35
ふっと途切れた意識が戻った。
落ちたのは数分だろうと、莉子は周りを見渡して思う。
友晴が、あと数歩で届きそうなところにいるのを見た。
ここと、あの友晴の場所とで、違う時間が流れているようだ。その歩みは、亀よりも遅い。視線も、どこか違うものを見ているようで、合うようでかみ合わない。
ハルの笑う声が近づいてくる。それを見定めると、男がまたハルに張り付いていた。
「くそっ」
いつもは出ない悪態が莉子の口をついて出た。
樋口と葵は莉子から距離を取ってその動向を伺っている。その二人がいる場所もまた、莉子のいる場所とは違って見える。幾筋もの流れが、この空間に交錯しているのが、ようやく莉子にも分かり始めた。
莉子とハルと男は、ここまで同じ筋にいる。故意に筋を違えることをしない限り、三人は同じ所に留まってしまうということなんじゃないかと、莉子は考えた。
あのカーテンレールをつかみ損ねた時に、その弾みで莉子はきっと筋を飛び超えてしまっていて、それでハルは驚いていたのだとしたら。
筋さえ選べば、ハルと男のいる筋から違えることができるということだろうか?
樋口の声に耳を澄ます。
少しずつ体の痛みや傷が軽くなる。
自分自身で癒すイメージも加えると、強くそれを望むと、じわじわと加速してゆくのが分かった。
そうか、この空間を構成しているのは、あの男の力だけではない。きっと、自分の力も。
動かなかった腕が片腕だけは動き、わずかに痛みが残るだけになった。
ハルはこちらの結界の位置を確定したようで、出てくるのを待ち構えているようだ。
「ふー」
長い息を吐き出した。
飛び出して体を左右へ流す。筋がまとわりついてくる。
「入ってなぁ!」
と、強い口調の葵の声が耳に届いたが、それを聞き流して、目前のことに注視する。
ハルが笑いながら近づく。男がそれを操っているように感じる。
筋が見える。
もう一度反転して、結界へ逃げ込んだ。
樋口がこちらの意思を組んでくれて成り立つ作戦だと思った。けれど、それをする以外の良案も思い浮かばない。
もう一度、結界から転がり出る。
見上げると、男の闇に飲み込まれるように浮かぶハルが見える。
「ハル、ハル。戻ってきて…戻ってきてよ…戻ってぇ!」
だんだんと自分の声が上ずって、叫び声のような悲鳴を上げ始める。感情に振り回される感覚を、知っている。きっと、今、あの男の黒い靄が莉子にも影響を及ぼしているのだろう。冷静な部分が、それを押しとどめようとている。これに引きずられては、あの男の思うつぼだ…と。
ふらりと立ち上がる。
見つけた。
その筋を掴んで引き寄せる、それがするすると手の上ですべる。その感触から、つかむものじゃないんだな、そんなことを感じながら、なんとか手に意思を乗せる。
つかんだつもりのものを手繰り寄せるイメージを強く願いながら、莉子はその筋に乗りこむ。少しずつ少しずつ、ハルと視線がずれてゆく。捕捉できない流れに乗ったのが、そのハルの視線で分かる。
できる限りの速さで、ハルを目指す。
「樋口さん、あの男に!」
聞こえることを強く願って、樋口へ向かってそう叫ぶ。
ハルがゆっくりと視線を彷徨わせながら、男の方を伺うように振り仰ぐ、そのスローで動くハルを、莉子の伸ばした手が抱き寄せた。
「ハル」
子ども特有の匂いを吸い込んで、ハルの存在を腕の中に感じた。
男から引きはがす。瞬間、莉子の筋に引き込む。男は何が起きたのか分からない様子だった。その後で、樋口が男へと最後の一振りを投げるのが見えた。
きらきらと輝く軌跡が樋口から男へゆっくりと放たれる、ように莉子には見えた。同じ筋にいるハルも、それを見て身じろぎをした。
抱きしめたハルを落とさないように片手で抱き直して、莉子は樋口から放たれたものを追って飛ぶ。筋を手繰り寄せて、それを追って、できる限りの力で男へ向かって加速させる。力の限り、意思の乗る限り、渾身の想いを乗せて。
それを黙って見ていたハルが小さくため息を吐いて莉子を見上げてきた。その瞳には、少し前の禍がうっすらと残ってはいたけれど、良く知るハルのように思える何かが宿っているように見えた。
「ハル、どうして私を打ちのめそうとするの?」
莉子の言葉を、一つずつ呑み込むように聞いて、しばらくの間の後ハルは口を開いた。
「…敵だって、言うから…」
答えたハルは、かつてのハルの声色をしている。男から離れるだけで、少し冷静さを取り戻せるのだろうか。
「あの男が?」
「…うん」
「敵だとしても、関わらないっていう方法もあるよ。嫌いなものにわざわざ関わらなくって、良いんだと、思う。だけど、それを知っててあなたをけしかけたのだとしたら、あの男は、あなたと私の関わりを利用して、私を蔑みたかっただけなんだと思う。だから…だから…ハル、あなたは、私やあの男に影響される必要なんてないの。ハル。ハルが行きたいところへ行って良いの。ここじゃなくて、もっと良い場所があるはず。だから、ハル、戻ってきて。そして、旅立って。私も誰も、ハルのことを苦しめないところへ…」
莉子が手を加えたせいで、男にはその動きが予想外の速さで向かっているように見えるのだろう。自分へ向けられた悪意に似たものが撃ち込まれるのを分かっていながら、避けられない状況に、男が何を思うのだろうか。一瞬、そんなザマーな考えが頭に上がってきて、莉子はそれに蓋をする。そんなことよりも、もっと大切にしたいことがある。
樋口が投げ放ったものが男に突き刺さる。
光が空に満ちて振り向いた時には、男はちりじりに溶けて消えてゆくところだった。
「…ふふ」
腕の中のハルがぽろりぽろりと涙を落として笑っている。
光が、どの筋にも均等に、きらきらと落ちていた。
所々で鏡のように折り重なったり反射したりしながら、幾筋もの流れの中に、光が解けてゆく。あの毒々しい黒い靄が、白くなって輝いて落ちている。
樋口がすごいのか、この空間の視覚効果なのか、分からないけれど、何か、きれいな何か、に思えた。
莉子は、それをハルと眺めていることが、とても嬉しかった。
ふわりと着地したと同時に、ハルが莉子の腕から逃げるように出る。
「嫌だ」
そう強く言って拗ねたような顔色で莉子を見上げて。
「嫌だ…」
ハルがまたそう言った。
冷静になって、莉子の体に残る流れた血の跡や傷を見て、ハルは自分がやったことを慮っているのだろうか。
だとしたら、話が変わってしまう。
その前に、莉子は伝えたかった。ハルに分かってほしいと思った。
「ハル。戻って来て。そしてどこへでも行って。だけど、絶対に、一時の気の迷いとかで出て行かないで。側に居て。どんなタイミングでも良いから。だから、ハル…ハルの一番良い時を見つけて、それで旅立ってほしい。一緒にいるくらいしか、祈るくらいしか、私にはできないから…だから。だから…せめて、私の我儘だけど、こんな、誰か、悪意のある他人、に、ぐちゃぐちゃにされたままで、私を置いていかないで。私、も…、ムリ、いや、絶対にイヤ。居なくなるのがハルにとって良いことだとは分かってる。分かってるけど、どこでどうなってるんだろうとか、居ないけどどこかにはいるんだろう、何してんだろうとか、大丈夫かなとか、そういう心配を重ねる自分がイヤ。置いてかないで。きっちり、けじめつけて行って。それで、好きなとこへ行って。持って行けるもんがあるなら、何でも持って行っていいから、一人で勝手にいじけたみたいにいなくならないで!あんな男につけこまれて、うじうじしながら彷徨ってんじゃないよ!今のハルの状態でふらふらしたら、またきっと、同じようなことになっちゃうよ。出てくなら、きっちり、しっかり、私の不安を解消してからにしてっ…」
幼児に言ってはいけない、言っても分からないようなことを羅列してしまった自覚は、莉子にもあった。だけど、子どもに分かるようにとか、言い聞かせようとか、そういうことは頭になかった。これまで過ごしてきた成長してゆくハルの姿や、色んな話をしてきた場面が思い浮かんで、分からないわけが、伝わらないわけが、ない、と強く思った。
「…莉子」
「何よ」
「イヤ…」
「…子供っぽくて悪かったわね」
「…お前、母親みたいだな」
「どこがっ?」
眉根を寄せて視線をよこした莉子に、ハルは笑った。その表情が、とても大人びて見える。もう、莉子は、自分が必要とされていないと、思った。
「もらえるもん、もらって行って良いんだよな?」
「そうね、そう言った、言いました」
分かりやすいため息を吐きながら、莉子はそうハルに返事をする。
「じゃ」
ニヤっと笑ったハルを見たのが最後だった。
何時ぐらいぶりの良い表情、できてるんじゃない?
と思った次の瞬間、莉子の視界は暗転した。
読んでいただいてありがとうございます♪




