30
なかなか進まなくて…すみません…。
日が沈んで、影が長く伸びる道。
少し切ないような苦しいような気持ちが、日の陰りと比例して上がってくる。いつか見た羨ましく思う景色にも似ていて、小さな濁点のような孤独がぎゅっと顔を見せた。
会える。
そう思ってはしゃいでいた気持ちの後に、ハルの顔や友晴の状況や自分との関わりの因果のようなことに思いが走っていく。
もしかしたら、ハルが急に姿を幼く戻してしまったように、この気持ちも思い込みや何かの魔法のようなもので、一瞬で弾けるようなものなのかもしれない。例えば、ハルが在るべき場所へと召されたら、友晴との感情も、プツリと解けて消えてしまうのかもしれない。今のこの状態は、ハルによって導かれた道筋のようなもので、台本通りに進んでいて、エンディングが存在するのかもしれない。
自分の中から消えなくても、相手の心から消えてしまえば、同じこと…。
逃げ道を確保するようなやり方で、他人と接する癖が抜けない。
何より、不安な要素が、そもそも、たくさんあるんだから…。
言い訳のように溢れ出る疑心暗鬼が、止めどない。それと対峙する子どもっぽい内面が、こぽりと溢れたそれに、簡単に揺さぶられる。
不安と色とを行ったり来たりしていたそんな心細さも、降りた駅で見つけたそれに、一瞬で霧散していた。居るだろうと思った場所に間違いなく居た、それを、決定的なことと思ってしまう。その後で、裏付けるように認めてしまった後ろめたい気持ちが、単純な嬉しさに溶けてゆく。
友晴の表情とたたずまいに、莉子はめいいっぱい口角を上げていた。
「お待たせしましたか」
その莉子の言葉に、友晴は笑って、顔を小さく左右に振った。
「待ちたかったから…」
走り寄ってきた莉子を、莉子が友晴を見つける前から認めていた友晴は、近づく莉子の表情に安堵してさえいた。待ってはいない。望んで待っていたかったのだろう、と、莉子を見て思った。それ以上の説明を、する術を持ってはいなくて、嬉しさが伝われば良いと友晴は思った。
「…心臓…止まるかと思った…」
何かが零れ落ちそうな表情を友晴から向けられて莉子は、逃げを打った。両手で自分の頬をつつんで、友晴の反対へと顔を向ける。すると、その手を友晴の手が追いかけてくる。
「莉子はかわいいなぁ」
「…ほんと、やだぁ。どうしたの、友晴さん、悪い薬でも盛られた?」
「そういう素直じゃない所も含めて」
友晴の言葉を受けて、いたたまれない莉子は、頬が弛むのを知りつつも、友晴を一睨みするべく振り向いた。
「はい、お土産」
話を切るように、莉子が友晴の胸元へと惣菜の入った袋を押し付ける。
「ありがとう」
軽々と奪い取られた紙袋の重みを失った左手が、所在なさげに下へと落ちる手前で、友晴が莉子の手を取った。
「さ、行こう」
前を向いた友晴の表情が明るい。それを見上げて莉子がうなずくと、友晴がいつものように莉子の視線に気づいて下を向く。その先に居る莉子を見つめて、繋いだ手にぎゅっと力がこもった。
「飲物って、ビールとお茶とチューハイの三択だけど、良い?」
「良いよ」
「じゃ」
このまま…。
このまま、ずっと、ゆるい幸せに浸ってしまいたい。
何も、現実的なことは願わず、思わず、考えず、ただ、愉しみたい。
滑り込むように流れた欲のような考えが、莉子の心に一滴落ちた。
「友晴さん。やっぱり、炭酸買って行きたい」
欲は苦手だ。莉子は、心に落ちた滴をできる限り拭い去るつもりで、そんなどうでも良い希望を友晴に投げる。
「了解」
莉子を上から見下ろして、友晴が続ける。
「炭酸って、ソーダ水ってこと?甘いの?サイダーとか?」
「…何でも良いんだけど…そうね、ペリエとかそういう甘くない方が良いかな。喉乾いた時に飲みたいから。」
「ペリエ限定じゃないよね?」
「ええ、ウィルキンソンでも三ツ矢でも、甘くなければ。」
「承りました、姫」
そう言って友晴は、からからと笑う。
莉子もそれを笑って受け入れた。
何もない部屋。
足を踏み入れて初めに抱いたのが、そんな印象だった。
自分の部屋こそ何もないと言ってふさわしいと思っていた莉子は、友晴の部屋を見て、まだまだ甘かったと知る。ビジネスホテル以下というか、ビジネスホテル並みというか、不快ではない、生活はできるけれど、家主の心がこもっていない部屋というか。温度のない部屋だと思った。ローテーブルもラグもソファーもありはするけれど、並べ置かれただけの、無機質なもののような感じがする。
「いらっしゃい」
友晴の後に続いた莉子へと、惣菜をローテーブルへ置きながら振り向いて、友晴がそう声をかける。
「おじゃまします」
上がるときにもつぶやいた言葉を、莉子は友晴を見て告げた。
「有体に言って、まさに何もない部屋だけど、ゆっくりして行ってくれると嬉しいよ」
友晴の言葉にニヤついて莉子は答える。
「本当に。すっきりしてる部屋」
案外、馴染んでいるような気もした。あの思い出に溢れた家で顔色を悪くしてうなだれていた友晴よりも、この何からも切り離されたようなスペースの方が、今の友晴に合っているように思えて。
「すっきり、と言えば聞こえが良い。言葉通り『何もない』だよ」
「ソファーがあるし、テーブルもあるし、テレビもある。十分」
「だろう」
「おなか空きました」
「…食い気ね。了解。お姫様」
「何なんですか、さっきから。姫とかお姫様とか」
「…なんだろうね。言いたいのだから、言わせておけば良いよ」
「言ってる本人が、何言ってんですか」
「…なんか、さ。非現実的なことって感じで、良いかなと思って。莉子が幻ってことじゃないよ、もちろん」
友晴はそんなことを言う。
ふっ、と莉子は思う。
友晴もきっと同じくらい、この関係に揺れているのかもしれない、と。
探るように見つめてしまって、友晴の方へ莉子は手を伸ばす。
こちらの真意を見定めるかのように、莉子を見つめる友晴に、どうにかして信用してもらいたいのかもしれない。私は大丈夫とか、ハルのことがあるからじゃないとか、同情や後ろめたさとかそれだけじゃないとか、そういうことを少しだけ伝えたいような気がした。
伸ばした手が友晴の頬に触れて、ゆっくりと首へと流れる。その手の動きに合わせて、目を閉じた友晴が甘えるように顔を寄せる。両手で包むと、友晴の手も莉子の背中へと回った。
「惣菜食べようよ」
「食い気ね」
「さっきから、何ですか?」
「そんな見つめられたら、空腹以外の欲が刺激されるよ」
「あっそ」
照れて顔を埋めながらそう返した莉子に、友晴は笑う。その笑った振動が、抱きしめられた体越しに伝わって、また、莉子はぎゅっと顔を友晴の胸へと埋めた。
「じゃ、姫のためにコップ持って来るよ」
「じゃ、惣菜並べておきます」
「じゃ、そろそろ、腕の力ゆるめてくれる?」
友晴がそう言い終わる前に、ぱっと手を放す。莉子はまるで怒ったような顔で惣菜の入った袋をつかんだ。
「っほんと、やだっ」
「まるで十代のような照れっぷり」
「…からかわないでください」
「おじさんも、照れているんだよ」
「余裕しゃくしゃくに見えます」
「おじさんだからね、少しは年上らしく振舞いたいんだ」
「そうだ。食べられないものってなかった?ですよね?」
「日常的に出てくるような食材で食べられないものは貝類だけ。アレルギーがあるんだよ」
「そうなんですか」
「…少しずつで良いから、口調も変わってくれるとうれしい」
突然そんな話をする友晴を見て、莉子の心が跳ねる。
それは、先があるってこと?長い目で見てってこと?今だけの人に言えることでもあるけど、今までの友晴からそういう軟派な感じはないし。未来を望んでも良いのだろうか。
「…そう」
曖昧に答えた。
「莉子、かわいぃ」
頬を染めて口を一つに結ぶ莉子に、友晴はからかうようにそんなことを言う。
「友晴さん、ハードル高い。私、恋愛偏差値低いから、どうやって返したら良いかわかんない時がいっぱい。普通の話とかにしてください」
「ちなみに普通って?」
「…だから、そのぉ…仕事の話とか…ニュース…とか、何だろう…今朝思ったこと、とか?」
「仕事の話は、愚痴になるからやだな。まだ、カッコ悪い所見せたくないし。ニュース…ねぇ…僕、いつも見る新聞て会社にある経済新聞とかニッチ産業の広報誌とかだからさ、これもまた莉子に嫌がられそう。今朝思ったこと、ならあるけど…たぶん、莉子がまた嫌がるよ」
話を聞きながら、何も正直に話す必要もないことに気づく。自分から違う質問を返せば良いだけのこと。いつも会社でやっているように、相手の好みそうな分野の質問を投げれば良いだけのことだと、今さらながらに莉子は思い至る。
「この惣菜、初めて買ったんですけど、あの駅にこのお店あるの知ってました?」
「話を変えることにしたんだ。お付き合いしましょう、姫」
用意したグラスとボトルを持った友晴が、ソファーに座って莉子を手招きしながらそう言った。
「…友晴さん」
莉子が音を上げる。
居心地の決して良くはない、その簡素な部屋が、友晴と過ごした数分で、自分に馴染んだような感じがした。誰かの空間に、切り込んだり割って入ったりするんじゃなく、招き入れられている。少しずつ甘やかされる予感をはっきりと感じて、それを心も体も喜んで迎え入れている。
小さな悩みや危惧が、ずっと遠い所へと霞んでしまって。
すっかり忘れてしまうんじゃ…。
忘れるというか、もろもろと一緒に、浮かれた脳みその中で、行き場をなくして。
莉子は、友晴に、のぼせてしまっていたのだろうと思う。
今までの友晴のいない毎日を思い出せない。
愛おしい人が存在することが、心も体も満たしていった。
読んでいただいてありがとうございました。




