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夏ですねぇ…
あつい。
目に入る、いつもと同じ店やネオンや路地裏の薄汚れたゴミ箱や歩道の敷石や街路樹の連なり、そのどれも、入ってこない。
時々、ゆるんだり、強まったり、そっと動く指の動きが、ずっと気になっている。
友晴と繋いだ手の感覚が、あつく苦しく甘い。
何故か、いたたまれなくなって、逃げを打ってしまう。
その手から逃れようと小さく動くと、すがるように、自然に、少し伸びた手に再びぎゅっと握りしめられる。
強くも弱くもない、その力に、莉子の手が沿うように動くと、友晴はやっと莉子の方へと目を向ける。
「あの角を曲がるんだった?」
「…はい」
莉子は呆れる。自分に、呆れる。
腑抜けたような声が出ていたことに、他の言葉が出てこないことに、友晴と繋いだ手以外に意識が向けられないことに。
少しうつむくように店に入った莉子と先に入った友晴を、スタッフが昨日と同じ席へと案内してくれる。着席した後にその後ろ姿を見ると、昨日も見た人だと分かる。2回目なのに覚えていてこの席に案内してくれたのだろうか、と莉子がぼんやり考えていると、対面に座った友晴がメニューを広げながら声をかけてくる。
「余裕だね」
「何?」
そう返事をして、莉子は友晴の目を反射的に見てしまう。
莉子を見ていた友晴と、しっかりと目線が合ってしまって、心臓が跳ねる。
逃げるようにメニューに視線を落として、選んでいるふりを装って、止まらない心音にどうしようもなく振り回される。
友晴が手を上げて店員を呼び注文を終えると、もう気力は残っていなくて、莉子はそのままテーブルに突っ伏していた。
「観光で疲れた?」
本当にそうは思っていない、友晴の言葉に、莉子は小さくうなずいた。
すると、顔の下敷きになっている手の端に、友晴の両手が伸びる。そっと莉子の手をなでて、頭をなでて、髪をすいて、莉子が身じろいだタイミングで、友晴は莉子の両手の上に自分の手を重ねた。
「…友晴さん、顔、上げらんない」
「かわいいね」
「そんなこと言われると、ますます無理」
「美味しいケーキ、もうすぐ来るよ」
「それは食べたい」
「じゃ、顔上げようか」
「やだ」
「ダダこねないでくれるか」
「やだ、無理」
走り出したい、無茶苦茶なダンスを踊りたい、どうでも良い言葉を叫びたい、そんな気分になっている。きっと、妙な表情を浮かべている。あの社の鐘の前で願った、もう一つのことが、心にくる。
もう、でも、ダメ。
傾いた心が、滑るように加速してゆく。
戒めたはずが、これだ。
莉子は、昼間のカフェで心に決めて、自分でそう決めて、そして落ち込んだ、たった数時間後のこの状況に、笑ってしまう。頑なに拒めば良いだけの話だけれど、もう、無理。
もう、無理だ。
いっそ呪われでもしたら、諦めるか忘れてしまうかできるのかもしれないけれど。
しびれを切らした友晴の両手が、莉子の顔に添えられて、そっと顔を持ち上げた。
仕方なく、そんな様子で体を起こした莉子に、友晴は笑う。
乱れた髪を左右に手で流して、莉子は両肘をついて、顔を手で隠す。
「おでこ、赤くなってるよ」
そんなことを言って、友晴が莉子の両手を顔の前からほどく。突っ伏した時にテーブルに当たっていた場所を、右手でなでた。
「大丈夫、すぐなおるから」
「子供じゃないんだ。こういうのは、案外、残るんだよ」
「三十路ですからね、それも仕方ありません」
「僕なんて、枕の生地の跡が、出社ぎりぎりまで残ってることがあるよ」
「やだ、中年あるある自慢」
そう言って、顔をしかめた莉子に、友晴は笑った。
「戻ったね。照れてるのも見ていたいけど、せっかくだから、顔を見て話したい」
その言葉に、目を泳がせて、莉子はまた手で顔をおおう。
「やだぁ、友晴さん…もう、ほんと、やだ」
「手の隙間から、にやけた顔をした莉子が見える」
名前の呼び方が変わった。わざと、そんなことをしている、友晴のからかいを含んだ情に、莉子は素直に甘えていた。
「もう、ほんと、友晴さん、かんべんしてください」
「三十路とは思えない、照れっぷりだね」
そう言って友晴は、顔の前の莉子の手へ、自分の手を伸ばす。促されるまま手を取られた。向き合って座って、両手を握り合っている中年。もう本当にいたたまれない。
「で、今日は楽しかった?」
「同僚に誘われて行ったんです。元々、そういうのが趣味ってわけじゃないけど、楽しめました。お天気良くて、良すぎて、体力奪われましたけど、葛餅も美味しくて、景観も良くて」
「総本山は京都にあるらしい。昨日、少し調べたんだ」
「へぇ」
「総本山へ一緒に行ってみるのも良いかと思ったんだけれど、それほど興味もなかったんだったな」
「京都には行ってみたいです」
「一緒に行った同僚の趣味ってことかな?」
「同僚…というよりも、その彼氏の…趣味?何だろう、趣味かな」
「あの、駅に来てた男の?」
「そう。一緒に行ったわけではないんです。友晴さんに葛餅買う時に、お土産を彼氏に買ってあげたら喜ぶよって勧めて、それを受け取るために駅に来て、結局、二人はあれからデートってことになったみたいで」
「僕たちと同じだ」
「そういうことを、さらっと言う心臓に憧れます」
そう言って、莉子が突っ伏しそうになった時に、注文したものをトレーに乗せて、先ほどと同じスタッフがやってきた。
さっと手をほどいた友晴に、遅れて莉子も従う。今まであった温もりを、当然のように思ってしまったこの短いやり取りに、驚く。もう一度、さっきまであった手の中に戻りたい、素直にそう思った。
「同僚の彼氏が神社好きっていうのも、珍しい」
「そうですねぇ…好き、というか、あの人、ちょっとオカルト寄りで」
「ほう?」
「…私には、分かりませんけど。霊感が強いらしくて」
「その人に勧められたの?」
「そう…いうこと、ですね」
「自分は行かないのに、二人を行かせる理由があるってことかな?」
勘の良い友晴だからそう言うのか、話の流れとしてのものか、それを考えて莉子は答えあぐねる。
「…彼にはあるってことですかねぇ…」
「…ふぅ~ん。意味深だな」
そう言って、コーヒーゼリーを一口食べて「うまい」と友晴が言う。莉子も手元のプレートを見て、三種の盛り合わせのどれから食べようかと少しばかり考えて、ガトーショコラを口に運んだ。
「友晴さんは、引っ越しいつだったんです?」
「4月からこっちに住んでるんだが、まだダラダラやっててね」
「じゃ、実質一か月前から新しい所に?」
「そう。言ってなくて…悪いことをした、言っておくべき…だった、か」
自問自答のようにつぶやいた友晴に、莉子は首を横に振って答える。
「三回忌も引っ越しも、時期が重なってたってことですよね?私の立ち入る所じゃない、そう思います」
「…なんか、悪いね…」
気まずそうな顔を莉子へと向けて、友晴が答えた。
実際、この一か月は、ほとんど顔を合わせていない。近頃の友晴は、最初の印象からずいぶんと変わって、有体に言うと明るくなったと思う。だから、三回忌があることも知っていた莉子は、昨日の映画が、友晴と会う最後になるのかもしれない、と頭の片隅で思ってさえいた。
「…いえ。のんびり、やってください」
「そうだな、時間はたっぷりあると言えば、あるのか…」
「無理やり、剥ぎ取るよりも、納得してってことです」
「…莉子ちゃんは、時々、核心を突く」
「出すぎましたか…」
「いや、ありがとう」
コーヒーゼリーを食べ終えて、紅茶を呑み込んで、友晴は莉子へ視線を戻して、
「ありがとう、莉子」
と、不器用に微笑んでそう言った。
ありがとうございました。




