侵食(2)
「エレイン、それがお前の名だ」
男の声が脳裏に響いた。厳格で、冷徹で、慈悲のかけらもない声だ。
「お前は、使い勝手のいい刃……道具となるまで鍛錬を積め。疑問を抱かず、問いを発さず、私が指し示す万の命を屠る刃となれ」
血に染まった幼い手の記憶が、鼓動に合わせて脳裏を明滅した。その光景は進むごとに凄惨さを増し、やがて彼女は震える手で短剣を構え、全身を甲冑で固めた一人の騎士と対峙していた。騎士は堂々とした、力強い声で名乗りを上げた。
「我が名はマックスウェル・ロレーヌ! 幼き者よ、貴殿の名は何と申す?」
彼女は悟っていた。これが最期だと。自分の細い腕では、目の前の鋼の山の下にある鎖帷子を貫くことなど到底できない。彼女は剣を握る腕をもう片方の手で支え、標的を仕留めるための絶望的な最後の一撃を放とうと踏み出した。だが、巨躯の騎士の技量は彼女を遥かに凌駕しており、速く正確な一撃によって、彼女はあっけなく武器を弾き飛ばされた。
彼は剣を突き出し、刃先を彼女に向けたまま再び問うた。
「もう一度問う、幼き者よ。貴殿の名は?」
エレインの濃緑色の瞳には何の感情も宿っていなかった。虚無そのものだった。それでも、目の前の敵がなぜ自分に止めを刺さないのか、不思議でならなかった。
(ああ……きっと騎士というのは、こうやって敵を殺すものなのね……)
彼女はそう思った。「絶望」という感情さえ知らず、ただ「諦念」と共に彼女は口を開いた。
「……エレイン」
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唐突に、彼女は目を見開いた。速まっていた鼓動が、静かな呼吸を繰り返すうちに次第に落ち着きを取り戻していく。
テントの中は静かだった。隣ではラインハルトがまだ眠りに就いており、外からは焚き火が爆ぜる音が聞こえてくる。彼女は数回瞬きをし、身体を強引に起こした。過去の記憶が澱のように心に残り、彼女は静かに溜息をついた。
「マックスウェル卿……」
彼女は視線をラインハルトに向け、それからテントの入り口へと移した。
「あなたの息子さんは、随分と厄介なところまであなたから受け継いでしまったみたいね」
彼女はケトルヘルムを掴み、彼を起こさないよう慎重にテントの外へ出た。外では、昨夜の採掘者が一人だけ起きていた。彼は近くの茂みの枝を串にし、弱まった火でソーセージを焼きながら、固くなったパンを炭のそばに置いて柔らかくしていた。
「おや、おはよう。お嬢ちゃん」
彼は手を止め、小さく笑った。
「それとも、『こんばんは』かな?」
エレインは慣れた手つきで懐中時計を取り出し、確認した。
「三時よ。朝と言っていいと思うわ」
確信があるわけではない。頭上の不気味な夜空は、眠りにつく前と何ら変わりがなかった。
「なら、おはようだな」
彼はソーセージに意識を戻した。
「すぐにそっちの分も用意してやるよ」
「ええ、ありがとう」
「いや、俺たちの命を守ってくれてるのはあんたたちだ。礼を言うのはこっちさ」
彼女はテントの前に座り、首を少し傾けて小声で呟いた。
「……仕事をしてるだけよ」
数分もしないうちに、他の冒険者たちもテントから姿を現し始めた。若い斥候は目に見えて疲れ果てていたが、同じテントから出てきた女剣士の方はすっきりとした顔をしていた。
「ふあぁ……お、朝飯はソーセージか」
女が男の脇腹を小突いた。
「いっ……」
「ほら、シャキッとしなさい!」
彼女が彼の背中を叩くと、彼は痛みに跳ね上がった。
「ぎゃっ!」
(騒がしいわね……)
エレインはテントの中から弓を取り出し、外に置いてあったポーチに手を伸ばした。中から封のされた陶器の瓶を取り出し、蓋を開ける。
「ねえ、何してるの?」
女剣士が近づき、彼女の膝の上にある瓶について尋ねた。
「弓に蝋を塗っているのよ」
エレインは瓶から黄色いペーストを取り出し、弦に擦り込みながら答えた。
「剣に油を塗るのと同じこと」
「へえ、弓もそんな手入れが必要なのね」
「一射でも多く矢を放てるようにね。その方がいいでしょ」
「それにしても、この場所で正確に狙えるなんて感心しちゃうわ。ここの暗闇って、なんだか現実味がないもの」
「訓練は積んでいるから」
「朝飯ができたぞ!」
採掘者が叫んだ。
「固いパンも持っていけ!」
「それじゃ、食べにいきましょう」
女剣士はそう言い残し、素早く背を向けた。
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エレインが手入れを終える頃、ラインハルトがテントから出てきた。左手に盾を、右手には鞘に収まった剣を既に持っている。鎧が鳴らす独特の金属音に、エルフは微かな笑みを浮かべて振り返った。
「おはよう、ライン」
「おはよう」
彼は周囲を軽く見渡した。
「異常はないか?」
彼女は頷いた。
「ええ。先に食べてきて。私はこれを仕上げてしまうから」
「分かった」
彼はベルトの剣を整え、盾を肩のストラップに固定し直すと、焚き火のそばへ向かい、二つの「食事」を受け取った。スライスされた二枚のパンの間にソーセージを挟んだだけのものだ。パサついて味気ない食事だが、空腹で動くよりは遥かにマシだった。
鎧を微かに鳴らしながら、ラインハルトはエレインの隣に腰を下ろした。そして、手作りのサンドイッチを彼女の口元に差し出した。彼女は視線を弓の手入れから外さないまま、差し出された食事を一口かじった。
ラインハルトは自分の分を、一口で半分ほど平らげた。
(彼女はアルカディアの従騎士なのだろうか)
彼はプリシラとの出会いを思い返しながら、ゆっくりと咀嚼した。
(あれほどまでに強い正義感を抱いているとは……。もし本当に王都の人間なら、あるいは……)
故郷に思いを馳せずにはいられなかった。彼の知るアルカディアは、決して完璧な国ではなかった。若き新女王の即位当初は不安定だったが、今のアルカディアは魔法と技術の進歩で広く知られている。生活水準は向上し、犯罪も劇的に減少した。
ラインハルトは食事を飲み込んだが、それは乾いた塊となって喉を通っていった。
(いや……一人のために王国の名誉を汚すことなど、騎士の成すべきことではない)
彼は残りの食事を最後の一口で片付け、無感情に噛み砕いた。
(私は……)
「ライン」
エレインの柔らかな声が彼を現実に引き戻した。見ると、エルフが「あーん」をするように口を半分開けて待っていた。
「ああ、すまない」
彼が食事を近づけると、彼女はまた一口かじった。彼とは対照的に、彼女は少しずつ食べ、よく噛んでから飲み込んだ。
「ありがと」
彼女は短く答え、仕上げの作業を続けながら言った。
「また、あの女剣士のこと考えてた?」
「いや。なぜそう思う?」
「少し、考え込んでるみたいだったから」
彼女は再び首を傾げ、口を開いた。
「あんたが……ふうちゅう(集中)してないなんて……めじゅらしいわね」
「エレイン、食べるか喋るかどちらかにしなさい。行儀が悪い」
彼女はしばらく噛んで飲み込んでから言い直した。
「あんたが心ここにあらずなんて、珍しいって言ったのよ」
「気のせいだ。帰還の経路を考えていただけだ」
「地上を恋しがってるのね?」
エレインは最後の一口を食べ、独り言のように笑った。
「私もこの場所、あんまり好きじゃないしね」
「食べるか喋るかだ」
「はいはい」
食事を終えると、エルフは立ち上がり、弓をテントに立てかけて腕を伸ばした。ラインハルトも同じように立ち上がり、採掘者の方を向いた。
「出発する」
採掘者はまだ食事の途中だったが、口をいっぱいにしたまま片手を挙げて答えた。
「おうよ」
騎士は準備を整えた相棒を見た。
「行くぞ」
「了解」
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彼は火の灯った提灯をベルトのフックに掛け、ロングソードを鞘から引き抜いた。鋼の鳴る音が野営地に響き、金属の足音が遠ざかっていく。
背後から、斥候と女剣士の声が重なった。
「気をつけてな!」
エレインはラインハルトの手の届く範囲に位置取り、彼の歩調に合わせた。格闘術の心得はあるものの、彼女の訓練の多くは「対人」の暗殺術であり、「対魔物」ではない。
対してラインハルトは、魔物も人は等しく屠る術を熟知していた。パラディンとしての彼の役割は、王を護り、軍を率いることだった。ゆえに、あらゆる武芸を叩き込まれている。
狭い石造りの通路は、不気味なほど静まり返っていた。頭上の空は相変わらず、夜空を模倣しようとして失敗したような、超現実的な暗黒に光の点が散りばめられている。風もなく、自然の光もないこの場所は、居るだけで不快感を募らせた。
「ライン」
「何だ?」
「……あの女剣士、私たちのパーティーに誘ってみない?」
「……何?」
彼は足を止め、肩越しに彼女を振り返った。
「なぜそんなことを言い出す?」
「考えてみてよ。アルカディアのことも聞けるし、戦力的にも悪くないでしょ」
「……」
彼は向き直り、剣を強く握り直して前進を再開した。
「その話は、ここを出てからにしよう」
「それもそうね」
彼女はぴたりと寄り添ったが、彼の足音だけで、何かが彼を悩ませているのが分かった。
(アルカディアの話になると、いつもこうね……)
エレインは心のどこかで無力感を感じていた。彼にとって「パラディン」という称号がどれほどの重みを持っていたかを知っているからだ。彼は選ばれし騎士であり、その剣技と光の女神の加護は、統治者にとって完璧な「剣」であり「盾」だった。
(それなのに……)
彼女は彼の背中を見つめた。暴力と歪みに満ちたダンジョンを彷徨う、迷える魂。蝕まれていく存在――堕落
(こんな場所に縛り付けられていい人じゃないのに……)
二人は沈黙の中で探索を続けた。揺れる装備の音と、ラインハルトの鎧が擦れる音だけが、不快な石の回廊を満たしていた。ダンジョン探索において死は常に隣り合わせだが、富の約束の裏に潜むもう一つの危険は、「精神の摩耗」だった。
恐怖が、肌を刺すように実体を持って迫ってくる。一歩進むごとに、胃の奥から冷たい感覚が広がり、絶え間ないパニックの縁に立たされているような感覚に陥る。感情を制御する訓練を受けている二人でさえ、それは極めて不快な体験だった。
エレインは、肩に食い込むような違和感のあるガンベゾンを直そうと腕を動かした。同じように、ラインハルトもカイトシールドの持ち手を強く握り直した。
彼は不意の襲撃に備え、常に盾を腰より少し高い位置に構えていたが、通路は妙に空っぽだった。
「戻っている途中なのは分かってるけど……」
エレインは背後を気にしながら言った。
「不自然じゃない?」
「同感だ」
彼は生唾を飲み込んだ。
「この感覚、どうしても慣れんな……」
その時、エルフが足を止めた。それに気づいたラインハルトも足を止め、前を向いたまま尋ねた。
「……何を聞いた?」
※次回更新は4月5日 21:30予定です。




