黒き天使 (2)
リオナラが手を離すと、プリシラはゆっくりと立ち上がった。言葉をかけようとしたその時、背後のドアがノックされた。
彼女は振り返り、左手は本能的に武器の鞘へと伸びた。
「よう、お嬢ちゃん、そこにいるか?」
低く、しわがれた男の声だった。
「広間がめちゃくちゃだから、メシを持ってきた。ドアの前に置いていいか?」
騎士は慎重にレイピアを抜き、ドアノブを掴んだ。相手に武器を抜いていると悟られないよう、外を伺える最小限の隙間だけを開ける。
声の主はゲロルトだった。顔にいくつかの痣があったが、それ以外は特に異常はないようだ。
「ああ、メシだ、お嬢ちゃん」
彼女は頷き、レイピアをもう一方の手に持ち替えると、彼から木製のトレイを受け取った。
「ありがとう、ゲロルト」
「おう、気にすんな。食べ終わったらトレイは外に出しておいてくれ。ゆっくり食いな」
「分かったわ」
やり取りが終わると、彼女はドアを閉めて鍵をかけた。振り返ると、リオナラが彼女の手にあるレイピアをじっと見つめていた。
「リオ?」
「えっ?」
彼女の碧い瞳がプリシラの視線と重なり、片眉を上げた。
「……何?」
「どうかしたの?」
「あ、ううん、なんでもないよ。ただ、あなたの武器が気になって。あなたは騎士なのに、普通の剣じゃなくてレイピアを使ってるでしょ。どうして?」
「ああ……」
プリシラは向きを変えて床に腰を下ろし、トレイを置いた。
「そうね……魔法を唱えるには空間が必要なの。斬撃を主とする武器だと、どうしても相手に接近する必要があるけれど、刺突用の武器なら、相手の剣の間合いの外から突きを繰り出しつつ、魔法を叩き込める。向かってくるなら剣で迎え撃ち、立ち止まるなら魔法の餌食にする。……そういうことよ」
「待って……あなた、魔導師でもあるの?!」
プリシラは剣を鞘に納めかけていたが、驚きの声に顔を上げた。
「ん? ああ、そういえば詳しく話したことはなかったわね。私の王宮騎士という称号は、剣と魔法を同等に操れるからこそ与えられたものなのよ」
彼女は自嘲気味にふっと笑った。
「まあ、レオナール隊長や女王陛下には遠く及ばないけれどね」
リオナラは黙り込んだが、その瞳には驚嘆の色が浮かんでいた。目の前の人物に、すっかり心を奪われていた。
(どうして、こんなに強いのに……こんなに優しくて……温かいんだろう……)
彼女は両手を胸の前で組み、微笑んだ。
(プリシラ……ありがとう……)
幸せそうな彼女の様子を見て、騎士は安堵し、鞘に収まったレイピアを胡坐をかいた足の横に置いた。
トレイには、湯気の立つたっぷりの野菜スープと、昼に焼かれたパン、そして細切りのビーフジャーキーが載っていた。
「……食べましょうか」
リオナラは彼女を見上げ、こくりと頷いた。
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同じ頃、街の中央広場では、数人の衛兵が、裾に赤い装飾が施された白いオーバーコートを纏った長身の男を護衛していた。
男は、深夜にギルドを訪問しなければならないことに、あからさまに不機嫌な様子だった。
入り口から響く複数の足音。ルシーナは、捕らえられた賞金首を引き取りに来たのが誰であるかを察していた。
「リス隊長」
ルシーナの声には不安の色が混じっていた。
「『ブラック・アサシン』の件で?」
「ああ。どこだ?」
トレンチコートを着た男は答えたが、その表情は「仕事だから来ているだけだ」と語っていた。
「奥です、閣下」
「そうか」
彼は他の衛兵に顎で合図を送り、三人の護衛をギルドの奥へと向かわせた。それから再びルシーナに視線を戻し、尋ねた。
「ところで、奴を捕らえた冒険者は誰だ?」
「新人の、プリシラ・アヴェリオンという者です」
「アヴェリオン、だと?」
彼は眉をひそめ、右手の親指と人差し指を擦り合わせた。「……そうか」
ほどなくして、衛兵たちがマントを羽織った男を両脇から抱えて戻ってきた。男の両腕は背後で頑丈な鍵付きの木製の手枷によって固定されている。ルシーナはリスをちらりと見て、尋ねた。
「鍵を、お持ちしましょうか?」
「いや、その必要はない」
「えっ?」
「今日はもうギルドを閉めなさい、ルシーナ嬢。夜も更けている。君のような受付嬢が、こんな時間に一人で街を歩き回るすべきではない」
彼の穏やかな、しかし拒絶を許さない口調に、ルシーナは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「は、はい、閣下。お気遣いありがとうございます」
彼はさよならを告げるように軽く左手を上げると、衛兵を引き連れてギルドを後にした。
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鉄の門をくぐると、並んでいた兵士たちがハルバードを掲げて敬礼した。
「隊長!」
「楽にしろ、兵士諸君。いつも通り、居住区と中央広場の巡回を続けろ」
「はっ!」
兵士たちが職務に散ると、リスと護衛たちは縛られた囚人を訓練場へと連行し、ぐったりとした体を砂地に投げ出した。
「う、うぅ……」
覆面の暗殺者は意識を取り戻し、近づいてくるリスを薄目で見上げた。
「何だ……ここは……」
「やれやれ、あんな女に手を出すからだ。……依頼主は誰だ?」
「ああん? 何を、寝ぼけたことを聞いてやがる……」
彼は立ち上がろうとしたが、背後の腕が依然として拘束されていることに気づき、その瞳に恐怖が宿り始めた。
「おい、おいおい……なんで俺がまだ鎖に繋がれてるんだよ?」
リスは溜息をつき、首を振って立ち上がった。
「……教えろ。あの冒険者を殺すよう仕向けたのは誰だ? エドワードか? イヴァンか? それとも、あの男爵か?」
「はっ! 教えるわけねえだろ」
「お前の雇い主も、お前がどう失敗したか知りたがっているだろうよ」
「俺は……失敗してねえ。まだ息がある限りはな」
「それも、長くは持たないがな」
彼は兵士の一人に視線を送り、手渡された剣の鞘を払った。
「さて、最後のチャンスだ。人間として死ぬか、犬として死ぬか。選べ」
「ま、待て! 待て待て待て! 話が違うじゃねえか!」
男は木製の手枷から逃れようと、のたうち回り、必死に抵抗し始めた。だが周囲の衛兵が彼を押さえつけた。
「相手が駆け出しの冒険者か、あるいは傭兵なら別の話だったんだがな。お前を捕まえたあの女は、アルカディア王国の高官だ。本物の、王宮騎士だよ。もしお前のようなクズが、俺たちの黙認で見逃されていたなんて話が漏れてみろ。俺の首に斧が飛んでくる」
「はぁ?! そんなの聞いてねえぞ! あの女は、今日死ぬはずだったんだ!」
リスは鼻で笑い、再び首を振った。
「まだ分からんのか? 王宮騎士の言葉は、一介の警備隊長のそれよりも遥かに重い。そして、お前はもう……切り捨てられるだけの後腐れでしかない」
暗殺者の瞳から困惑が消え、深い憎悪へと変わった。
「リスゥゥゥッ!!」
彼は立ち上がろうとしたが、二人の衛兵がハルバードで彼を地面に押し付けた。
「誓ってやる、貴様ら全員、ぶち殺して――!」
隊長は溜息をつき、剣を振り上げた。
「……犬の方を選んだか」
肉を断つ嫌な音が響き、叫び声は途絶えた。リスは血まみれの刃を男の首から引き抜き、兵士に剣を返した。
「片付けておけ。明日も長い一日になる」
「はっ!」
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リスは執務室のある中央棟へと足を向け、自分の部屋に入ると背後で鍵をかけた。
彼は白いオーバーコートを脱ぎ、テーブルの脇にある椅子に無造作に掛けた。
「あの女に刺客を放つような愚か者は、どこのどいつだ……」
彼はベッドに腰を下ろし、両肘を膝について身を乗り出した。
「プリシラ・アヴェリオン……マーカスが、娘が王宮騎士になったなんて自慢していたが、まさか本当だったとはな……」
彼はベッドの下から酒の入った銀のフラスコを掴み、一口啜った。
「チッ……男爵ではあるまい。俺の忠告を聞いた後で、あんな軽率な真似はしないはずだ……ならばイヴァンか……あの、しがない宿屋の主人……いや、だが。……くそ。また奴に報告しなきゃならんのか。この、忌々しい街め……」
彼は再びベッドの上に身を投げ出した。
「プリシラ・アヴェリオン……王宮騎士……。ふむ……、父親を捜しに来たのか。彼女の親父か……。記憶が確かならば、あいつは銀級の冒険者だった……」
目を閉じると、マーカスと最後に交わした会話が蘇ってきた。
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非番だった若き日のリスは、ギルドの向かいにある酒場でマーカス・アヴェリオンという男に出会った。
魔法に対する執着に突き動かされた、風変わりな男。同時に、彼は腕利きの槍使いでもあった。
「よう、リス! 久しぶりだな。一緒に一杯どうだ、ええ?」
背後の壁に槍を立てかけた背の高い金髪の男が、酒場の隅から手を振っていた。
彼は鋼の胸当ての下に、鮮やかな赤色のガンベゾンを着ていた。後ろに撫でつけた髪と、鋭くも疲れの色を滲ませた赤い瞳が、ひどく印象的だった。
「マーカス……ここで何をしている? 冒険者は引退したはずだろう」
「ああ、引退したよ。今はただ、自分の意思でダンジョンを探索しに来ただけだ」
「ほう? どうしてだ? 金に困っているのか?」
「いいえ、そんなんじゃない。ただ、この老いぼれた体がこれ以上なまっちまうのが我慢できなくてな」
彼は右腕の筋肉を二回叩いた。
「アルカディアに娘がいてな。最高の状態でなきゃならんのだよ」
リスは笑った。
「それで、錆を落とするためにアリヴォールに来たと? お前、狂ってるのか、マーカス。で、その娘さんはいつ生まれるんだ? まだ数ヶ月先か?」
「何を言ってる。来月で二十歳だ」
「はぁ?! そんな大きな娘がいるのか?!」
「ああ、来週には、あいつにまともな武器を贈ってやりたいんだ」
「武器だと? なぜだ? 兵士にでもなるのか?」
彼は満面の笑みを浮かべて首を振った。
「俺の娘は、騎士になるのさ」
「騎士だと?! あのアルカディアでか?!」
「そうだ! 俺の可愛い『スイートロール』は、あんなに強くなって……」
マーカスは感極まった様子で、空のジョッキをテーブルに叩きつけた。
「だが! この親父が簡単に負けるわけにはいかん。騎士になりたいなら、俺を実力で倒してみせろ、とな」
「ははは! 妙な理屈だな」
リスは呆れながらも笑った。だが、目の前の男をよく見れば、彼が本気であることが直感で分かった。槍使いであり、かつ魔導師でもある。まるで英雄譚から抜け出してきたような男だった。
「まあ、元気そうで何よりだ、旧友よ」
「全くだ。戻ってこれて良かったよ。親父! 俺とこの相棒に、もう一回戦持ってこい!」
彼の中には、リスには決して真似できない炎があった。
そしていつしか、リスは腐敗に沈んだこの街の隊長になっていた。
「……恐らく、これが俺に相応しい末路なんだろうな……」
リスは、自然と閉じていく瞼の裏で、静かに呟いた。
「すまない、セシル……」
※次回更新は3月16日 21:30予定です。




