31
今日も遅いのか。
ふらっと飛び出した夜空から見下げた足元に、難なく莉子を見つける。その隣にいる男を見て、ハルは一つ頷いた。
「莉子とパパがねぇ」
不思議な感じがする。
莉子の部屋に出没するようになって、少しずつだがあり得ないスピードで成長する心と体を持て余し、昼も夜中も、ぐるぐると風に乗って思考と体の成長の軋みに耐えた。その日々を過ぎて、また幼体に戻って。
今、ここに在る自分は何なのだろうかと、考えないようにする日々。
ただ闇雲に、求めるように莉子の姿を探す日もあれば、あの日聞いた『ママ』の声を求める日もある。感情の強弱の調節が難しい時も増えて、何かしら自分から滲むように出ているかもしれない。近頃では、境界が曖昧なヤバい暗闇が、少しずつ自分を浸食していくような感覚を持つ。錯覚かもしれない、と思いはしてもやはり、ムリだ。自分の曖昧さは、よおく分かっている。無駄に成長した思考が、幼体に戻ってもなお残っていて、感情が追い付かない。
ハルは揺れている。
その隙間を縫うように、手を伸ばす者もじわじわと包囲を狭めている。
気づいているような気づかないような変化が、少しずつ日常を変えている。
そのことに、莉子もハルも、どこかで分かっているような気がしてはいた。
だけれども、対処の仕方は、誰かから教えられるようなことではなかったのだと、思う。自分だけで切り抜けられないのなら、それまで。ただただ、そんな考えに似た諦めはあった。
「莉子」
深夜、ようやく部屋に戻った莉子にハルは声をかける。
「ただいま、ハル」
このただの挨拶にぎこちなさを感じるようになったのは、いつからだったか。
「おかえり、莉子」
表情を変えないハルに、莉子は不自然な笑みを返す。
「待ってなくて良いのに」
「莉子と会おうと思ったら、この時間しかないもん、最近はさぁ」
「…なんか、ごめん」
目を合わせることなく、そう言って莉子は、バスルームへと消えてゆく。
そんなやり取りを何十回と繰り返しているような気がしてくる。
ハルは、それまで感じていた安堵や居心地の良さを、どんどん他へと流す莉子に、あきれていた。そして、悲しくもあった。必要ではないのなら、なおさら自分は何なのだろうと。
暗いリビングで開いた手のひらを見つめて、ハルは深いため息を吐き出す。
そして、バスルームへ目線を投げて、なかなか出てはこない莉子にしびれを切らすように、夜空へと飛んだ。
空はいつでもハルを受け入れ、泳がせる。
風はどこかから何かの匂いや気配を運び、ハルを誘う。
見てはいけないもの、見ない方が良いもの、知らなくて良いこと、そういうことも突き付けてくることもある。
けれど、そこに空はある。
夜空で漂うハルが反転した時、急に気配を詰めたものがいた。
「君、ハル君だね?」
「誰?」
「知ってるでしょ」
目を細めて蔑むような冷たい目線をよこして、その男はハルを不遜に見つめた。
「…廊下の?」
下駄箱の小さな影に縮めるように身を置いて、焦点の合わない虚ろな目を血走らせていた、あの最初の印象とは違う男がそこにいる。
「ああ。ご無沙汰というべきか、懐かしのというか」
男の軽口に、警戒感がぐっと上がる。何のためにこのタイミングで…。今まで、あちらから接触するような素振りは、あまりなかった。初めは脅かされたが、ハルの成長と共に、逆に恐れを含んだ目線を向けられていたはずだ。
「ずうずうしいです、どちらも」
「うわ、けっこう言うね」
「…成長、したから…」
「ああ、そういう人、いるんだってね。聞いたことがあるよ。死んでからも成長する子どもの霊とか、人生をなぞるように老いてゆく霊とか」
「あなたは…あの場所から動いた気配があまりないのに、そんなことになぜ詳しい?」
「ああ、僕だって、一度は死んだからね。召された時に走馬灯のように、知識の流れに一度身を置いた。でも、そこからは一瞬で弾かれたよ。というか、拒否したせいで弾き出されたと言う方が正しい気もする。気づいたらあの場所にいたから、確証はないんだけど」
ケケケっという笑いが男の口から薄く漏れた。
「…生前からそうやって思いを吐き出していれば、あなたはここにはいない」
「その通りだよ。ばかな人生だった」
「では、流れに戻れば良いじゃないですか」
そこで男は、腹をかかえて大笑いをする。その表情は、生前のとも最近のとも違って、魚眼レンズの端のように歪んでいた。
「それは、僕に言ってるの?君自身の話?」
ひきつるような笑いを残して、そう絞り出す男を、咄嗟に突き飛ばしてハルは、その場から逃げた。
あの男の言うとおりだと。
それに一瞬で気づかされたとたん、後悔と懺悔と、何よりも自分の存在の不自然さが心へと刺さった。
あの場所へ…。
目指したのは、莉子と共に祈った社。
夜の社に張られた結界は、キラキラと輝いている。
薄く半透明に透けた社が、ガラスケースに入ったアンティークの様相で、滑稽で手の届かないもののように見える。
あれは、ここへは入れない。
そう確信して逃げて来たハルは、それまでのスピードのままに、結界の膜へ飛び込む。
衝突した、そう理解したのは数瞬先だった。
「…弾かれた…」
思わず出た声を拾ったのは、逃れて距離を取ったはずのあの男で。
「だろっ」
そう言って、指差してげらげらと笑う男を睨みつけたものの、ハルにはそれ以外に出る言葉もなく。
体の力が抜ける。
「だから言ったんだよ。君自身の話じゃないかって」
「知ってたのか?」
「そりゃぁ。同じ穴のムジナって、一目見たら分かる」
「お前の目に、僕はどう見えているんだ?」
「真っ黒。輪郭もオーラも、僕たちの仲間」
「…そんな」
「そうなんだよ、それなのに、莉子さんの部屋に入れるのが不思議。僕たち親子は、あの緑色があるから入れないのに」
「…莉子にも、僕は…そう…見えて…いる…の…か…」
「笑っちゃうよねぇ」
同意とも相槌とも、どうとでも取れるような言い回しで男はハルに返事を返す。
その真意を考える余裕はハルにはなかった。
「…」
男の言葉を同意と取った。
ハルは。
あの不自然な莉子の態度やハルの父親への傾倒を、半ば自分の所為だと思い始めてしまった。
ハルは。
生きながらえるとか、生への執着とか、そういう希望や欲を持ったのは、つい最近のことで。その残像のような気持ちのブレに、ただただ流されて揺さぶられて。
ハルは。
小さな希望に、ほんの少し心を寄せただけだった。
なのに、ハルは。
体を幼くして、自分の感情の起伏に振り回されて、思考だけは残ったまま、ハルは。
少しだけ、願ってしまった。
あの夜空で、思いっきり飛びわまる自分や莉子や、両親の姿を。
読んでいただいてありがとうございます。




