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剣と魔法と(3)

 プリシラが急いでいたのには二つの理由があった。高く昇った月と、拭い去れない違和感だ。


(すべてが奇妙だわ……。衛兵も冒険者もこの男の居場所を知っているのに、なぜ誰も賞金を手にしようとしないの?)


 鼓動が速まり、手のひらに冷や汗がにじむ。


(強力な司祭なのかもしれない……。奇跡(ミラクル)は属性魔法と同等か、それ以上の威力を持つと聞くし……)


 彼女は右の手のひらを見つめ、魔力を集中させた。手元で微かな電光が弾ける。

 深く息を吐き、拳を握りしめると、彼女は軽く駆け出した。


 昼間のスラム街は、控えめに言っても貧民窟だ。だが夜のスラムは、あらゆる角に危険が潜む迷宮と化す。

 街灯もなく、衛兵の巡回もないこの場所では、武器さえあれば、準備を怠った者を誰でも襲い、殺すことができる。


 彼女は左手で鞘を強く握り、戦闘に備えて視線を鋭く走らせた。

 隠密性は皆無だったが、廃墟となった教会の横を通り抜け、街の防壁近くにある、一本の木のそばに建つ粗末な小屋へとたどり着いた。


 小屋の裏から微かな明かりが漏れているのに気づき、彼女は静かに近づいた。

 右手でレイピアの柄を掴み、細い刃を慎重に引き抜いた。月光が鋼の刃に反射する。左手には魔力を通わせ、淡い青色の光を放たせた。


 窓のない小屋の角から覗き込むと、焚き火のそばに背を丸めた、痩せこけた男の姿があった。

 彼は木の枝に刺した古びたパンや残飯を火に翳していた。ボロ布を纏ったその姿は、かつての司祭とは到底思えない。


(髪の色以外、似ているところがないわね……)


 人相書きの屈強な男とは似ても似つかない。だが、油断は禁物だ。


 プリシラは意を決し、焚き火の明かりの中へと踏み出した。

 彼女は喉を鳴らし、さらに一歩踏み込んで声を張り上げた。


「貴様が『司祭』か?」


 男が答え以外の行動を見せれば、即座に突きを繰り出せるよう足に力を込める。


「おや……? 新顔かな?」


 男が顔を向けた。落ち窪んだ目、こけた頬、生気のない顔色――。

 まるで動く死体(グール)に出くわしたかのような錯覚に、プリシラは怯みそうになった。


「最近は客人も少なくてね。火のそばに座りなさい。自首する前に、少し話をしようじゃないか」


 プリシラは右足を前に出し、レイピアを低く構えたまま会話を続けた。


「私が何のために来たか、分かっているようだな」

「大抵の人間がここに来る理由は知っているよ」


 彼は再び串に目を戻した。「金のためでなければ、名声のためだ」


「ならば、私がすべきことも分かっているはずだ」

「ああ。だが、せめてこの食事が出来上がるまで待ってくれないか。このわずかな残飯を得るために、一日中畑で働いていたのだから」


 見れば、串は生の枝を削った急造品で、レタスやトマトの切れ端、わずかな肉が刺さっている。


 プリシラは目を細め、レイピアの柄を握る手に力を込めた。


「食べるものは、ダンジョンの牢獄の中にいくらでもあるわ」

「これは私の分ではないのだよ、賞金稼ぎ殿」

「何……?」


 彼は小屋の入り口の方を向き、扉を叩いて声を上げた。


「エレノア、ご飯ができたよ」


 プリシラが攻撃態勢に入ろうとしたその時、小屋から出てきたのは、騎士が予想だにしない人物だった。


 腰の高さほどしかない小さな少女が、色褪せた水色のボロを纏って現れた。膝の裏まで届く長い金色の巻き毛。大きく丸いエメラルド色の瞳は喜びを湛え、穏やかな微笑みを浮かべている。


「ありがとう、お父さん!」


 少女はレイピアを構えるプリシラに気づくと、不思議そうに男に尋ねた。


「お父さん、その人はお友達?」


 男は、言葉を失って立ち尽くすプリシラをちらりと見てから答えた。


「ああ、そうだ。お友達だよ」


 その瞬間、プリシラは剣を下ろした。何かが、決定的に間違っている。


「……『司祭』、少し話をさせてくれ」


 男は黙って頷き、串をエレノアに差し出した。


「一人で食べられるかい?」

「もうお姉ちゃんだもん。できるよ」

「いい子だ。ほら」


 熱いから気をつけるんだよ、と言い聞かせ、彼は立ち上がり、プリシラの方へ歩き出した。

 少女に会話が聞こえない距離まで離れると、プリシラは即座に男の喉元に刃を突きつけた。


「真実を話せ。今度は誰の子供を誘拐したのだ?」


 男は裸足の足元の草を見つめ、苦く笑った。


「その言葉を聞くのも久しぶりだ」彼は焚き火のそばで食事をする少女を見つめた。「あの子は、私の首に懸賞金をかけた女の子供だよ」

「……何だと?」


「賞金稼ぎ殿、一つ聞かせてくれ。その賞金は誰のためになる? 貴方か、制度か、それとも犠牲者か?」


 プリシラは怒りではなく、混乱から目を細めた。「何を言っている……?」


「私は犯罪者ではない。今までしてきたことは、最も大切な者を守ることだけだ。誘拐されたという子供は、今貴方の目の前にいる。エレノアこそが、私の信仰の証なのだ」


(誘拐された子供が……彼女本人?)


 プリシラは目を見開いた。真実を悟った彼女を見て、男は自嘲気味に笑った。


「名声、富、この賞金で最も得をするのは誰か。もうお分かりだろう?」


 プリシラはレイピアを下げ、鞘に収めた。

 目の前にいるのは犯罪者ではない。彼こそが、この街の歪みの犠牲者なのだ。


「誰に嵌められたのか、言え」

「それは……」


 彼は言いかけ、躊躇するように息を呑むと、首を振った。


「いや、貴方の時間を無駄にさせるわけにはいかない。それに……彼らを追えば、貴方の命が危ない。エレノアが無事でいてくれれば、私はそれでいいのだ」


 プリシラは長い溜息をつき、足元を見た後、顔を上げた。


「……分かった。達者でな、『司祭』」

「貴方もな、お嬢さん」


 男が小屋へと戻っていく中、小さな少女が手を振って別れを告げているのが見えた。

 プリシラも、小さく手を振り返した。


(……まあ、賞金を受け取らずに済むなら、それはそれでいいわね。あの子は幸せそうだったし……)


 静かな足音と鎖帷子の音が夜の闇に響く。満天の星が、宝石のように輝いていた。


「ふふ、賞金稼ぎなんて、私には向いてないのかも――」


 だが、その油断が命取りだった。


 衣擦れの音が聞こえた瞬間には、もう遅かった。

 闇の中から突き出された分厚い短剣が、彼女の背中を直撃した。


 鋭い痛みが脳を突き抜け、彼女は即座に後ろ蹴りを放ったが、襲撃者は影のように路地へと逃げ込んだ。


「チッ!」


 彼女は素早くレイピアを引き抜き、犯人を追って狭い路地へ飛び込んだ。

 鎖帷子のおかげで致命傷は避けられたが、背中には鈍い痛みが残っている。


「不覚だったわ……」


 逃げる影の動きは俊敏で、足音ひとつ立てない。


(暗殺者か。フィービー卿ほどではないにせよ……真面目にやるしかなさそうね)


 彼女の左手首に魔力が集まり、淡い青い光が火のようなオレンジ、そして赤へと変色していく。


 彼女は立ち止まり、左手を標的の背中に向けた。


「『|ウィンドショット・ファイアボルト《風弾炎矢》』!」


 空気が裂ける音が響き、炎の礫が男の背中に直撃した。

 服が燃え上がり、衝撃で男は泥の中に顔から突っ込んだ。


「がはっ!」


 うめき声を上げる男に歩み寄る。自分と同じくらいの背丈の男だ。

 一瞬で距離を詰め、二振りの鋭い太刀筋で男の両足の腱を切り裂く。さらにレイピアを反転させ、泥を掴もうとした男の右手を地面に縫い付けた。


「ぐああああああ!」

「痛むか? 答えなければもっと手荒くしてやるわ」


 左足で男の腕を踏みつけ、レイピアを引き抜く。


「誰に雇われた?」

「お前なんぞに……話すかよ!」

「同情するわ」


 彼女は男の肩を蹴り飛ばし、仰向けにひっくり返して背中の火を消した。


「お前を送り込んだ奴は、自分が誰を相手にしているのか分かっていないようね」

「く、くそ女が……!」


 彼女は男の襟首を掴み上げ、レイピアの(ベルガード)でこめかみを強打した。

 気を失った男を壁に投げ出し、周囲を警戒する。


(仲間がいれば、魔法を見た時点で逃げたはず。……これ以上は危険ね)


 彼女は剣を収め、男の左手首を掴んだ。泥や石に身体をぶつけながら、気絶した男をズルズルと引きずって中央広場へと戻る。


 残っていた者たちは血まみれの男を引きずるプリシラの姿に目を見開いた。


「おい、ありゃ何だ……?」

「あの男を殺したのか?」

「馬鹿言え、返り討ちにしたんだろ。あの女の服を見ろよ」


 ざわめきを背に、プリシラはギルドの扉の前にたどり着いた。


「プ、プリシラさん!? 一体何があったんですか!?」

「話せば長くなるわ……。この男、預かってもらえるかしら?」


 プリシラが男を引きずり出すと、そこにいた数人の冒険者たちが一斉に注目した。


「プリシラさん、怪我はないですか?」

「一日中歩き回った挙句、スラムでこの屑に襲われたのよ。雇われた暗殺者だそうだけど」


 ルシーナが人相書きの束と男の顔を見比べる。


「……まだ、出血していますね。すぐに治療師を呼びます。顔を確認させてください」


 ルシーナが男のフードを剥ぎ取り、傷だらけの顔を調べ始めた。

 やがて、男の手当と身元の照合を終えたルシーナが、信じられないものを見るような目で振り返った。


「プリシラさん。本当のことを教えてください。本当に、貴方が一人でこれをやったのですか?」

「ええ、彼が後ろから刺そうとしてきたから、返り討ちにしただけよ」

「そんな……」


 ルシーナは唾を飲み込み、立ち上がった。


「貴方が捕まえたこの男……二つ名を『ブラック・アサシン』。このアリヴォールで最も悪名高い指名手配犯の一人ですよ」


 プリシラは数秒間沈黙した後、片眉を上げて聞き返した。


「……は?」

※次回更新は3月12日 21:30予定です。

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