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夜空のハル  作者: 里村
38/42

37  翠

過去のお話。長め・暗めです。


「私、姉がいたんだ」

 (あおい)が、ぽつりと言った。


 目覚めた部屋で莉子(りこ)は、その場にいない友晴(ともはる)を想った。泊まり込んで付き添ってくれたという葵に、ぐずぐずした気持ちを打ち明けるべきかどうか悩んで、この場にいない友晴に思いを馳せて。

 その様子をしばらく黙って見ていた葵が、「姉がいた」と、突然言う。


「…過去形?」

 それに静かにうなずいて葵は話を続けた。

「姉の名前は、(みどり)。親のネーミングセンスをうたがうような姉妹の名前だと思ったよ、大人になってからは、さ。…八歳年上で、樋口は姉の同級生であり彼氏だったの。私が小学校二年生で、姉は高校生。大人に見えたわ、二人とも、とってもね」

「へぇ…」

「姉は、十七歳から止まったまま。美しく清らかなままで、私たちの前から去って行ったの。樋口は、お葬式で無表情のままだった。あんなに表情豊かな人の顔がこわばったままで…姉の死も突然で、その日を境に、色んな事が、変わってしまったように感じた…」

「…そう」

「身内を亡くした痛みももちろんだけれど、姉は私たちに強い印象を残していって。それが手におえない…」

 葵は、冷蔵庫に向かって歩きながら話を続けた。

「莉子、ビール…いらないよね。私、飲むね。」

 そう言いながら取り出した冷えたビールを頬に当て、葵は元の場所に座った。

「助けられなかったの。気づいた時には手遅れで。未だに、その事実が、私や樋口を苛んでるんだろうって思う。もう二十年も経ったのに、その罪悪感に立ちすくんで…私、出会ってすぐは、あの人へと手を伸ばせなかった…」

「病気か何かだったってこと?」

「…そうね、病気ってことにしてる。あなたの診断書書いてもらった医者も、姉と樋口の同級生」

「この数日分の有給をもぎとってくれたって、そういうことだったんだ…」

 起きてすぐ慌てた私を落ち着かせるために吐いた気休めだと思っていたそれは、本当に受理されていることなんだと、莉子はここで納得した。

「そう。事情を知ってるの。…姉は、樋口を逆恨みする魂に狙われて、自殺したわ」

 一気にそう言って、葵はビールをグビッと飲んだ。

「自殺…魂に…ねら…われ、て…?」

 どこかおとぎ話のように突飛に思える、葵の姉のこと。莉子は、葵を見つめた。

「そう、魂。霊とか悪霊とか怨霊とか、別名はいくらでもあるけれど。姉はそういったものに導かれて殺されたの」

 断言する葵を、莉子はまた見返す。葵が、そういったファンタジーを話していることに驚いて。超現実主義者の葵の言葉だからこそ、莉子は少しずつ話を嚥下できるのだが。

「…殺された…」

 なんとも日常と離れた単語を、莉子は無理やり頭へと詰め込むように、つぶやいた。

もし、例のストーカーの一件がなく、葵に助けられた経緯もなく、ハルもいなくて、他人の死に勝手に巻き込まれたにも関わらず蓄積する罪悪感に苦しんでいなければ、葵のこの話を莉子は一笑していただろうことを想像できた。

「誰がどう見ても自殺。でも、姉の意志ではないの。それを知ってるのは、私と樋口含めても数名。親も…どう思ってるのか…姉の…翠の死は、思春期の不安定な精神が引き起こしたとても悲しい出来事ってことになっているんだろうって思う。だけど、だけどね、違うの」

「魂に…」

「そう。自殺なんかじゃ絶対にないわ。殺されちゃったのよ」

 葵は、あおるようにビールを飲む。

「樋口は、小さい頃から妙なものを感じていたんだって。あんな風にはっきりと能力を自覚することは初めてだったって、当時を振り返って話してた。…それで、莉子の状況と、姉の状況が、すごく類似しているように感じるんだって。私は何も分からないけれど…樋口のその言葉だけで十分だった。…莉子が居なくなってしまうのは、いやだし。姉の時と同じ無力さが残るくらいなら、嫌われるくらい居座ってやろうと思ってたの」

「クールビューティーな葵が、熱いね」

 茶化して言う莉子を、葵は一瞥する。

「あんたも、飲みな」

「病気。体調最悪。腕も痛いし」

「痛いんだ?」

「そう言えば…あの怪我の割には、直りが速いような…」

「樋口が言ってたけど、現実の傷とは異なるんだって。それで治りが速いのかもねぇ」

 葵の言葉を受けて、莉子は左腕の痛みの強い場所を探る。確かに血が流れるような傷は見受けられない。

「痛みも血で濡れた感じも、すごくリアルだったのに…。あ、それに、友晴さんにも見えてたみたいだったけど!っていうか、どうやって友晴さんに説明したの?あの後、友晴さんは?」

 ようやく来たかその質問、そんな表情で、葵は莉子に告げる。

「帰ってもらったよ。せっかく車までまわしてもらったけど…莉子は気を失ってるし、その友晴さんが戻って来る程度の時間で傷口がどんどんふさがってゆくから、見せらんないし。看病はするから安心して、今は説明できることがないって言って。後日、必ず、莉子から連絡するから、体調が快復するのを待っててください、私からはこれくらいの説明しかできませんって言うと、しぶしぶって感じだけど、それで帰ってもらったの」

「…そっか」

 どこかほっとして莉子はそう返事をしていた。

「毎日、出社前後に寄ってくれたんだよ」

「…まじ」

「まじっす」

「え、ていうか、葵こそ、会社は?」

「友晴さんの方が出社早いから。私はその後で出社して。夜は、私がこの部屋に戻ると連絡をしてから来るって感じ」

「顔見に来て、この私の状態とか、病院連れて行かないこととか、そういう誰でも思いつきそうなことも、いっさい、質問なかったってこと?」

 こわごわ莉子がそう尋ねると、葵はにやりと笑って莉子へ返事をする。

「質問はあったよ。でも、答えらんないもん。そりゃ、そうでしょ。私に、何を説明しろって?そこまで親切心、持ち合わせてないよ」

 残念でした、と楽しそうに言いながら葵が冷蔵庫へ向かう。その後ろ姿に向かってか、今後の自分を憂いてか、莉子は大きくため息を吐きだした。

「そーでした」

 手渡されたビールを受け取りながら、莉子は笑ってそう答える。

「そもそも、友晴さんって誰?って感じだし」

「…それも、そーでした」

 立てた膝に顔を埋めて、莉子は葵の言葉に答えた。紹介しとけば良かったとか、そんな今さらなことを莉子は思って。

「ふんっ」

 大げさにそう鼻を鳴らして、葵が莉子へと笑う。

 たった二日前のあの出来事がなかったかのようなやり取りに、莉子はどこか安堵していた。対応すべき事柄も杞憂も、社食で交わすような内容の会話で、霧散してしまったように感じて。少しだけ含んだアルコールも手伝って、思考がずれてゆく。


 一番深く負った傷の辺りに残るわずかな痛みが、莉子へ、あの出来事が現実の一つだったことを、時々思い起こさせた。


 その日の夕方、樋口もやってきた。

 両手に買い物袋をさげている樋口を玄関で迎えた葵が、笑い声をあげる。

「何、その大荷物」

「葵、もう飲んでるんだろう。その補充と、僕のと、莉子ちゃんへの差し入れ」

「にしても、大量ね…」

「明日まで居座るつもりだろうから、葵が」

「そうだけど」

「明日の夜までこれでもったら、奇跡だと思う、僕」

 そう言って、樋口は12本の缶ビールが入った買い物袋を葵の目の高さへ引き上げた。

「莉子の看病に来てるのに、どれだけ飲むと思ってるの、私のこと」

「これくらいは軽く、だな」

 そんな軽い会話を重ねながら、玄関から部屋へと入ってきた二人を見つめて、莉子は笑う。

「何?莉子」

 笑う莉子に、葵が不思議そうな表情を投げた。

「良かったなって」

「またぁ、間が抜けてて、何を言ってるのか分かんないよ、それ」

「葵、おめでとう」

「はいはい」

 またからかって、そう言いながらまんざらでもなく、葵は買い物袋から出されたものを樋口と一緒に冷蔵庫やテーブルへと並べたり片づけたりしている。まるで夫婦のような二人に、莉子は自然と微笑んでいた。

「ごめんね、迷惑…かけっぱなしで。自分の家なのに、立ち上がろうともしていないって…ほんと、すみません」

「ほんとに~」

 葵がそう言って、ローテーブルに広げるだろうものを投げてよこした。

 葵の後ろで樋口は、鍋の用意をしている様子だった。キャベツとニラを切って、適当な鍋に入れて、肉と冷凍のつくねを並べ入れ、鍋用のスープを投入して蓋をする。手際の良さに感心していると「鍋なら莉子も少しは食べるかと思って、買ってきてもらったの。料理、やるんだよ、この人」そう葵が言いながら、三本目のビールを持って莉子の隣にやってきた。

 準備がひと段落した樋口が、ビールを携えローテーブルについた。「良かった、悪い感じと(もや)が晴れてるよ」そんなことを言って莉子を見てうなずいている。


 そして、プルタブを上げながら、珍しく樋口が口火を切った。


 樋口と翠の話が始まるのだろうと、その表情で悟った莉子は、少し神妙な表情を浮かべてしまったかもしれない。

 やみくもに、その悲しさにのまれたくはなかったのに、その先が見えて、悲しくなる。

 自分にそんな他人を想いやる気持ちがあることに、少し不思議な思いを抱いて。

 ハルのことに重なる。

―何でも?

 そう言ったハルは、きっと、莉子の寝入ったまま過ごした二日分の体力や気力をもぎとって、何処かへと旅立ったのだろう。

 ハルに会いたい。

 会いたいけれど、会えないことでハルの道筋が明るくなるのならば、それが最良なのだと、無理やり気持ちをねじ込んで。


 一つ息を吐き出して、莉子は樋口の話に、耳を傾けた。


「自分と奇異との距離を上手く保った気になっていたんだ、その頃」

 進学して、憧れを抱く同級生と出会い、恋に落ちて。

 このまま、普通にやり過ごしていけると思い込んでいた。それは、思い上がりも良い所だったと、今の自分なら分かることだったのに、と樋口は思う。

「そもそも、間違っていたんだよ。遠ざけたつもりが、相手方から見たら、目立っていたようで引き寄せていた。むしろ、吸引力のようなもののピークが、(みどり)と出会った頃だったと、今なら分かる。それも、後々、同じような体質の人に見てもらう機会があって分かったことで、その当時は頼るべき大人はいなかった。翠の様子が、普通じゃないと気づいた。何か悩みがあるのかと…それで少し落ち込んでいるのかと…思っていた。もっと踏み込むべきだったんだ。かっこつけてないで、もっと。まだ十六歳のガキでは、そんな勇気もなくて。嫌われない、かっこいい、ほどほどの距離でいたかった。だから、遅れた。翠の異常に気付くのが、もう手遅れの時期だったんだろう。僕たちでできることなんて、僕が知る悪霊退散的な物を翠に手渡したり身につけさせたりする程度。どこに頼れば良いのかなんて…もう途方にくれたよ…」

 当時を思い出しながら、話す樋口の表情が暗い。樋口の間を繋ぐように葵が続けた。

「私は、さっきも言ったように小学生だったんだよね。姉とは、よく喧嘩もしたけど、色んな話もしていたの。それが亡くなる数か月くらい前から、どんどんと体調を悪くして。今、考えてみると、言動も少しおかしかったのかも…でも、小学生だったから、姉の様子がおかしいっていうことへの危機感って、どの程度膨らませて良いのかもわからなくって。…共働きの親は、帰宅後に食事を一緒に取れる日が週に一回か二回程度だったし、父親は夜勤もあったから…姉が本当におかしくなってしまったって異変に気付くのは、私たち家族は、とても遅かったの…」

 判断が遅れてしまったのは、その想いも一因だと、樋口は言う。

「…初恋…だったんだろうなぁ。手を繋いで、学校の往復を一緒に過ごして、時々公園で話したり、ファストフードの店でジュース一杯で何時間も居座ったり…ただただ、それだけで、毎日がキラキラしてる、そんな年齢。六感も鈍っていた。…何か、きっかけがあったんだ…違和感みたいな…()()疑いを持って見て初めて、(みどり)の周囲に幾重にも巻きつくように流れる(もや)が、やっと、やっと僕にも視覚できた。そこにあった、あるものが、恋心一つで、見えなくなる、そのことに…驚いた、よ…」

 樋口は、皮肉な笑い声を上げた。

「…一瞬で顔色を変えた僕に彼女は『どうしたの?』と言った。確かに言ったんだ。その声が、ボイスチェンジャーにかけた後、色んな声音を重複させたような、声だった。何人分も重なってた。その表情は、靄に隠れて全く見えない。声も翠の声はわずかに拾えるだけで、ほとんどはその他の声の…重なった…背筋にくるような声だったよ。手が動くと、指先が靄から気まぐれに飛び出して、カップやコップやカトラリーに触れる。もう、目の前の翠が、本当に翠かどうかさえ、その一瞬で分からくなるくらいの状態だった。いつもの学校や先生や友達の噂話やなんかが、目の前の、黒い何かから発せられていて…僕はようやく、やっと、その日気づいたんだ。もう何も頭に入ってこなかった。ただただ、恐れた。僕はその日、翠に気遣われて早く帰宅したよ。一番やばいのは翠本人なのに…」

 逃げるように、と樋口は付け足した。

「僕の記憶の中に残る最後の翠の姿は、靄の中。どうにかして、翠自身を見つめようとしたんだけどなぁ…結局、その後で翠の姿を見ることができたのは、お通夜の席だったよ…」

 少し遠くを見つめてそう言って、少し息を吐き出すように、樋口は話を続けた。

「努力って言っても、しょせん、高校生がやれる範囲で、知ってる知識も少なくて…だからね。…護符や神社や教会の清気で神聖さを増したような物を渡してた。莉子ちゃんにもしつこく手渡してたああいう感じ。今の方が強力だけど…当時は威力も微弱で。持った場所の周囲はクリアになったかな。そういった場所に連れて行くと、靄が少し薄くなることもあったし。顔を近づけて抱きしめると、少しだけ生気のない顔が微笑んでいるように見えたこともあったし。…それが本当に見えたのか、願望が見せた薄い幻かどうかさえ、分からなくなってしまって…僕は何もできないことに焦って…何かできるはずだと、やっきになって…でも、大元で結びつきが強くなっているようで、そんな些細な、子供だましな手では、翠の靄を取り払うことは、もう無理だったんだろうな…今では、そんな風に思うよ…」

 ネットを調べて、何件か電話で相談もしたらしい。体力の落ちてしまった翠を連れて高校生が移動できる範囲での相談窓口限定で。電話口で一笑されることが多く、話を聞いてくれても、信者を増やしたいだけの団体や、気休めのお(はら)いを高額で(ほどこ)す業者だったりした。当たるという手相師に相談もしてみたが、「凶、それだけは言えるが…」とお茶を濁されて終わった。行ける範囲の神社仏閣も尋ねた。そこでお祓いもしてみた。

「でも…高校生の行ける範囲で、お小遣いの範囲でとなると、一週間ほどでアイデアも出尽くして手詰まり、だったなぁ…」

 せめて、と、毎日、下校途中にある神社へと足を延ばした。その場所では、手に持った缶ジュースの銘柄がわずかに見える程度に靄は薄くなった。

―ねぇ、どうして、色んな場所に私を連れて行くの?

 『何も言わず、僕に付き合って』そう言って始めた、その数週間、翠は黙って着いてきた。神社仏閣、さらには怪しげな新興宗教や妙なお祓いをする場所へと連れて行かれても、翠は大きく反発することはなかった。はっきりと表情が読めないせいで断言はできないが、繋ぐ手に、それを感じなかった。そう樋口は思いたかった。

アイデアも出尽くしてしまって項垂れる樋口に、翠はそんなことを言う。

ただ、もがいてもあがいても出口が見えないことに疲れてしまった樋口は、それに答えることができずにいた。

もう、この頃は、幾重にも重なる奇妙な声がデフォルトで。

 神社の敷地に入ったおかげで、ほんのわずか、漏れるように本人の声が耳に入ってくる。

その声がわずかにでも聞こえてくる程度のことで、ほっとする自分に、樋口は自嘲した。

―ねぇ、だまって着いて行ったでしょ、私。

 少し甘えるようにそう言って、翠は体を樋口に預けるようにした。

―ね、おりこうだったかしら?私。

 違和感を感じて樋口は隣にいる翠を見下ろした。靄の向こうに、薄く透けて、つむじが見える。細く白い腕も、その靄に浮かび上がるように、見えた。

―ふふふ、そんな小細工、通用しないというのにねぇ…

 風に乗せるように、ふわっとした物腰で、翠はそう言って樋口を見上げた。


「気づいた時にはもう、翠は、翠の姿をして黒い靄をまとった、他の何かになってしまっていたよ…」


―そして、一週間ほどで翠は(はかな)くなったと樋口は告げた。



ありがとうございました。

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