侵食(3)
「何か大きなものが来るわ」
エレインは素早く膝をつき、右耳を石の床に当てた。重く、激しい足音が急速に近づいてくるのが聞こえる。
「構えて!」
騎士は腰を落として盾を体の前に構え、ロングソードの柄を握る手に力を込めた。エレインは立ち上がると、弓に矢を番え、さらに三本の矢を左手の指の間に一本ずつ挟んで、二歩ほど後退した。ラインハルトとは違い、彼女の眼はこの暗闇の中でも獲物をはっきりと捉えていた。
足音が騎士の耳にも届くほど大きくなった瞬間、彼女が叫んだ。
「ホブゴブリンよ!」
暗闇から提灯の明かりへと、巨大な脚が踏み出してくる。――ラインハルトは、正に今、気を引き締めた。
巨大な木槌が、彼を押し潰さんばかりの勢いで振り下ろされた。だが、エレインの警告のおかげで、彼は何が来るかを予期していた。木製の武器は、角度をつけた盾に激しい音を立てて弾かれ、彼の左側の地面へと逸らされた。彼は素早い動きでロングソードを突き出し、そびえ立つ深緑色の怪物の脇腹を刺した。まずは注意を引くためだ。
「グォォォォォォッ!」
耳を裂くような咆哮が回廊全体に響き渡った。ラインハルトはその凄まじい音に一瞬怯んだが、少なくとも標的の意識を自分に向けさせることには成功した。
ホブゴブリンが木槌を振り上げ、騎士の盾の側面を掠めながら彼を横に弾き飛ばした。その瞬間、エレインは隙を逃さず、立て続けに三射を放った。矢は怪物の右腕の各所に突き刺さる。肩に一本、肘の近くに一本、そして最後の一本は前腕に当たって砕け散った。
「グルルッ!」
エルフの執拗な攻撃を嫌い、怪物は木槌を彼女の方へ投げつけようと腕を振りかぶった。しかし、ラインハルトがすかさず前腕の内側を半分ほど切り裂く斬撃を叩き込み、その動きを阻止した。
「ガアァァァァッ!」
エレインへの攻撃は防いだものの、巨体から繰り出された左腕の豪快ななぎ払いがラインハルトを捉えた。彼は自分の盾と背後の石壁の間に挟み込まれる。
「ぐっ……!」
衝撃で体が揺さぶられたが、彼はその密着状態を利用し、ホブゴブリンの腕を左腕でロックすると、ロングソードを相手の前腕に深く突き立てた。
騎士の頭部が無防備になった。怪物が木槌を振り下ろそうとしたその時、エレインの精密な射撃が再び火を吹いた。放たれた矢が怪物の喉を貫き、巨獣は喘ぐように空気を求めた。
そのわずかな好機を見逃さず、ラインハルトは剣の中ほどを掴み、テコのようにねじった。喉の傷口から空気が漏れる不快な音が漏れる。
「うおぉぉぉぉっ!」
ラインハルトが叫び声を上げながら、ねじれた腕から剣を引き抜くと、紫色の血が彼の鎧に飛び散った。再び木槌が襲いかかってきたが、受け流すスペースがない。彼は相手に組み付くようにして、半剣術の技法で剣をその胸へと深く突き入れた。
強靭な筋肉と太い骨に阻まれ、刃はそれほど深くは届かなかった。だが、騎士の全体重を乗せた衝撃は怪物を怯ませるに十分であり、エレインが完璧な狙いを定める時間を稼いだ。放たれた矢は、怪物の首に吸い込まれるように突き刺さった。
怪物がよろめきながら後退し、ラインハルトはその隙に距離を取った。彼が盾を構えて下がると、エルフが次の矢を緩く番えながら背後に寄ってきた。だが、もはや戦いを続ける必要はなさそうだった。ホブゴブリンは激しく喘ぎながら膝をつき、ずたずたになった喉をかきむしりながら呼吸しようともがいていた。
鈍い動きで木槌を振り回そうとしたが、数秒後、怪物は石の床に顔から崩れ落ちた。乾いた音が響く。
「ふう……」
ラインハルトは構えを解き、疲れ果てた溜息をついた。痛みとアドレナリンで体が脈打っている。エレインは左手に持っていた予備の矢を矢筒に戻した。
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しばらくすると、背後から急ぎ足の足音が聞こえてきた。女剣士と斥候、そして他の数人の冒険者たちが、二人の採掘者を連れて駆けつけてきた。
「騒ぎが聞こえたから来てみれば……」
女剣士は、床に転がる深緑色の巨体と紫色の粘り気のある血溜まりを見て、言葉を失った。
「うわあ……」
「何だって?」
斥候が不思議そうに彼女を見たが、視線の先にある倒れたホブゴブリンに気づくと声を上げた。
「うわっ! 何だこりゃ……! お前ら二人でこいつを仕留めたのか!?」
「他に誰か見える?」
エレインは皮肉を言いながら、ラインハルトに弓を預け、ベルトから短剣を抜いた。
「警戒を解かないで。他にも魔物が潜んでいるかもしれないわ」
エルフは無造作に死体へ近づくと、その背中の左側を切り裂き始めた。採掘者たちの手も借りて肋骨を数本へし折ると、筋肉としなやかな腱を切り裂き、胸の中から握り拳ほどの大きさの魔法結晶を引き抜いた。これほどの巨獣を仕留めた報酬としては、十分な獲物だった。
結晶が取り出されるやいなや、怪物の死体は崩れ始め、やがて後には木槌だけが残された。
「こいつは相当な稼ぎになるな」
年配の採掘者が苦々しく笑った。
「あんたたちが直接持ち帰れないのが残念だよ」
エレインは肩をすくめて結晶を採掘者に放り投げると、ポーチから出した古い布で手を拭いた。肌に血の跡は残ったが、少なくとも粘り気は取れた。
「本当に肝が座ってるな、あのお嬢ちゃん……」
斥候が女剣士に耳打ちした。
「俺ならあんなもの解体する勇気はないぜ」
「だから『エルフの女神様』なのよ」
彼女は冗談めかして彼の脇腹を突いた。
仲間たちが騒いでいる中、壁に深く寄りかかっていたラインハルトのもとへエレインが歩み寄った。
「弓を預かってくれてありがとう」
彼女は彼から弓を受け取ったが、立ち去る前に少し心配そうな声をかけた。
「怪我の具合はどう?」
「……歩ける程度には大丈夫だ」
彼は左腕を上げようとしたが、前腕の拍動するような痛みと熱のせいで、盾を持ち上げ続けるのがやっとだった。
「くっ……」
「無理はしないで。みんな揃ったんだから、あなたは後ろに下がっていなさい」
彼は黙って頷いた。
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地上への帰り道は、比較的平穏だった。時折、一匹か二匹のゴブリンに遭遇したが、他の冒険者たちの協力で容易に排除することができた。やがて彼らは、ダンジョンの外へと続く石階段に辿り着いた。長い階段の先には、微かな朝の光が差し込んでいた。それは一行に希望と安堵をもたらした。
疲れ果てた重い足取りでダンジョンを出ると、不気味なモノリスは何事もなかったかのように彼らを見送った。
「お疲れさん」
入り口の衛兵の一人が声をかけた。
「誰か――」
「いや、死人は出てねえよ」
年配の採掘者が、衛兵の質問が終わる前に答えた。
「そうか、ならいい」
衛兵はモノリスの脇に張られたテントの下にある自分の席に戻った。
ラインハルトは左腕を動かさないようにしていたが、区画の中ほどまで来るまではロングソードを抜いたままにしていた。そこでようやく、彼は剣を鞘に収めた。
年配の採掘者が二人を見て、静かに微笑みながら言った。
「二人はもう帰るといい。あんたたちの取り分はギルドに預けておくから、後で受け取ってくれ」
エレインは短く頷いて答えた。
「分かったわ。また今度ね」
「ああ、いい仕事だったぜ。じゃあな」
ここで一行は二手に分かれた。キャンプ用品を運ぶ採掘者と冒険者たちは中央広場へ向かい、ラインハルトとエレインはスラム街へと足を向けた。
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二人の住処は、古びた納屋を改築しただけの質素な家だった。日干し煉瓦の壁は決して美しいとは言えなかったが、彼らがここを選んだ理由は見た目ではない。
エレインは枝を編んで作ったドアを押し開け、中へ入った。内部は想像通りの暗さで、乾燥した壁から落ちる埃が舞い、土間には虫が這い回っていた。
疲れ果て、ボロボロになった二人は奥へと進んだ。ラインハルトはジェラルトから借りている部屋に入り、ゆっくりと鎧を脱ぎ始めた。エレインはキッチンに座り、弓と矢の詰まった矢筒をカウンターの上に置いた。
「手伝いましょうか?」
隣の部屋から声をかけると、彼から返事が戻ってきた。
「……頼む」
彼女は迷わず寝室に入り、彼のプレートアーマーを固定しているベルトや革紐を解くのを手伝った。それは長く、痛みを伴う作業だった。
「……ううっ」
左腕の籠手を外した時、彼は呻き声を上げた。盾を支えていた前腕は紫色に腫れ上がり、痣になっていた。エレインは眉をひそめ、厳しい口調で彼を咎めた。
「やっぱり無理をしていたじゃない」
「……戦っている最中は、これほどとは思わなかったのだ」
彼は籠手をはめたままの右手をかざし、詠唱を始めた。
「優雅なる光の女神よ、この子に慈悲を垂れ給え……治癒」
祈りが終わると、彼の手から柔らかな黄金色の光が放たれ、傷ついた腕を包み込んだ。赤みと腫れは見る間に引いていき、一分ほどで跡形もなく消え去った。見た目こそ回復したが、ラインハルトの腕の芯にはまだ疼くような痛みが残っていた。
その奇跡を目の当たりにしたエレインは、ほろ苦い笑みを浮かべて静かに言った。
「こういうのを見ちゃうと、私も教会で教えを受けておけばよかったって思うわね」
「お前には、その機会がなかっただけだ」
彼は右の籠手のストラップを外しながら答えた。
「それに、お前は近接戦闘に長けているだろう。戦場ではそれだけで十分だ」
「戦場ではね」
彼女は強調した。
「でも、毎日ダンジョンに潜る今の生活では、そうもいかないわ」
彼女は彼の胸当てを、ベッド代わりにしている干し草の山の脇に置いた。彼が最後の防具を脱ぎ捨てると、かつての幾多の戦いで刻まれた古い傷跡が、鍛え上げられた体に浮かび上がった。
彼は干し草の上に横たわり、目を閉じた。ダンジョン遠征の疲れが全身を襲い、彼は瞬く間に深い眠りに落ちていった。
「ライン、何か食べるものは……」
エレインが部屋に戻ると、彼は両腕を広げたままいびきをかいて寝入っていた。着古した緑色のシャツにはいくつかの穴が開いており、エルフは彼が一体いつからこの服を着続けているのだろうかと不思議に思った。
彼女は微笑むと、隣の部屋にある浴槽へ向かい、自分のために水を温めようとした。
「おやすみなさい、卿
彼女が簡易浴槽の下で火をつけようとしたその時、枝編みのドアが激しく叩き開けられた。
彼女は反射的に短剣に手をかけ、キッチンの入り口からのぞき込むと、そこには見覚えのある人物が立っていた。
シャツを着ていない褐色の男が、金槌を手に激しく肩で息をしていた。彼の額からは血が流れており、それを手の甲で拭っている。エレインは驚きに目を見開いた。
「ジェラルト!? 何があったの?」
「お嬢ちゃん……相棒はどこだ!?」
彼は言葉を絞り出そうとしていたが、あまりの疲労に息が続かない。背後で衣擦れの音がし、ラインハルトが彼女の肩越しに顔を出した。
「どうした、ジェラルト」
騎士が尋ねると、鍛冶屋はようやく呼吸を整えて叫んだ。
「あの剣士の姉ちゃんが、やべぇことになっちまった……! ゴロツキの野郎どもに、あのちびっ子をさらわれちまったんだ!」
「どこへ連れて行かれたか分かるか?」
「いや……分からねえ……。だが、スラムの方へ向かったってことだけは……!」
「分かった」
ラインハルトは頷き、即座に剣と盾を掴んだ。彼は寝室に戻り、ベルトに最低限の装備を整えながら叫んだ。
「お前は街の衛兵所へ行け! 隊長に事の次第を伝えるんだ!」
「おう! 任せろ、兄ちゃん!」
ジェラルトは脱兎のごとく納屋を飛び出していった。エレインは騎士を見つめ、溜息を一つつくと、自分の弓と矢筒を手に取った。
※次回更新は4月7日 21:30予定です。




