36
短くて、進まない、そんなターン。すみません…。
「…また」
目を開けて最初に思ったのは、そんなことだった。
何度目かの暗転。気を失ったり倒れたり、そういうことに無縁だったはずなのに、この様だ。
よくよく稀有な一日。
それで一笑するには、体に走る痛みは現実的で物理的で。
この一連のことが片付いたら、明日からの自分のモチベーションの切り替えをしようと、決めて。
今の莉子には、それくらいのことに気を回すのが精いっぱいといったところで。
そう言えばハル笑ってたなぁ。
最後に見たハルの表情を思い浮かべて、莉子は少し笑ってさえいた。けれど、思ったほど、心は晴れない。ハルが去ってしまったことだけは、よく分かってしまう。
靄が薄く消えてゆくような感じで、それまで居たはずの荒れ地が薄くかすんでいって、いつもの部屋の様子が輪郭を取り戻してゆく。
その靄に紛れ込みながら、樋口と葵が手を繋いでゆっくりと莉子へと近づいている。
ふと気づく。
二人があの場所にいるのならば、背中に感じる温もりは誰のものだろうと。
莉子がそう思うのと同じくして、背中側から手が伸びた。その手がそっと莉子の頬をぬぐう。ぬぐわれてようやく、莉子は自分が涙を流していることに気づいた。ぽろぽろと落ちる温い水が、頬を伝う。それを何度かぬぐっていた手が後ろに戻され、ハンカチを取ってすっと戻って来る。
その見知った手を、なんとなく目で追っていると、ぎゅっと抱きしめられた。
背中から伝わる体温が、とても、温かい。
こんな季節のはずなのに、ずっと寒気を感じていた。あれは、あの男やハルや自分の醸し出す何かの所為だったのだろうか。
背中の温度を確かめるようにすり寄りながら、莉子はそんなことを思う。
「莉子」
ようやく擦れた声が背中から聞こえた。
第一声に安心してしまった。
決して、この状況を嫌悪している声ではなくて。
ただ、莉子を気遣うような声に聞こえて。
「葵に呼ばれた…の?」
何も悟られることがないように、平常心を貫きたくて、そんなことを言ってしまったにもかかわらず、莉子の声もずいぶんと擦れて自信なさげに揺れていた。
「あおい、そうか、彼女が同僚の…」
「そうだね、ちゃんと会ったり話したりするのって、今日が初めてだよね」
そんな話をしてしまう。
「葵には、少し前から紹介しろってうるさく言われてたんだけどね…」
だけど。
ハルのこともあるし、そもそも、私たちの間に転がっている感情は、どこへ向かって行くのかもあやふやで。自信を持って友だちに会ってなんて言える関係でもなかったんじゃないかと、莉子は考えて。言葉をもらえば安心できるような状況でもなくって、何か超えないといけない事柄があって、それを処理しないと起動さえできないエラー画面のように、実行ボタンが押せなかった。それは、間違いなく自分自身。
「…ただの意気地なしって話…」
その時、莉子が小さな声で言ったそれを拾うはずもない背中側から回された腕に、再びぎゅっと力がこもった。
「右手が痛くて…」
そう莉子が言うと、友晴は慌てたように腕を離す。
「ごめん、傷、あるの分かってたけど…つい」
「違うの。大丈夫。そのせいで痛いってことじゃないから…」
莉子のその言葉を聞きながら、友晴はそっと莉子を後ろのソファーに預けて、前に回った。莉子の腕の様子を確認して、友晴は少し顔を歪めている。
「ごめん、自分のことばかり気になって、莉子の状況に追い付いてなくて…痛いのは、当たり前じゃないか…こんなにたくさん血が…」
そう言って立ち上がった友晴が、キッチンペーパーや薬箱や思いついたものをピックアップしている。その様子を首をまわして莉子は眺めた。
部屋の靄はあと残りわずかになっている。
葵と樋口がようやく『部屋』の時間に戻って来たようで、莉子の傍らに立ち止まる。
莉子の側に戻ろうと踵を返した友晴が、その二人を認めてぎょっとしたような顔つきになった。友晴を目で追っていた莉子は、靄の中の様子を友晴が正確には把握できていなかったことを、それで察した。友晴にとって、二人は、突然ふって湧いたように見えるだろう。
ならば、なぜ、自分のことは見えていたのか…。
莉子は一人先んじて、靄から抜け出ていたから、それで見えていたのかもしれない。だけど、時間も空間もねじ曲がっていたこの部屋の中に、普通に足を踏み入れて存在する友晴の方が、莉子には異質に思えた。それは、向こうも同じ理屈で不振に思っていてもおかしくないことに考え至るのに十分なことだった。
莉子は、ただ、友晴を見上げた。
何か言いたげな様子の友晴が、その言葉を飲み込んで莉子の右へ座る。消毒薬を傷口に流しキッチンペーパーで余分な液をふき取り、軟膏の成分を確認してそれを塗布してガーゼを当てる。
「慣れてますね」
「…晴喜がよく転ぶ子でね…」
友晴には、きっと、今さっきまでここにいたハルは見えていない。見せてあげたかったという想いと、そうなったとして自分がどうやってここまでのことを友晴に告げるのか、その勇気のようなものがあるのか、そんなことに思いが流れる。莉子の中で、両極の気持ちが膨らんで消えてゆく。
「これで良いだろう。ひとまず、救急に行こう。車を回すから、ここで待ってて」
「でも」
「いいんだ。…病院へ連れて行きたいから車を回してくるよ。あおいさん、その間、莉子のこと見ててもらって良いかな」
途中で葵と樋口を見上げて、友晴は同意を取り付けていた。
莉子はまだ迷っている。
この状況の説明をどうしようかということと、傷ついた自分を甘やかして思いやってもらえることとを、天秤に乗せて。
「…でも」
不明瞭な判断で出た言葉はそれまでの考えと同様にどっちつかずで、友晴に流される形を取った。それを選んだ、と言うべきだろう、と、どこかで莉子は思う。
「いいんだ。待ってて」
そう言って立ち去る友晴に、名残惜しさを感じた。
振り向くことなく部屋を出て行った友晴を追いかけるように動いた目線を、莉子は、閉じた扉からなかなか逸らすことができなかった。
エレベーターが作動する音がわずかに部屋まで響いた気がして、友晴が降りて行ったと感じる。
莉子の、どこからか、ため息が漏れる。
腕も痛いが、気も重い。
「で、この期に及んで、あんた、どうするつもり?」
葵がそんな残酷な一言を落とす。
「…おっしゃる通りです」
莉子はそう言って肩を落とした。
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