視線が矢の飛んできた方角へと向いた。そこには、剣を掲げ、汚れに塗れた盾を構えてこちらへ走ってくる男の姿があった。その後ろには、弓を構えて次の矢を番えているエルフがいた。


「プリシラ殿!」

 ラインハルトが張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「少女はどこだ!?」


「小屋の中よ!」


「承知した!」

 彼の巨躯とカイトシールドの威圧感に、ゴロツキたちは怯んだ。


「この能無しどもが!」

 チャールズが叫んだ。

「そいつを止めろ!」

※次回更新は4月9日 21:30予定です。

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