32
のぼせていた。
ぬるい湯に浸るように。
強い風が吹く。
身を抜けるように吹いた風に、莉子はただただ驚いた。
部屋の中へ入る空気は、いつでも、少し淀んでいて、どこか外の匂いを漂わせていたというのに。その風は、強く強く刺さるような鋭さで、源流の分からない空気の圧を運んできた。
「…ハル?」
ここ数日、帰宅した部屋にハルがいない。
誰もいない部屋に帰る。つい一年と少し前には、それが当たり前の毎日だったはず、それが。
不自然に吹いた空気の流れに、ハルを探してしまうほど、莉子の毎日は大きく変化していたのだと、つぶやいた自分の声にも気づかされる。
「ハル…」
出てきてほしい。
どこから?
召されたのだとしたら。
このままそっとハルとお別れしてしまうことが、ハルにとって一番の状態に思える。
だけど、納得できずにいる。少しの切なさを秘めて、姿を求めてしまう自分を。
「ハル」
少し声を張って呼びかける。
それに答える声はなく、強い風が莉子を包む。
とたん、ざわざわと足元から這い上がる何か。樋口から受けていた注意が頭の片隅で警笛を鳴らす。
―直観は無視しないでね、莉子ちゃん。ああいう奴らは、自分本位だから。今までが良くても、一瞬で変化して仇となる。だから、少しでも『今までと違う』とか『鳥肌がたった』とか、些細な違和感を持ったら、どんなタイミングでも僕か葵に相談して。絶対に。僕も葵も、過去に後悔を持っている。トラウマのようなそれを、繰り返したくはない。だから、親切やおせっかいだけで言っているわけじゃない。僕たちの我儘のようなものだから。とにかく、遠慮なんてしないで。莉子ちゃんの直観で良いから、何か嫌な感じがしたら、間違いでも勘違いでも良いから、その判断は僕らでするから、連絡、絶対に、ちょうだいね。
今までの莉子ならば、それをまるっと無視していただろう。
頼るということが悪行に思える。ただの甘えに思える。だけど、〝言うことを聞かない〝知人友人に数えられるのも、すごく居心地が悪い。何より素直に、樋口の言葉に従うことが正解だと、じわりと響く警鐘が莉子を後押しする。
『葵、樋口さん。何か変、だと思う』
三人のトークにテキストを打ち込んだ。
通話の方が良かったかどうか、少し迷う。数分待って返事がなければ、携帯へ連絡を取ろうと考える。
その程度の、ほんの少しの、妙な気配はあったけれど…。
つい先ほどまでの、うねるような空気の圧がふっと消えた途端、莉子は弱気になってゆく。
既読がつく前に…やっぱり…
自分が送ったトークを弾いて、削除を押そうとした時、スマホが震えて着信を告げた。
「早っ」
「莉子!えらい」
「えらい?」
「しょーじき、あんたが素直に連絡よこすと思ってなかったから」
「はいはい」
その葵の言葉の後ろで、樋口がスマホをどうにかして奪い取ろうとしている。その喧騒を葵の話の合間で聞き取ると、樋口が莉子の所在を早く聞き出そうとしているのが分かった。
「樋口さーん、自宅にいるよ!」
大声でスマホへ叫ぶと、「こらぁ」と葵の声が遠のいた。
「あ、莉子ちゃん、そのままそこに居て。今から行っても良い?」
「というか、行くけどね!待っててぇ」
樋口の後ろから叫ぶ一方的な葵の言葉の後で、通話が切れる。
その後、想像よりもずっと簡単に、樋口と葵がやって来た。
仲良く二人で過ごしていたところ申し訳ないと言うと、樋口と葵はお互いを見て少し笑ったまま、莉子へと顔を戻して告げる。
「実は、先週の土曜日から一緒に住んでるの」
「…あぁ」
「だから、一緒にいて当然」
「あぁ…」
「言ってなかったのは、莉子、楽しそうだったし、それに、詳しく教えてくれないし」
「…あぁ」
「何、納得してんのよ」
「ものすっごく、なるほどって思ってんの。返す言葉もないです」
自分のことだけ聞き出されてお終いってのは、道理が通さないだろう。例え、葵が打ち明けていたとしても、自分がその話に乗っかって、友晴のことをゲロっていたとも思えない。
「しかも、ここまで徒歩圏」
「まじでっなんで?」
「たまたま、ね。で、大丈夫?」
「あ、そうだ。ほんと、ごめんね。トーク、消そうとしてたとこに葵から着信があって。取り消す隙もなく、この状態」
取り消すタイミングはあった。もう一度、テキストを送れば良かっただけ。それをしなかったということは、樋口の言葉に煽られて、少し弱気になっていたのがうかがえる。
「良いのよ、何なら泊まってくし」
「二人分の布団とかないよ」
「良いのよ、樋口は帰ってもらうから」
「それじゃ、意味ないじゃん、葵じゃ…」
「葵が残るのなら当然、僕も残るよ」
勝手に進む話にしびれを切らして、樋口がそんなことを言う。
「っとそれより、連絡もらって良かった。変な空気が充満してるよ、莉子ちゃん。この部屋で何があった?」
樋口は部屋に入った後、やたらと顔の前で何かを払うような仕草を続けている。その手には小さな緑色の小物がにぎられているようで、それを見て莉子は苦笑した。
「…さっき、風が吹いたってだけなんだけど…」
「風?」
葵が不思議そうな顔をする。
「そう」
やっぱり、他人へ説明したとたん、どうでも良いことに思えてきて、莉子は口を閉ざした。
「それって、この状態で?」
樋口が、部屋の窓と戸を指差してそう言う。戸は閉まっているし、玄関にカギはかかっている、通気口から風が入るとしたらもっと強風が吹き荒れているような荒天の日に限る。樋口はそれを指して言っているのだろうと莉子は思う。
「そう、この状態」
「…説明する気、ある?」
葵が目を細めて莉子を見る。
「ごめん…うまく、説明できないんだけど…なんか、突風が吹いて。窓も戸も閉まってて、なのに流れた空気の感じが…その時の感じが、気持ち悪くて。その感覚が、少しぞっとして、それで…思わず、連絡しちゃって。なんか、ほんとごめん、私もよく分かんなくて」
「莉子ちゃん、僕たちに言ってないことあるでしょ?」
それはハルのことだろう。
何とは知らないが、樋口が聞き出したいことがあるとしたら、ハルのことしか思い浮かばない。
「…そりゃぁ、山ほど」
「そういうことじゃなくって」
葵が鼻で笑う。
葵と樋口の顔を交互に見上げて、莉子は深くため息を吐き出す。
「あのさ、私、オカルトって、信じてなかったし、むしろ今でも嫌い」
そう言って莉子は、二人に冷蔵庫から取り出したビールを差し出し、自分は早々にそれを一口飲んで、ローテーブルへと向かった。続いて座った二人が、プルタブを起こして、「いただきます」と口をつける。
一息着いた後で、二人に見つめられて、莉子はぽつぽつと話し始めた。
一年と少し前のハルとの出会いからこれまでのことを。
声に出して話すと、やはり、説明に寄ったどうでも良い薄い物語、そう莉子の耳には届いた。
少しのツッコミと質問を挟みながら、そんな話を、樋口と葵は聞いて。
どちらかと言うと、確信を持って聞いている様子の二人に、莉子は不思議な印象を持つ。
粗方話し終えた頃合いで立ち上がった葵が、三人分のビールを抱えて冷蔵庫から戻って来て、それぞれの前に置く。それを眺めながら、莉子はため息と共に口を開いた。
「あのさ、こんなこと、あんな話の後に、私が言うのもなんだけど…」
残っていたビールを煽るように飲んで、莉子は自分の手を握った。そして、その手を開いて、それぞれに握りしめながら、上目使いに二人を見た。
「二人とも、人の話、信用しすぎ。お人好しすぎ」
それを聞いて、樋口も葵も、ひきつけを起こしたように笑っている。
「何、二人とも」
「ごめんごめん、おっかしくて」
「緊張感なくて、こっちこそごめんね、莉子ちゃん」
「…あのさ、ほんと、今さらだけど、樋口さん、ちゃんとこの部屋見てくれた?」
「ああ、大丈夫。霧が晴れたから」
「霧?」
「ああ。僕には、忌むべきものは霧の塊に見える。それが蔓延していた。たぶん、あと少しで危なかったと思う」
「…そう」
「私も、こんな時にする質問じゃないけど、友晴さんって、知らないんでしょ?」
「…そう、よ」
「これも、こんな時にって話だけどさ、なんで?」
「…それは…だって…なんか…」
ハルのことを友晴に告げる勇気なんて、これっぽっちも持ち合わせていない。それに、今は蜜月。そんな所に、わざわざ自ら爆弾を落とす人間なんていないんじゃないか、と、莉子は言い訳を重ねるように思った。
「はい、そこまで」
樋口がそう割って入って、莉子は正直ほっとする。
「ああぁ、せっかく良い所だったのに」
莉子とは裏腹に、誘導尋問をうまく運べて悦に入っていたといったところ邪魔をされた葵は、口惜しそうな表情で樋口を睨んでいる。
「そんな話は後で良いだろ、葵」
今日ばかりは、樋口もそれに正面から切り替えしている。こんなパワーバランスの瞬間もあるんだなと、日ごろの二人の様子と違う一面を直に見て、莉子は少し笑ってさえいた。そのせいもあって、自分から言っていた。
「この際、腹割って話すってのも、あり」
莉子の言葉を受けて、葵が「ほらぁ」と得意な表情で樋口に顔を寄せた。
「いやいや、莉子ちゃん。切羽詰ってなくても、他に話すべきことって、今、優先順位上げたら分かるでしょ」
「樋口さんって、頭かたぁ~い」
莉子が間延びした口調でそう言うと、樋口が眉根に力を入れて答えた。
「僕が硬いんじゃなくって、葵と莉子ちゃんが、危機感なさすぎなんだようっ」
そう喚く樋口を、今度は莉子と葵が笑い飛ばした。
この樋口の指摘は、少しもおかしくはない。
この時、もう少し真面目に話すべきだったのかも、そんなことを思うのは、いつもいつも、後の祭りで。
ハルのことも含めて、全て話してさえいれば、もっと…
そんな後悔は先に立たないのが、常で。
この日の三人のやり取りや自分が考えた道筋を、繰り返し思い返す時がやってくることがあるなんて、夢にも思わないでいた。
読んでくださって、ありがとうございます!




