29
荒涼とした場所、枯れた木々、乾いた空気、吹き荒れる風。
ああ、また、ここ…。
莉子が夢見ながら思うほど、それは幾度となく重なる『夢』の場面。
何度目かの時に、ハルは「僕の夢じゃない」と言っていたっけ。
知人友人の記憶か夢じゃないか、って言っていた、たしか。
そんな見慣れた景色が、ベッドの上で起き上がったはずの莉子の周囲で投影されている。
既視感を持つほど繰り返し見る、誰かの記憶のかけら…。
「あ、また、莉子、この夢見たんだ」
明るくおはようと言った後で、空中を見上げながらハルは、むくりと起き上がる。
ハルはあの日のままだ。初めて会った、死んだ時のままの、幼いハルの姿形で、言動が大人。知らずに接すると、かなり、生意気。
「おはよう」
ハルに挨拶を返しながら、視界の隅で大きな石が勢い良く迫ってきたのが見えて、ただの投影だと分かっていても、条件反射で身をよじって避けた。当たらない、痛くはない、と言っても、目覚めてすぐゴツゴツした重そうな物が自分へ向かってくるのは、本能的に怖い。
「ただの映像にしてもヤなもんだよぉ寝起きのこういうの…ね、ほんとうに、これ、ハルのじゃないの?」
3Dの投影映像は莉子が起きると薄くなってゆく。今朝も、ベッドから莉子が立ち上がる頃には、跡形もなくなって、元の部屋に戻った。
「僕、あんな場所、知らないもん。っていうか、日本じゃないよね?」
「…だから、余計に、お前の、そのぉ何て言うか、私じゃ行けないような場所の記憶じゃないかなぁって、思うんだけど…」
「…死んでから行く所ってこと?」
「はっきり言うと、そういうこと…まず、地球上で岩が飛んでくるなんてこと、サイヤ人でもいない限り、ありえないから」
「…サイヤジンって?」
「そこ、重要じゃないわぁ…」
がしがしと頭をかきながら、莉子が肩を落として言う。
「そう?」
「っもう」
答える気がない時のハルの癖で、適当な相槌でやり返された莉子は、そんな一言を返した。
「うける~」
棒読みでそう言うハルを莉子は一睨みして、洗面所へと向かった。
「じゃぁ、誰の?」
いつもはふざけて返すその莉子の問いに、ハルが珍しく少し考えた後はっとしたように答える。
「外の廊下にいる人たちのじゃない?」
鏡越しに、冗談を言っている感じではないハルの表情を見て、莉子は化粧水を顔になじませながら、嫌な顔をする。
「何?それぇ…」
「前、言ったじゃん、玄関にいた親子」
「キモイ。ここで、その親子が、どうして出て…くるの…」
「だから、廊下」
「え?」
「廊下に居るんだよ」
「はぁ?」
「あれ、言ってなかった?」
「聞いてないし。ってか、樋口さんが置いてった緑のヤツ、その親子に効果あったって、ハルが言ってたじゃない」
「効果はあったよ。この部屋に入れなくなったから」
「はぁぁ?」
「あの親子が玄関に居座ってると、どうも莉子の体力を奪う方向でしか、この部屋に入れなかったんだよ、僕。あの親子の片方がふらっと居ないタイミングとか、たまたま二人そろって持ち場から少し離れた所にいる隙を見計らってとか、そういう時ならば、入り込めたんだけど、あいつら戻ってくると弾かれたり追い出されたり。だから、摂れるとこから、力をもらって対抗してたんだ。申し訳ないけど、一番手っ取り早くて効力あるのが莉子から奪う余力というか体力というか…だから、特に、この部屋に住みついて数か月は、莉子の体調がすごく悪かったのって、あいつら親子の所為、つまり、莉子の力を奪ってあの親子に対峙していた僕の所為ってこと」
「まじで…」
「そういうのも、よくよく観察してみて、最近分かったことなんだ…。今だって、僕は、莉子に寄生してるようなもんだしなぁ。何なんだろうなぁ、僕って。莉子に必要ないだろ?僕もここに自縛してる訳でもないのに…だから、樋口さんが置いて行った妙なもの、あれがあっても、僕はここに居られるのかなとか、考えてはみたんだけど…。あ、あれ樋口さんが置いて帰った日から、あの親子は、もう部屋には入れなくなって。外廊下の踊り場辺りにいる。たまに、からまれるけど…今までは、それほど邪魔な存在じゃなかったんだよなぁ」
化粧の下地が出来たところで洗面台から離れて、冷蔵庫の中から昨日の残り物を取り出しレンジへ入れて、ケトルで水を沸かし、トースターにパンを入れてセットする。トレイにマグと皿を置いて、出来上がりを待った。そんな朝食の準備の傍ら、莉子はハルの話を耳にしている。朝からけっこうヘビーな事実ぶち込んできたなぁとか、あの親子のこと思い出してもヤナ感じ薄くなったなぁとか、出来上がったトーストにはちみつを垂らしながら、そんなことを莉子は思っていた。
「今までって?」
「…最近、変にからまれる…」
朝起きてからずっとハルが金魚の糞のように、莉子の後ろを着いて歩く。話の途中だからということなんだろうけれど。出来上がった朝食を持ってローテーブルへ向かうと、それに合わせてハルも動いた。
「どーしたの?今日」
「何?」
「…また自覚なしか…」
だから何がだよぉと、口をとがらせたハルに笑って、莉子は話を戻す。
「お前、妙なオーラ出てんじゃないの?」
「え、そんなんであの親子にからまれてるってこと?…そんなこと言われても、僕に僕のオーラは見えないし」
「そーなの?」
「莉子は自分のオーラとかって見えるわけ?」
「ゆーれい、つまり、超常現象でしょ、お前は。ハルがそうなら、その一種のオーラも見えるのかなぁって」
「ゆーれいだけどさぁ、莉子に憑りついてるって自覚もなかった僕だよ、分かるわけないじゃん。それとこれは別問題」
「やっぱ、憑りつかれてんだ、私…」
「そういうことだよな。莉子の体力とか奪って、成り立ってんのが僕だよ?そういう、霊と生きてる人の関係って、つまり、憑りついてるってこと?」
「あぁ~、また、話が流れてる!」
「…そのまま流されれば良かったのに」
と、笑いながらハルが言う。
「いやいや、踊り場の親子、要注意だよ」
「莉子には見えてないんでしょ?それに、社のお守り買ってたじゃない、あれ、効果あるよ…」
歯切れの悪い語尾に、莉子はふと思ったことを口にする。
「…まさか、ハルにも?」
「…うん、ちょっと…でも、良いと思う」
「でも?良い?」
「憶測でしかないから…」
「何なのよ」
「そろそろだよ」
「?」
お守りの効果について聞いたはずが、ハルが少し曲解した持論をこぼす。
「そろそろ、僕は何処かへ…。そういう意味で、そのお守りで莉子から離れざるおえなくなるんだとしたら、そろそろ…在るべき場所へ、向かうべきなんだ、僕は、きっと…」
そう言ってハルは、あの時に聞こえた『ママの声』を思い出していた。懐かしく、暖かく、何よりも、焦がれるような、郷愁の音色。
食べ終えた莉子がシンクへ食器を下げると、ハルも立ち上がってついて来た。
「莉子、なるべく、なるべく早くその道を探るから、もう少し、ここに居させて…」
ハルの言葉を聞きながら、あのお守りをどうしようかと考えた。守ってもらっていても、ハルに悪影響ならばここには要らないのじゃないのか、と。
「うん、いいよ」
そうだ、あれは、会社のデスクに置いておこう、そう莉子は思い至る。
「そうね、せめて、その親子がいなくなったのを確認してからにしてよね」
『いなくなるにしても』そう続けようとして、急に心がざわめいた。
当たり前だが、ずっとハルが側にいるのもおかしな話で、いつか居なくなってくれないと困る。それなのに、この関係が、ある日突然解消されてしまうもの、そういう実感めいたものがやってきたのが急すぎて。失う関係とか、もう会えなくなってしまう寂しさとか、そこまで考えが至らずにその期限を自ら切ったことに驚いた。けっこうあっさりと言い切ってしまった。その直後に、とても簡単に後悔もやってきた。
マグがつるっとすべってシンクへ当たる。それを、少し背伸びをしたハルが見て「危ないなぁ」とつぶやいた。そのハルのつむじを眺めて、莉子は落としたマグに手を伸ばした。
「そっか、莉子には見えないもんなぁ…」
「その親子?そう、見えない。見たくもない」
「でも、そもそも見えないんだから、僕がいなくても、見えないままってことは存在してないようなもんだから、大丈夫なんじゃない?」
「いやいや、聞いてしまったんだもの、居るって分かってて、見えなくて、でも居るかもしれない、来るかもしれない、ってそれって、すげぇ怖いよ」
「ああ…そう、それも、そうなのか…」
「莉子ってばか?って今思った?」
「…いや」
「間があったよ」
「ない」
「あった」
「あ、莉子、会社行く時間だよ」
「わ、ほんと」
急いで着替えてぎりぎりの時間になっていた。今朝は、ハルと話し込んで時計を見ていない。クローゼットから定番のパンツとカットソーを出して、着替えながら薄手のカーデを持って行くことを考えていると、それまでの話がぷつりと切れた。ハルも着替えの最中はローテーブルの辺りで待っているのが常だ。莉子は、化粧をさっとほどこして、会社で一番にやることと、今日の大まかな予定を思い出して、スケジューリングに集中していた。準備が整って玄関へ大慌てで向かう頃には、すっかりその親子のことは頭から抜けてしまっていた。
「いってらっしゃい」
ハルがリビングから莉子に声をかける。
「いってきまーす。あ、今日、友晴さんと会うと思う」
友晴と会う予定があったことを急に思い出す。そんなことだから、口が滑ってしまった。ハルに知らせるかどうか、もう少し考えてからと思っていたのに。
「ふう~ん」
ハルのそんな返事で我に返る。
「…なんか、ごめん。わざわざ言うべきじゃなかったかも」
「なんで?」
「なんとなく」
「そう。気を付けてね」
「遅くなる、よ」
「は~い。いってらっしゃい」
「じゃぁ」
玄関を閉めてエレベーターに乗り込む。ハルの見えない表情を声から読み解こうとした。でも、ハルじゃないのだから、ハルの心中なんて、本当の所は分からない。それに、自分が友晴と会うことも止められない。だって、誰に対しても、不義理なことはしていない自信も、どこかではあるわけだし。それでも考えてしまう、小さな迷いみたいなものを。
ひとまず、仕事。
莉子は頭を切り替えた。
頭の中、今はお花畑みたいなもんだから、しょうがないし…
そんなことも思った。
笑っちゃうけど、自分も、浮かれてるんだなと思った。
そろそろ、葵にも紹介しても良いかなとか、そんなことも。
友晴から、その日の終業時間の確認の連絡が入ったのが、ちょうど葵とランチを摂っている時だった。
「あ、あの駅の人から?」
スマホを操作する莉子を見て、葵が確信を込めてそう言う。
「あのさ、駅でもそうだったけど、どうして、明言できるわけ?」
「違う?」
「…合ってるけど…」
ふてくされたように言う莉子を、葵は笑う。
「とても、分かりやすいよ」
そう言われて、莉子は肩をすくめて、葵から顔をそむけるようにスマホに目線を戻した。
「りこちゃんかわぃぃ~」
棒読みでそう言いながら、葵がにやにやと笑う。かつ丼を流し込むように食べていなければ、遠目ではそれなりの笑顔に見えるだろうに。そんなことを莉子が思っていると、樋口がやって来て葵の隣に立った。
「樋口さん、珍しい」
「おつかれさま」
樋口が来ることを知っていた様子の葵が、そう樋口を迎え入れる。着席する時に葵がポーチを隣に置いていたのはそのためか、と莉子は納得する。
「午前中、会議だったんだよ。僕もたまには社食を食べてみたくって」
「営業の人が食べる機会って少ないでしょうね」
「そうだねぇ、色々だねぇ。おおむね電話で要所だけ出向いて落とすって人もいるし、お昼は戻って来る人もいるし、週に数回愛妻弁当って人も」
「そうなんですね」
「そうだ、莉子さっきの続き。あの駅の人でしょ?」
「蒸し返さなくて良かったのに…」
莉子は照れて、葵を見て言った。
「うわぁ、莉子ちゃんかわいい」
おねえ言葉を吐く樋口に、莉子はひきつった顔を向ける。
「キモイ、樋口さん」
「きっつい、莉子ちゃん」
おどける樋口を見て葵が爆笑している。
「もう」
「ははは。でもさ、莉子のそんな表情、久々。良かったね」
「何も言ってない。それなのに、何のことがどう良いのぉ」
ふくれた頬を葵がつついてくる。それを振り払っていると樋口がまた笑っている。
「僕はさ、莉子ちゃんとは短い付き合いだけど。葵の言ってること、分かるよ。緑の置物の効果かな?僕のおかげ?」
「どうして、樋口さんって、そんな…二人そろって、自意識過剰で、お似合いっ」
「口が悪いねぇ、莉子ちゃん」
「そんな所も、かわいいでしょぉ」
葵がずっと笑っている。
「…分かった、ごめんなさい、もう、いたたまれないから、これくらいで許してちょうだい、無理。もう、ムリ」
最近こういうことつぶやく機会が増えたなぁと、弱った心で考える。
その様子を見て、二人がまた吹き出すように笑った。
「樋口さん、早く食べないと、昼休み終わるよ」
「大丈夫、僕、早食いだから。営業の鉄則ね」
「そんな規則ない」
「莉子もまだ残ってるじゃない」
「いいの、私は。胸が苦しくて食べらんない」
「うわ、まさかの、乙女発言?」
「ちがうっ」
語意を強めてそう言ったところで、莉子のスマホが着信を告げた。
さっき送ったメッセージの返事が友晴から届いている。タップして見ると、
『今日は、うちにおいで』
と簡素な返事が表示された。その一文に、心臓が鳴る。思わず左手を口にやって、にやつく表情がこれ以上こぼれないように、と、願った。
『じゃ、何か買っておきますよ、駅中の惣菜とか』
照れ隠しのように送ったそれに、
『そうだね、お願いするよ。駅まで迎えに行くから、電車に乗ったら連絡して』
と友晴からすぐに返事が入る。『了解』のふざけたキャラのスタンプを送って顔を上げると、「ごちそうさま」としみじみつぶやく葵と、定食を咀嚼しながら葵にうなずく樋口が、莉子の方を見ている。
「ほんと、もう、からかうのやめて。慣れないことが多くて…つらい」
そう言って莉子は、項垂れた。
デスクに戻って、朝思い浮かべたスケジューリングを頭の中から引っ張り出して気持ちを引き締め、粛々と午後の仕事に勤しんでいると、気づけば定時。いつもは切りの良い所まで仕事を終わらせて帰る莉子も、今日ばかりは気持ちが浮ついて落ち着かない。時計が定時を刻んだ辺りから、指の滑りも悪く、ふっと思い浮かぶのは友晴の顔ばかり。
―今日は、ムリ。
何度目かのそれを心の中でつぶやいた。
今朝持ってきた例のお守りをデスクに片づけて、隣の先輩に簡単な終業報告をして更衣室へ向かった。決心が着くと、驚くほどスムーズに体が動く。
早く会いたい。
それが、正解だった。
何時より素直に真っ直ぐ、友晴と会うことを望んでいる。
その気持ちが、誇らしく、あたたかく、嘘偽りなく、満ちる。
手を伸ばすのさえ躊躇った初デートの時とも、友だちと競い合った青い恋の時とも、どんな意味があるのかさえ分からずに繋がった時とも、流れに押された時とも、比べようがない想いがひたひたと引力で満ちてゆくような感覚。
初めてのことだった。
初めて、誰かとの絆のようなものを想った。
きっと、恋煩いの一種。
そんな風に思ういつもの思考回路を一瞬で笑ってしまうほど、たぶん、心酔しているんだろうと莉子は分かってもいて。
読んでくださって、ありがとうございました。




