小さな一歩(1)
帰り道は何事もなく穏やかだった。冒険者や採掘者たちが街の東へと向かい、商人や労働者たちは、昼時に日用品を買いに来る主婦や宿の主たちの喧騒に備えて準備を進めていた。
ようやく宿に戻ると、最初に気づいたのは広間の静けさだった。寂しそうにしていたリオナラにルシーナが付き添っている以外、広間には誰もいなかった。
「戻ったわ」
騎士が足を踏み入れながら声をかけると、リオナラはパッと顔を輝かせて笑顔を浮かべた。
「おかえりなさい、プリス」
プリシラは二人に歩み寄り、リオナラの膝の上を不思議そうに覗き込んで眉を上げた。
「何をしていたの?」
「あ、あのね、ルシーナさんが文字の読み方を教えてくれているの」
受付嬢は温かな微笑みを浮かべた。
「大したことはしていませんよ。物語を読み聞かせているだけですから」
「うん。でも、おかげでこの言葉がどういう意味か、少し分かった気がするの」
リオナラが答えると、プリシラは感心したように頷きながら自分の顎に手を当てた。
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「さて、それじゃあ……」
ルシーナは赤い表紙の本を閉じ、立ち上がりながらテーブルに置いた。
「今週分の食料を買い出しに行かなくちゃ。私はこれで失礼しますね」
「リオナラの面倒を見てくれて感謝します」
プリシラは軽く一礼した。
「あ、本を忘れていますよ」
「ああ、それはお二人に差し上げようと思っていたんです」
「いいのですか?」
「ええ、私はもう何度も読みましたから」
彼女は懐かしそうに表紙を指でなぞった。
「物語の内容は全部暗記しているくらいです。それに、私の部屋で埃を被らせておくより、読み書きを勉強している子の役に立つ方がずっといいでしょう?」
プリシラは頷き、もう一度頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
リオナラも慌てて立ち上がり、同じように頭を下げた。
「ルシーナさん、ありがとう!」
「どういたしまして、お二人さん」
彼女は振り返り、軽く手を振って宿を出て行った。
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広間に二人きりになると、プリシラは報酬として受け取った金袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
硬貨がぶつかり合う音を聞いて、リオナラが興味深そうに覗き込んだ。
「それ、お金?」
「ええ。私を襲った男を捕らえた報酬よ」
騎士は椅子に座り、硬貨を数え始めた。かなりの枚数があるのを見て、リオナラは一歩近づいて尋ねた。
「手伝ってもいい?」
プリシラは少し驚いたものの、微笑んで頷いた。
「ええ、お願いするわ」
袋の中身を半分に分け、二人は報酬の集計を始めた。外から聞こえる物音や、厨房から響く静かな作業の音。
リオナラは不思議と、ここが自分の家であるかのような感覚に陥っていた。他に「家」と呼べる場所があるわけではなかったが――少なくとも、記憶にある限りは。
それでも、プリシラのそばにいて、必要な手伝いをしているだけで心が温かくなった。彼女はこの生活に満足していた。
「二十四……二十五……」
自分の分の山を数え終え、少女は騎士を見た。
「二十五枚あったよ」
「合計で銀貨五十枚ね」
プリシラはしばらく顎に手をやり、考えに耽った。
「リオ、何か欲しいものはある?」
「えっ? ううん、別にないけど……どうして?」
「そう……」
彼女は自分の小銭入れを解き、数え終えた二十五枚の銀貨を仕舞うと、残りの半分を元の袋に戻した。
「ほら。これはあなたの分よ」
「えっ? い、いいよ、そんなの受け取れない……」
「自分の持ち物を持つという『責任』だと思って」
彼女はリオナラの前のテーブルに金袋を置いた。
「私が十代の頃、父様も同じことをしてくれたわ。使うもよし、貯めるもよし。どうするかは、あなたが決めていいのよ」
リオナラの青い瞳が、目の前の袋に釘付けになった。
これまでの人生で、何かを「与えられた」ことなど一度もなかった。彼女にとって、何かを手に入れるということは、施しを受けるか、盗むかのどちらかだった。そのどちらも、彼女の心に誇りをもたらすものではなかった。
彼女は体の前で両手をぎゅっと握りしめた。
自分の人生の一端に、初めて責任を任されたという感覚。それは喜びと驚き、そして純粋な誇りで彼女を満たした。
彼女は思案げで、どこか確信の持てない表情を騎士に向け、静かに尋ねた。
「……あ、あの。ジェラルトさんのところへ、行ってもいいかな?」
プリシラは穏やかな微笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ、行きましょうか」
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椅子を引く音と硬貨の音を響かせ、二人は宿を出た。
プリシラは左手を腰のレイピアの鍔に休ませ、リラックスした様子で歩き、その右側をリオナラがぴったりと寄り添うように歩いていた。少女は両手で抱えるようにして、大切に金袋を持っていた。
通りは概ね静かで、買い出しをする数人の主婦がいる程度だった。冒険者たちの多くは、既に街の外やダンジョンの中での任務に就いている時間だ。
鍛冶屋までの道のりは幸いにも何事もなかったが、一方で、歩いている間に巡回中の衛兵を一人も見かけなかったことがプリシラを少し不安にさせた。
店の前に着くと、リオナラは扉に掛かっている「閉店」と書かれた木札を見上げたが、彼女にはその意味が分からなかった。
「プリス、ドアに何かついてるよ」
「あそこに『閉店』って書いてあるのよ」
その言葉を聞いた瞬間、リオナラの肩が落胆でがっくりと落ちるのが分かった。
「お休み……?」
「まあ、今日は『光輝の日』だから、閉まっていてもおかしくはないわね」
「それ、なあに?」
「休息のための日よ」
そう言いながらも、プリシラはドアノブに手をかけて回してみた。
「でも、その間も働いている人はいるから」
「本当に?」
「ええ。私たちの友人であるジェラルトも、その一人だと思うわ」
鍵がかかっていないことに気づき、彼女は扉を開けた。店内に聞き慣れた鈴の音が響く。プリシラが脇に退くと、リオナラがそのすぐ後ろから続いた。
「札が読めねえのか? うちは今――」
ジェラルトの苛立った声が奥から響いたが、カウンターの向こうに二人の姿を見つけると、彼は動きを止めた。
「おお、お嬢ちゃんか。鍛冶の用ならそう言ってくれりゃいいものを」
彼は右腕をカウンターに乗せた。
「で、このジェラルトに何の用だ?」
「私じゃないのよ、ジェラルト」
プリシラはリオナラの背中を優しく叩き、前に押し出した。
「今回の客は、この子よ」
「あん?」
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リオナラはおずおずと前に踏み出した。この店に来るのは初めてではないが、以前とは感覚が全く違った。前はただのボロ布を纏い、炉の暖かさを求めていただけだった。
だが今は、人生で初めての買い物をするために、金袋を握りしめている。
「わ、私……あ、あの……」
「落ち着け、お嬢ちゃん。逃げやしねえよ」
彼はカウンターに両手を置き、優しく身を乗り出した。
「何を探してるんだ?」
リオナラは立ち止まり、深く息を吸い込んで胸を膨らませると、それを長く吐き出した。金袋の中に指を潜り込ませ、それをカウンターの上に置くと、まだ躊躇いはあったものの、言葉を紡ぎ出した。
「私……プリスみたいな武器が欲しいの。銀貨二十五枚で、何が買えるかな?」
それを聞いた騎士は、思わず身を震わせた。
「えっ、私のレイピアみたいなのを?」
ジェラルトは顎の下を掻き、少し首を傾げた。
「そういう剣は、俺の専門じゃねえんだ、お嬢ちゃん。だが、剣術の稽古をしたいってんなら、他にも気に入るもんがあるかもしれねえな」
彼はカウンターの横にある樽の一つに手を伸ばし、黒い革の鞘を取り出した。
「はぐれ者の野郎に頼まれて打ったんだが、ダンジョンに潜ったきり戻ってこなかった代物だ。こいつなら銀貨五枚で売ってやるぜ」
先程までの期待に反して、リオナラの瞳が少し曇るのを二人は見て取った。すかさずプリシラが口を挟む。
「リオ、本物の剣の代わりに、まずは木製のレプリカで訓練してみるのはどうかしら? 私たちも学院にいた頃は、怪我をしないように木剣を使って練習していたのよ」
その言葉に、少女の瞳に再び輝きが戻った。彼女は騎士を振り返った。
「本当に?」
「ええ。優れた剣士というのは、訓練中に自分の手足を守り通せる人のことだもの」
リオナラの熱意にプリシラの心は和んだが、同時に、この少女が自分の中に何を見て、同じような武器を欲しがっているのかという疑問も抱いた。
「そ、それじゃあ……」
リオナラは店内を見回したが、木製の武器は見当たらなかった。
「ジェラルトさん、そういうのは置いてる?」
「ふむ……木製の武器は作ってねえが、一日くれりゃお嬢ちゃんのために何とかしてやるぜ」
「ありがとう!」
彼女の興奮は声に溢れ、温かな笑顔がこぼれた。
「あ、それから、チェインメイルはある?」
「チェインメイル? お前がか?」
「うん」
「そのサイズはねえが、ジェラルト様が端切れを繋ぎ合わせて作ってやれんこともねえぞ」
「いくらくらいかかるかな?」
「銀貨十枚ってところだな。輪っかを繋ぐのは手間がかかるんでな」
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リオナラは一歩下がり、顎に手を当てて考え込んだ。店内を見回し、様々なサイズの武器や防具が並んでいるのを見て、彼女は尋ねた。
「ジェラルトさん……特注の道具とかも作れる?」
「道具? どんなもんだ?」
「例えば……片手で使える火打ち石とか」
「片手の火打ち石だぁ? そんなもんギルドで買えるだろ」
「ううん、そうじゃなくて。片手でカチッて叩けるやつがいいの」
「ええい……やっとこみたいな形か?」
彼はカウンターの下から鍛冶用のやっとこを取り出した。
「両側に火打ち石をつけて、挟んで打つってことか?」
「そう! それ!」
プリシラはその奇妙な頼みを聞き、思わず問いかけた。
「リオ、どうして片手用の火打ち石なんて欲しいの?」
「あ……あのね。プリスに見せたいものがあるんだけど、それにはあの道具が必要なの」
「見せたいもの?」
「うん。魔法のことなんだけど」
「言葉で説明してくれてもいいのよ?」
「……言葉じゃなくて、できれば実際に見せたいの」
騎士は一瞬だけ目を閉じ、無意識に微笑んだ。そして目を開けると、リオナラの目線に合わせて膝をつき、彼女の肩にそっと手を置いた。
「分かったわ。楽しみに待っているわね」
「うん!」
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カウンターの向こう側で、ジェラルトはやっとこを元の場所に戻し、身を乗り出してリオナラに確認した。
「よし、お嬢ちゃん。木剣一本にチェインメイル、それに火打ち石だな。それで全部か?」
「うん、それでお願い」
「締めて銀貨十二枚だ」
「十二枚?」
プリシラが困惑した声で尋ねた。
「安すぎませんか?」
「いやいや。火打ち石に二枚ってのは妥当だろ」
「でも、練習用の剣は?」
「ああ、そいつはサービスだ。代金はいらねえよ」
プリシラは、彼が荒っぽい外見に反して誠実な人物であることを知っていたが、代金を受け取らないというその言葉を聞いて、ジェラルトへの評価がさらに上がった。
リオナラも嬉しそうに微笑み、丁寧にお辞儀をした。
「本当にありがとう、ジェラルトさん!」
「おう、どういたしましてお嬢ちゃん」
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取引を終えると、プリシラはカウンターに近づき、声を潜めて尋ねた。
「ジェラルト、今日はダンジョンが開いているか知っているかしら?」
「あん? 忍び込もうってのか?」
「ただの好奇心よ」
彼はドアの方を向き、近くに誰もいないことを確認すると、さらに声を落として答えた。
「ダンジョンが閉まることはねえ。光輝の日だってな。だが衛兵が厳重に見張ってやがる。素材を手に入れるのも一苦労だ」
「そう……ちなみに、入り口はどこにあるの?」
ジェラルトは、彼女が何を考えているのか全てお見通しだというような視線を向けたが、深くは追及しなかった。代わりに、ただ事実だけを告げた。
「目抜き通りを東へ行け。だが冒険者の群れに紛れて行くのはやめときな。許可なく入ろうとして捕まれば、手荒な真似をされるぜ」
彼女はゆっくりと数回頷いた。
「ありがとう、ジェラルト」
「気にするな」
※次回更新は3月26日 21:30予定です。




