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夜空のハル  作者: 里村
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友晴の独り言



 何か、どこか、少し。

 ほんのわずか、漂う程度の違和感を実感したのは、いつだったか。


 思い出さないようにしている、わざと話題にしないようにしている、家族の話をしてしまった時に見せる表情だったか。墓の前で手を合わせる時の真剣な眼差しだったか。見上げてくる目の中の何か、だったか。


 はっきりとしない、予感のような、小さなチリが積み重なる。


「塩見さんにとって、まだ存在しているような感じがする。君の中の晴喜(はるき)は、生き生きとしていて、なんだか、もっと聞いていたい、そんな気がしてしまう」

 そう言った時の莉子はどうだっただろうか。会ったばかりのことで、うまく思い出せない。

 自分の記憶の中を友晴は巡る。

 目を閉じて思い出そうとすると、隣を歩く莉子のつむじや、話しながら照れる表情や、目が合うと少し笑う口元が思い浮かんで、抱きしめるとざわざわと(うごめ)く手の感触へと記憶が移ろってゆく。

 目を開いて、友晴は、ペットボトルの水へ手を伸ばす。

「出張先で見た親子が、君が話していた晴喜と同じことをしていて、少し笑ってしまった。薄気味悪いだろうな、公園のベンチで缶コーヒー片手に座ったサラリーマンが幼児を見て思い出し笑い、なんて。だけど、それは、僕も知らないような晴喜のことを君が話して聞かせた所為だから。…だから、莉子ちゃんが悪いっ」

 笑ってそう報告をすると、話の途中からくすくすと笑いを漏らしていた莉子が最後は体をよじるようにして笑っていた。そして「ハルにも聞かせたい」とか何とか言っていた。月命日に近い日付だったから、一緒に墓参りに行く初めての口実にもなったあの会話。

 あの時の莉子は、今振り返ってみると、どこか、ちぐはぐな表情をしていたんじゃなかったか。

 もう一度、ペットボトルの蓋を開けて、ぐびぐびと三分の一ほど流し込む。汗をかいているわけでもないのに、友晴は、渇きを覚えていた。

「自宅を手放そうと思っているんだ」

 決意も新たに話した友晴に対して、莉子は安堵したような澄んだ表情を返してきた。そして、うなずいたような気もする。

 あれは、何に同調、もしくは同意を示して、のことだったんだろうか。


 そもそも。

 ()()()()()()関わるには、デメリットしかない。

 既婚歴もなく、若く、自分を選ばなくてはならないほどの容姿をしているとは思えない。

 つまり、初婚で、年齢の釣り合う、頼りがいのある男は、他にもっと存在する。

 そんな自分以外の優良物件が、自社の同じ課の中でも数人、すぐに友晴の頭の中に思い浮かんだ。

「…だとしても、もう…」

―もう、手放せない。

 と、思う。


 そういう感情から、ではなかったんだけど、な。


 言い訳のような言葉が、頭に浮かんで溶けてゆく。


 初めて言葉を交わした墓標の前で、どこか冷めた目をして、莉子に対応してしまったことは、十分に自覚はしていた。

 あの頃、内の感情とは別に、外からも厄介ごとはやってきていた。

 時々いる不幸を餌にしている類の人種、とでも言うか。

 平素は近寄りもしない連中が、同情か気遣いか、声をかけてくることが一時的に増えたことがあった。皆、一様に、好奇心と同情とが同じ比重で出たり入ったりしているように思えた。悪意があるわけではないと、分かってはいても、興味本位としか取れない物議は醸したくはなかったというのに。そんな人々に適度に返事をすると、物足りなさそうな表情を残して去って行く者と、引き出そうとする者と、ただの会話の一環の者と、多くがその3つに分類できた。慣れてくると、自分のやるべき役割も見えてくる。『時間が解決してくれるのを待ってるんですよ』というようなことを言うと、したり顔で引いてゆく。それでも、見合いの話や同じ境遇自慢を交えてくる人たちには辟易(へきえき)したけれど、それも全て慣れで解決できていった。

 慣れる。

 その状況に落ち着いたのは、莉子と出会ってからのような気がする。

―そういった感情からではなかった。

 それは、はっきりと言える。

 気が向いた、魔が差した、なんとなく、あのベーカリーへ足を運んだ自分が、いた。


 あの日を、忘れることはできないだろう。


 それを、ただの思い出にするつもりは、今さらない。

 だけど。

 自分で返せるものはない。

 心に、失った家族が、ずっと生き続ける。

 そんな負い目を計算に入れて、僕に、向き合うというのだろうか、莉子は。

 それを強要してしまっているのは、もしかしたら、僕、なのだろうか。


 目を閉じてぐったりとした莉子の手を流れる血の筋を見た瞬間、跳ねた鼓動。

 あんな風に心臓が打つ瞬間を知っている。

 もう、手遅れだと、自分はもう生きた姿を見ることは二度とないんだと、そう思う出来事がすでに、友晴には何度もある。

 杭で刻むように、友晴の生きてきた道に打たれたそれは、深く刺さっていて抜けない。

 それをもう二度と経験することがないようにと、怯えて願って避けて生きて行こうと決めていたはずなのに。

 目を開けた莉子は「友晴さん」と呼んでくれた。手当をする友晴に、少し笑って「ありがとう」と言って。


 ありがとうって何だ?


 無性に腹立たしく思った。

 もっと他に説明すべきことが、たくさんあるはずだ、この状況は何だ?


 初めて、莉子の部屋に滑り込んで見た光景は、忘れられない。

 見知ったはずの莉子が、ものすごい速さで、部屋の中を上下左右おかまいなしにぐるぐると移動しているように見えた。

 時々、友晴を見て、立ち止まったようにも思えたが、それはひと時のことだった。

 頭を振り乱すような残像の後、天井近くまで飛び、また床から這い出てきて、座り込んだように見えて、近づこうとすると、どこかへと軌跡を残して移動して。

 莉子の残滓(ざんし)しか見えない。

 その表情も、残像と軌跡が重なって、とてもとても(いびつ)に見える。

 そんなエラーともホラーとも取れる莉子が、ようやく一つの姿となって友晴に認識できた時、すでに、深く傷を負った後で。

 ソファーの近くにぐったりと寝ころんで身動きしない莉子に、友晴は恐る恐る手を伸ばす。

「…莉子、まさか」

 まさか、また、失ってしまうのか。

 そう思ってしまった。

 流れる血を見て、血の気の引いた顔色を見て、力なく横たわるその姿に、それまで恐ろしく眺めていた光景を忘れて、一番ぞっとしていた。


 もう、二度と…

 何度目かの『もう二度と』は、友晴の中で霞のようにうやむやに消えてゆく。

 何度願っても、叶えられなかったのだから、その望みは、もう…。

 転がり込んできた幸運を、してやったりと手にしてしまったのが、ダメなのか。

 だから、こうやって奪われてしまうのか。

 自分がそれを、またやってくる苦しむための分岐を、選択してしまっただけなのか…。

 だから、願っても望んでも、また、この(たぐい)の痛みはやってきてしまうのだろうか。


 あの時、仕事に戻らなければ良かった…。


 あれと、同じ、だ。

 

 友晴の心の(うみ)は、ぐったりとした莉子の姿を瞳に映して、濃さをどんどんと増してゆく。

 

 何かが決壊しそうな気がしたその時、腕の中の莉子がわずかに身じろいだ。

 その息吹に、生の気配に、友晴は息を飲む。

 声をかけようとして、ひきつったように言葉が喉にひっかかる。

 今、話すと涙声になりそうで。

 腕の中の莉子が、そっと息をするその気配を、回した腕の中の動の気配を、友晴は強かに抱きしめた。


 車を取って莉子の部屋に戻ると、追い返された。

 ただ、ソファーで眠っている莉子の表情に押された。

 何より、葵と樋口のこれ以上は譲れないという、それが自分たちの保身からと言うよりも莉子のためという雰囲気を、友晴は感じた。毎日顔を出すという条件を飲んでもらったのも、今の友晴の安定材料だった。

 莉子の部屋を出て、気が抜けた。

 雨が降って視界が悪い中、いつもなら気を張る場面だと思うのに、その日は、気づけば駐車場にいて、その鈍った思考でもどうにか自宅にたどり着けていた自分に、友晴は少し笑っていた。

 ザーザーと振る雨音が響く新しい自宅で、痺れた頭に浮かぶ疑問が取り留めもなく溢れ出す。

 疲れた思考のせいで、平素は隠していたり見て見ぬふりをしていたりしたはずの疑問の収納ラインが、ふやけて曖昧になっている。

 莉子のこと、あの部屋のこと、そして、気のせいだと思っていたけれど、薄く見えたような気がした晴喜のこと…。

 止まらない。

 不信感にも近い疑問のせいで、何もかもが疑わしく思えてならない。


 答えがあるとすれば、莉子の中に、だ。


 だから、夜遅くに入ったメッセージを食い入るように眺めてしまった。

―明日、お時間いただけますか。

 目が覚めた、それがそのメッセージで分かる。その後に続く「大丈夫か?」とか「いつ目覚めた?」とか「体の傷は?」とかいう疑問の山がなだれ込んで来た後で、正気を取り戻す。

 行間を読むのは、苦手だ。

―午後2時にあのパティスリーで。

―はい

 その簡素な一文を見て、莉子の決意のようなものを、友晴は感じた。


 全ては、明日。


 飲み込んだ疑問と言葉と共に、残りの水をあおった。





読んでくださって、ありがとうございます。

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