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「葵からよく『間が抜けてて話が見えない』って言われるの。自覚ないから、だから、今日の話も、整理したり、質問をしてくれたら答えたりで、あなたが分かる話に近づけることはできる、と、思う。…だけど、何かを隠そうと思ったり、騙そうと思ったり、そういうことで分かりにくくしているわけじゃないから。それだけは、信じてほしい」
重い沈黙を破ったのは、莉子だ。
莉子は一点を見つめて、話し切る必要を感じていた。
「私の話は、これくらいで終わり…だけど…すごく集中してるのか何なのか、今…」
友晴が目の前に座って以来、莉子が感じていた違和感が、だんだんと色濃くなってゆく。ぼんやりしたフィルター程度の、目のかすみめいたもの、かもしれないと思っていた。ぴりぴりと電球の明滅のような瞬きが、少し。それが範囲を広くして、ぼんやりと光を帯びて、その中に居る存在の輪郭を伝え始めている。
「ハルが…何とか、その意図をくむと、あなたに伝えたいことがあるんだって、そう、なんじゃないかなって思って…」
莉子の目線の先を追ってみても、友晴には、相変わらず先ほどからの景色しか見えてこない。それでも…。
「…ハルが、ここに…?」
ずいぶんと躊躇した後で、ようやく友晴はそう口に出した。
誰にも見えないものを、見えると言う自分がイヤでしょうがない。それでも莉子は諦めにも似た境地で小さくうなずいた。
「こんなこと、言うの、思いのほか、嘘っぽくてやだね」
そう言う莉子に、友晴は力なく問いかけた。
「こんなことって?」
「友晴さんに今、ここで言ったこと、全部」
「…なるほどぉ」
「あ、ハルって…頭、良いよねぇ」
「何?」
「何か紙を持ってて、今」
何度も何度も目を細めたり近づけたり、莉子はそれを見ようとしたが、ぼんやりとしたままで焦点を合わせることができない。
「ハル、見えないよ、それ」
その莉子の言葉にうなずいて、ハルが莉子へと手を伸ばす。
その手に導かれて、莉子は友晴の真横にあるハルが持っている紙に手を触れた。
一度だって、直接触れられなかったハル。
莉子がそれに触れると、ハルはニコリと笑う。その表情が、友晴の笑った顔に驚くほど似ていて、莉子は目を見張った。
どちらに惹かれたんだろう。
ハルの子どもらしい笑い声や、胸を締め付けられるような友晴の微笑み、そのどちらも莉子にとっては、愛おしい。それを、親愛のとか、同情のとか、種別にカテゴライズはできなくて。もう少し、できればあと少し、一緒に過ごしていたい…そんな自分の欲で、ずるずると、ここまで引っ張ってしまったのは、もしかしたら、自分の所為なのかもしれない。
「この紙は触れるんだ。もっと前にがんばってくれても良かったんじゃないの?抱きしめて寝たかったのに。頭も撫でてあげたかったのに」
恨み言を吐きながら微笑む莉子に、ハルは笑みを深くした。その顔が、大人びていて、その時が近いことをうかがわせる。それを思うと心が揺れた。それでも、今のこの時は、ハルが望んでいたことなのだからと、莉子は手にしたものに意識を向けた。
莉子が手を出したその辺りが、ぼうっと光をおびた。そして、その光を莉子が自分の方へ引っ張るようにすると、その物の姿がどんどんと解像度を増していく。
それまでの様子を訝しげに見ていた友晴は、何もない空間から出てきたものに驚いている。
友晴の目の前で、それは一枚の紙切れになった。
「これ、ハルから」
そう言って莉子に手渡されたそれを、震える指で友晴は受け取った。そして、何度も何度も、自分の横と紙を見比べて、紙を持つ手を強張らせていった。
「友晴さん」
もう会うこともないだろうから…。
「会えてよかった。少なくと、私は、あなたを好きだって感じて、あなたからも、何かを返してもらえたように感じたから…」
踏ん切りの悪い言い回しだな…そんな冷静な自分もどこかで感じて、莉子は最後に水を飲みほし立ち上がった。
「さようなら。今までありがとう」
揺れる心が痛い。
いたたまれない。
ハルが消えてしまったことは、どことなく理解した。
ハルの望みは、少しは叶っただろうか。
自分の最初の選択を選ばなくて、良かった。
本当に良かった。
自分にも誇れる選択ができるんだと思えた。
そして、その選択で、一人の男の心が癒えるなら、大したものだと。
しかも、その男は、目下最愛の人でもあって。
自分はハルのおかげで、立ち直ることができたのだから。
そのきっかけがハルだっただけで、自力でやったんだよ、と、言いたい自分もいるけれど、そういうことではなくて。色んな偶然とか必然とかが、このタイミングで自分の上に落ちてきたことに、無性に感謝したくなって。そういうことにしてしまって。
あふれ出る残酷な野次に蓋をしてしまいたいと願って。
莉子はカードで清算を済ませていた。最後くらいは…と、けじめとしてそうさせてもらった。何と言っても、世迷いごとに付き合わせてしまったのだから。
足早に店を出る女の姿を、店のスタッフが気の毒そうに眺めているのが莉子の目の端に映る。そして、その表情から、自分がひどい顔をしていることの予想もついた。
さして重くもない扉を体ごとどうにか開けて、莉子は店から出た。しばらく歩くと、足が止まってしまった。
「自分で選んでおきながら…情けないなぁ…」
気落ちしていた。
すっぽりと、心の中心が抜け落ちてしまって、踏ん張りが効かない。
そんな心境も、数日すれば元に戻る。
抜けてしまった穴は、骨折の要領で自分を強くするんだろうな。しばらくは落ち込んでもいつかこういうことからは立ち直ることができるだろうし。あのストーカーからの一連のことよりはマシって感じかな。そういう意味では、あれからも立ち直ってるんだから、自分って案外図太いって言えるかな。
少し、一区切り、どうにかしてこの落ち込んだり抜け落ちたりしたものと自分の気持ちを切り離せるくらいの、時間が欲しい。
莉子は人通りの多い店前の道から一本入った所で背を壁にしてたたずんでいた。
それほどの悲嘆ではないだろう、そう思っていたのに。
ハルの不在と友晴との別れと、がんばった自分と。
自分で自分に同情するきっかけが多すぎて、一度歩みを止めてしまった足が動かない。
自分で憐れむくらいなら、やらなければ良かったのに。
そう思う自分が自分を攻め立てる。
心が痛む。
そして、枯れてゆく何かも感じた。
自分が一人に戻ったのだと、思った。
疑いたくなる事実も含めて、ぽっかりと抜けてしまった。
バッグを持ちなおそうとして、飛び出してしまったスマホを拾ったところで、何件か着信があることに気づく。ロックを解除しようとして、かかってきた電話に出てしまい、恐る恐る「…はい」と言うなり相手から「どこにいる!」と強い口調で責められて、莉子は目を丸くした。
「…友晴さん…」
「どーこーだー?まだ近くだよね?」
「うん。…でも…」
「でも、じゃ、なくて!あ、見つけた」
大通りの方から、スマホと同じセリフがわずかな時間差で莉子の耳に届く。
「あ…」
もう二度と顔を見せることはないだろうと思った人との、案外短いスパンでの再開に、莉子は戸惑う。
そして、友晴が近づく姿を見るだけで、嬉しさがじわじわと広がった。
好きだ、好きなんだ、あの人のこと。
友晴から目を逸らすことが、できなかった。
手放すんじゃなかった、やっぱり、うやむやにすれば良かったのに、離れたくないならそれなりの覚悟で嘘を突き通せば良かったのに。
心の野次が溢れる。
それと同じくして、悲しさも愛おしさも溢れた。
「なんで?泣くくらいなら…」
見上げた友晴は、案外いつもと同じ様子に見えた。
「え?」
頬に手をやると、涙が落ちていた。
「泣いてるの、初めて見たかも」
「…ごめんね」
「…悪いことしたね。きっと、晴喜と僕の所為だ」
「それは、よく分からないけど…。あんな気持ちの悪い話…理解してください、一緒にいてくださいって…図々しいから」
綺麗に折りたたまれたハンカチをポケットから取り出して、友晴が莉子の涙をぬぐう。少し莉子の表情を眺めた後、肩で息を吐き出して、少しずつ友晴は話し始めた。
「じゃあ、何歳も年が下の女に淡い恋心を抱いて、家族への想いも捨てきれなくて、残念なほど臆病になってしまっている男の気持ち分かる?家族を一度失っている負い目があって、そんな重い男を若くて好ましく思っている女に付きあわせてしまうのも悪い気がしてしまって、自分の心に素直に従えないでウダウダと悩んでた矢先、告白されて、さようならって言われた中年の気持ち分かる?」
「…」
「じゃ、ひとまず、さっきの手紙、一緒に見てくれる?」
「…はい?」
「じゃ、行こう」
強い手で引き寄せられて、男の匂いに、焦がれたその体温に、これ以上傾きようがないほど、身も心も一瞬にして、莉子は寄りかかってしまった。
「どこに…?」
素直に動いた体ほど頭は素直ではないようで、莉子はそんな質問を投げていた。
「どこが良いかなぁ…」
そう言いながら、迷っている様子はなく、通りに出た友晴は右手を挙げてタクシーを止めた。告げられた行き先が、友晴のマンションだということは分かった。
「…どうして?」
「質問が多いね」
そう言って、友晴は莉子の頭を、まるで子供のように撫でて続けた。
「この話をするのに、他の場所なんて思い浮かばないよ。誰かに聞かれたい話でもないし。色んな意味で、聞かせたい話でもないわけだし」
そう言う友晴の意味を、莉子は理解した。
「…ありがとう。…あの話、嘘だとは思ってないってこと?」
「真実だとも思ってないよ。見たことしか信じられない程度の頭の固さは持ち合わせていてね。だけど、あの倒れた日のことだって、ハルのことと結びつけた方が納得がいくよ。それに、あんなトリック見せられたら。あれは、僕も見たことだから、そこから導くと、真実として受け入れざる負えない」
そう言って、握りつぶされた紙切れをかざす。
「あれ。私も驚いたの」
「そうか。いつもやってるのかと思ったよ」
「いやいや、そんな面倒なことしなくても、直接、話したら良かったわけで、今までは…ハルも…はっきり…見えてたし…しゃべってたから…」
「…そうか」
「まあ、それだと…壁と話してるか…独り言の多い女で…だから、部屋の中でだけ…」
「それも含めて、帰ったら聞かせて」
友晴が笑う。
しとしとと降り続く雨の中でも、その腕の中は暖かい。
莉子も、見上げた先の目を見つめることができた。
ありがとうございます。




