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夜空のハル  作者: 里村
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 昨日から降り続く雨が、路面を染めている。

 濃い色をまとった町が、薄く降り続く雨の中で、十分すぎるほど反省を繰り返して、重く沈んでいる。

 レインブーツに跳ねる水滴を眺めながら、莉子は足早に目的の店へ向かっていた。

 前を見てしまうと、ゆっくりと歩いてしまうと、そこへたどり着けない気がしていた。

 塗装の上に薄く溜まった水たまりを踏み越えながら進む莉子のレインブーツは、すでに跳ねた泥で汚れてしまっている。そこに落ちる雨の一滴が、ほんの少しの泥を道に流して、次の一歩でまた違う泥が跳ねてその上に重なる。

 雨が降っている。

 いつか止むとしても。

数日、しとしとと降り続く季節外れの雨が、その下で過ごす全ての人の気力を根こそぎ奪っているようにも見えて。

 指定した時間よりもずいぶんと早くその店に入った莉子は、雨の降り続く街を眺めながら、思い切ってワインを注文することに決めた。

 莉子以外には、常連風のカウンターに座る男性が一人、学生らしき数人の女子が1テーブルを占めているだけだった。窓枠に切り取られた外の雨模様を眺めながら、流れる軽快で耳触りの良いラ・カンパネラの音色に耳を傾けた。

 川の流れのように淀みなく気持ちよく奏でる誰かの手で、難解さを感じさせないそのピアノの調べが、莉子の心に、何かしらを畳み掛けてくる。


 早めにと思ってやってきた友晴は、すでに何かを飲んでいる莉子を窓から認めて、少し驚く。

莉子の横顔を追いかけながら向かった店の軒下で、透明のビニール傘の水滴をはらって、傘縦に差し込みながら、今日のこれからの話に友晴は思いを巡らせていた。

「珍しいね。ワイン?」

 友晴が後ろから声をかけると、莉子は気配を感じていたのか「そう、ロゼ」と横顔で答えた。同じものをデキャンタで注文して友晴は、莉子の向かい側へ座る。

「良かった。傷、残ってないね」

 数日で消えてしまった大けがを、友晴はそんな風に軽く口にする。

「いろいろと、お気遣いいただいて…ありがとう…ございました」

 妙に他人行儀な言葉が出てきて、莉子は自分自身に呆れてしまう。まるで、いじけているような振る舞いとも取れる。聞きたいことが山ほどあるのは、友晴なのに。

「…莉子が、無事なら、それに越したことはない」

 静かに、友晴がそう言う。その言葉の重みを、莉子は考えないようにした。


 繰り返し、考えたことはある。

 どうやって話したら良いのか、分かってもらえるのか、事実だと認めてもらえるのか、そう考えながら思い描く話の道筋は、とてつもなく長くて難解で言い訳の羅列で、どうやっても望む反応が得られそうにないことだけは、何度考えても同じ、そういう結論に至るのは毎回のことだった。

 全て、自分の想像の中の話で、対面してしまうのは、たった今から。

 そもそも、望む反応って何だろう。

 信じてもらう必要ってあるの。

 そう思いついて、肩が少し軽くなる。

 あの出来事の後、なのだ。

 何を言っても、奇妙で奇抜で。


 だけど、あり得ないことを告げるには、一番のタイミングかもしれない。


 これから会うこともないだろうから。


 ずいぶんと前から、おぼろげに考えていた。

 それが、友晴を前にして、ようやく一つの筋を描き始める。

 それは、飲み慣れない甘いワインで緩んだ思考のせいだったのかもしれない。

「…付き合ってほしい話がある、の…」

 一つ息を吸った後、そんな風に、莉子の口から言葉が出た。

 友晴はうなずいて、莉子に目を向ける。

「僕も、聞きたいことが山ほどある。けど、まずは、莉子の話を聞きたい」

「…うん」

 話してしまうと、打ち明けてしまうと、この居心地の良い関係はなくなってしまう。

 そんな風に莉子は決めつけていた。

 数日で傷のふさがってしまった腕が、このままでは居られないことを、十分に指し示してもいた。

 話を促すつもりで莉子を見た友晴は、莉子の視線が少し自分から逸れていることに気付いた。

「何?」

「…ごめん。言い出しておきながら…」

 友晴の真横、テーブルの高さを見つめて莉子は、それでもまだ思案している。

 何から話せば良いのか…。

 こうやって話す自分を想像したことは、一度や二度ではない。話すべき物語をどう紡ぎ出せば、自分のダメージも友晴のダメージも少なく済むのか…何度考えたことか。何度も夢想し繰り返し文章を紡いで、何度も何度も飲み込んだ。

 自分がカワイイから。

 自分にもたらされたこの場所を失いたくなかったから。

「こうやって話す自分を幾度も想像した。友晴さんは…私の知っている中では、柔軟な方だと思う。だけど、自分が説明をしようとすると、すればするほど胡散臭くって」

 莉子は友晴を見つめた。

「…だから。…だから、信じてほしいとは思ってない。一方的だけど、私の話を、聞いてほしい。ただの告解のようなものだと、思ってもらえたら、うれしい…」

 ようやく話し始めた莉子の、その冒頭に、友晴は眉根を寄せた。それでも、「で?」と促すように莉子のグラスにワインを注ぎ、身を乗り出してくる様子に、莉子はほっとした。

「ハルを知っている、私」

 友晴はわずかに視線を揺らした。

「それは…僕たちが出会ったのは、ハルのお墓の前だっただろう?」

 言外に『生前から知っててって話じゃなかったか?』そう語る友晴の目に、莉子は首を振った。

「ハルと会ったの、一年くらい前、なんだ…」

 友晴はわずかに目を開いて、莉子を見た。

「一年…」

 時々こういう表情になる。莉子は友晴のその顔に見覚えがある。家族の思い出を話すときや、それに連なる自責の念にかられるような時、友晴はそんな表情を見せた。

 何度も想像してみて分かっていたことだが、誰がどう見ても、これから話すことは『死者と話せる詐欺』みたいなもんだと、そう判断することの方が正しいと、莉子は十分に理解していた。

「出会った時、私は心も体も傷ついていて、どんよりとしていたの。ハルは天使だと思った」

 友晴に注がれたワインを、莉子は数口含んだ。もう友晴を直視できそうにない、そう思いながら。

「牛乳が、少なくなっていって、で、おかしいなって思っていて、それは気のせいかもしれないって思ってた。そんな違和感を持って過ごしていると、部屋にハルが現れて。牛乳がグラスに注げるようになったって喜んで。…そんな小さなことを自慢げに話す子供に、私は、思う以上に癒されてた…毎日、帰宅すると、ハルは部屋にいたの。私の部屋に。ハルが、おかえりって言ってくれて。夜空の散歩にも連れて行ってくれた。その時に、友晴さんのことをハルから教えられた。強要したとか、ハルが伝えたがったって感じじゃなくて。ハルは自分の存在に、戸惑っていて、パパに話しかけても気づいてもらえないってことを、不思議に思っている様子だった。…それから、成り行きでハルのお墓に行ってみるってことになって。夜、ハルと一緒にお墓へ行っても、暗くて見えない所が多くて。だから、昼間に…私が行ってみるよって言って。初めて行った時、迷ってたんだ。ハルとの約束が守れないから焦ってもいて。そんな時、たまたま同じバスに乗り合わせたの、あなたと…」

「…ああ」

 莉子の話を聞くにつれ、付き物が落ちたかのように、鳴りを潜める何かを感じた。

 友晴の中に膨らんでいたものが、莉子の言葉で小さくなってゆく。それは、不審だったり、疑念だったり、不安だったりするのかもしれない。

 ただ純粋に、友晴は、莉子の話の先を聞きたくなってもいた。

「…あの日、あなたの中に、ハルを感じた、んだと思う。思い切って話しかけることができたのも、あなたの悲しみのようなものが、ハルにそっくりな顔の中にあって、それが、私なりにいたたまれないというか。同情じゃなくって。悲観したり落ち込んだりした人の表情は、私、知ってるつもりなの。だから、ハルに似たあなたが気になったのだと思う。ハルは、私と過ごす中で少しずつ成長して、本当にあなたそっくりな大人に近づいたんだよ。そっくりだった。でも、それは一時的な仮の姿で。なぜかは分からないけれど、突然、亡くなった時の実年齢に戻って。それからは、そのまま。あの、あなたが部屋にやってきた、あの状況につながって行ってしまったのだと思う」

「…そうか、あの時、やはり、晴喜はあの場所に…」

「…気づいてたんだ、ね…。そう、いたの」

「まさか、莉子の負った傷とか…」

 困ったように目を潤ませて、莉子は友晴の質問に答える。

「そう…では、ある、んだけど。ハルは、私の所為で、あんな禍々しいものに憑りつかれてしまって。ハルの所為でも何でもないの。あれは、私のもたらしたものだから、ハルの所為ではないの。でも、ハルはきっと、気にしている、と思う。私から力を奪って去ってしまって…だけど、ハルは、今…」

「…そうか」

 荒唐無稽なことを言われているという事実と、それが本当のことかもしれないという事実と、友晴は両方で揺れて受け入れて迷ってもいる。嘘ではないけれど、腑に落ちないのだ、ただ、今までの常識と違うという一択で、それが、あっさりと呑み込めない。

 莉子を嫌いたいわけでも、ハルの話を疑うわけでも、あの部屋の状況と莉子の腕の傷を確かめたいわけでもない。

 ただただ、呑み込むのが難しいだけで。

「晴喜は、笑っていた?」

「…ええ、最後は。いつものハルに戻っていたから、大丈夫そうだなって」

「そうか」

 ワインを飲み干す友晴を見ながら、莉子は話を続ける。

「ハルのおかげで友晴さんにも会えた。…そうだ、最近、私、会社で声をかけられるんだよ。今まではさっぱりだったのに」

「声をかけられるって?どんな風に?」

 少し低い友晴の声が、莉子の耳に心地よく届く。

「そうね、一番やっかいなのは、屑な上長に地下の資料室に呼び出されたことね。すごく評判の悪い人でね、先輩から注意メールが出回るような人。誰がそんな奴の呼び出しに応じるかっての」

「行かなかったんだ」

「行ったよ。でも、その上長よりさらに上の人と先輩と一緒に」

「それは見ものだったね」

 莉子の行動に驚いて、その場を想像して、友晴は笑った。

「そう。もう二度と声かけられないと思う。私、異動になったの、その課から」

「異動?」

「そう、次の春には…」

「どっか行っちゃうんだ…」

「そんな捨てられた子犬みたいなセリフ、友晴さんには似合わない」

 その莉子の言葉に、自嘲のように友晴は微笑んだ。

「―莉子」

 長いお話も言い訳も謝罪も感謝も、いらない。自分の名前が友晴の口からそういう風に聞こえてくるだけで、莉子には十分だった。

 向けられる眼差しが、心地良い。

 莉子もまた、自分がひどく緊張して話していたことに気づいて、友晴を見て小さく笑った。

「ハルは…ハルと…初めて会った、というか、そこにハルがいると気づいたのは、夏の終わりで。その頃の私には…誰かのことにかまっていられるような優しい心はなかった、今もそうだけど、その頃はよりいっそうってことで…。それでも、…今思い返してみると…気づいたらハルが側にいてくれて、少しずつ気持ちが癒えていったのだと思う」

 信じていないのか気が抜けているのか、友晴は話の腰を折るような言葉を投げてくることはなかった。

「あなたに初めて会ったのは、その一か月ほど後になるのかな、少し寒くなってたものね。そして、段々と、あなたと会うことが多くなって。初めはそれで良かったの。ハルも喜んでいたから。だけど、私の体調が悪くなったの。心は軽いのに体は重くなっていって。なぜなんだろう、夏バテかな、体力つけないとなぁとか、そういうことを考えてたんだよね。でも、それって、見当違いだったんだ」

 友晴は目を伏せて莉子のグラスに四杯目を、自分のグラスにも並々とワインを注いだ。

 いつもなら、「ちょっと飲み過ぎだ」そんな茶々を入れられそうな場面で、友晴は何も言わず、静かに莉子の話に耳を貸している。友晴にしても、半ば信用しがたい気持ちの方が強くあった。ただ、それが莉子の口から語られていることで、溜飲が下がっているだけで。飲んでいないと聞いてられない、そんな心情なのだろうなと、俯瞰したように思っていた。

「最近は、ハルが見えなくて。私の声が届かないことも多くなって。ハルの声も聞こえなくて。居るかいないのかも、分からなくなって、不安に思ってたら、この前のあの一件が起こって…」

 そう言って、莉子は友晴の横の空間を潤んだ目で見つめた。

「迷った、の…」

 莉子はそこで言葉を切った。そして、その空間を見つめながら続ける。

「このまま、静かに消えゆくハルを受け入れてしまおうって。その方が、私にとってはメリットが多い、の。他の人に見えない存在が消えていってしまっても、私以外にとっては何も変わらないわけだし。体調も良くなってるみたいだし。ハルは私に友晴さんとの縁を運んできてくれた存在ってことにしてしまって、誰にも言わなければ、私だけの秘め事で他は丸く収まるし、私は何よりそっちの方が幸せなわけだし」

 莉子は、そこでニヤッと笑う。いたずらが成功したような砕けた笑い顔に、友晴は目を見張る。

「でもねー。そうは、いかなくて」

 グラスに少し残ったワインを、ぐっと飲み干した。肩で息を吐いて、莉子は友晴に向き直る。

「自分の声が私に届きにくくなっていて、姿も見えたり見えなかったりしていることに、ハルは気が付いてしまって。それが、トリガーになってしまったんだろうって、思う。ハルは、私にとっては良い存在だったんだ、それは間違いなく…。たぶん、ハルの不安のようなものに付け込んだんだ、あいつ…が…。以前、住んでいたアパートの私の部屋の前で亡くなっていたストーカー。そいつが、地縛霊のように私に付きまとっていたみたいなんだけどね。そのストーカーの霊のせいで、ハルが悪い気を浴びて変質してしまって、それが数日前のあの一件につながって…って、訳わかんないよね、友晴さん」

 手酌でワインを注ごうとして「待った」と友晴に止められた。莉子は恨めしそうに友晴を見やりながらも、水を口にした。

「地縛霊とか、悪霊の以前に、莉子、ストーカーの一件を、まず教えてくれないか」

「…ごめんね。なんか、言い出しにくくて…ハルのこともあって…友晴さんからの信頼のようなものが、薄くなる要素、自分からさらけ出す勇気、なくって…」

「勇気うんぬん、誰かに説教できる状況じゃない…僕も…」

 友晴が莉子に心の内を見せたことはない。悲しいとかせつないとか、感情論を莉子に話したことは、もちろん。少しずつ、家族との思い出を話すことが精いっぱいだった。

 二人して押し黙ってしまう。





読んでいただいてありがとうございます!

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