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梅雨ですねぇ。
―親父をよろしく。
左手をデニムの後ろポケットに突っこんで、右手を玄関の壁に軽く置いて、左足を後ろにクロスして、『いってらっしゃい、気を付けて』の後にそんなことを言うハルに、胸をぎゅっと握りしめられたような足を縫いとめられたような背中を押されたような、そんな気配を莉子は感じてしまった。
ゴールデンウィークのレイトショーは、想像したよりも混雑していた。
それも、想定内なのかどうか、待ち合わせからこっちの友晴の表情は明るい。
その友晴の顔を見上げて、珍しく玄関まで出てきたハルの見送りのセリフを、ふと思い出してしまった。
見終わった映画の感想を生き生きと話す友晴、見上げたその横顔は莉子の目線に気づいて、莉子を穏やかに見下ろすものに変わる。
偶然好きなキャラが同じだと分かり、そのシリーズの数年ぶりの映画だから、莉子も友晴も楽しみにしていた今日この日。アクションが派手なハリウッド映画、誰もが知っているそれに、二人で見入って。かっこよかったね、主役の人ってもう50歳だって、あれってスタントかな、あのシーンの意味って分かった?…そんな、共通の話題が、心地良く莉子に降ってくる。
昨日の夜にハルに連れて行かれた工業地帯の港の夜景をふと思い出す。
あの時の感じに似ている。
質問の答えを促すように顔を覗き込んだ友晴に適当に答えて、莉子はこの心地良さを甘受する。
今日はとりわけ日差しのきつい一日だった。にもかかわらず、昼間の初夏を思わせる日差しが、夜になると消えてしまって、季節を戻してしまっている。
花冷え、そんな言葉が頭をよぎる。もうとっくに花は散ってしまったのに。
桜並木の薄いピンクの花びらが、ちらちらと落ちる風景が莉子の頭の中で浮かんでは消える。
始まったばかりの連休は、明日からのまばらに入った予定と部屋の雑事で終わるだろう。明日は、午前中から葵と近場の観光地に行く予定だ。明日は遅れないように早起きを目指そうかな、朝ご飯ってあったっけ…。
友晴の話が半分、考え事が半分、居心地は良いのに、今日は話に集中できないでいる。
莉子は隣を歩く友晴を見上げる。
「友晴さん、お茶でも飲んで帰りませんか?」
明日の朝の心配をしていたにもかかわらず、自分の口から出た誘い文句に、莉子は莉子であきれてしまう。このまま解散して、やっと23時台に帰宅できるかどうかという時間だ。
「もちろん。喜んで」
莉子からの誘いに、友晴はそう答えながら、視線で周囲を探ってスマホを取り出した。
「この近くにする?最寄駅の近くにする?」
マップを立ち上げてカフェの検索をしながら友晴が莉子へと問いかける。
「えっと。最寄駅だと、友晴さん、一度降りないといけないでしょう?」
「ああ、まだ、言ってなかったっけ。引っ越したんだよ。下車駅一緒になったよ」
言ったつもりでいた友晴は、莉子の問いかけに少し戸惑う。
そうだ、『引っ越す』ような話はしたけれど、具体的なことは何も知らせていなかった、と友晴は思い出す。
わざわざ話題にするには重く、近い友人にすら言っていないにも関わらず莉子へ話す理由も見当たらず、何かのついでに話すので良いだろうと、そんな風に考えたことを確かに記憶している。
「そうなんですか。あ、今日の家の荷物の整理って、その引っ越しにまつわる?」
ハルの三回忌の後、会う機会が減っている。映画の話はその前から出ていたから、なんとか実現できたというところか、と、莉子は考える。そう考えてしまったところで、気持ちが少しずつ沈んでゆくのを感じて、莉子は少し頭を振って息を吐き出した。
「そう。来月から不動産業者を通じて、家を売りに出す。今は1DKの部屋に住んでいるよ」
「へぇ、じゃぁ、引っ越しそばでも食べます?」
夕食は済ませていたが、そばくらいならなんとか付き合えそうだと、莉子はそんな提案をしてみた。
「それも良いけれど。僕のお腹が受け付けないから、お茶の方がうれしいな」
「実は、私も」
そう言って笑った莉子に、友晴も口角を上げる。
「甘いものを食べて帰るってのは、どう?」
「賛成。じゃ、駅の近くに行ってみたい小さなパティスリーがあるんですが、そこでも?」
場所を聞くと降りるホームの反対側のようだ。莉子の部屋からは近い場所にあるようなので、友晴はそこへ行くことにうなずく。
「もちろん。この時間でも開いてるの?」
「深夜2時まで開いてるんです。ケーキ屋さんにしては珍しいでしょ。でも、そこ、お酒もあって、夜はおつまみ程度の食事も提供してるバルっぽくなるんです。バーにはちょっと敷居が高くて入りにくい女性客でも、おひとり様でお酒一杯飲んで帰れるかわいいお店って感じで。そうは言っても、一人で入るのも、ためらわれて…一度、入ってみたかったんです」
「へぇ、それは楽しみだな」
「あ、女性向きなお店だし、あれです?入りにくい?」
「僕、そういうの気にしないから大丈夫だよ。女性がいないと入りにくいようなお店なら、なおさら、莉子ちゃんと一緒の時に連れて行ってもらった方がありがたいくらいだよ」
「友晴さんって、そういうことを、さらっと言えるの、尊敬します」
「そう?」
不思議そうに返事をする友晴に、莉子は思う。自覚はないのかもしれない、と。
―うれしいんですよ。
そう口に出してみる度胸がない。莉子は、友晴を見上げて少し微笑む努力をしてみる。
「何?」
不思議そうな表情を投げて、友晴は不必要になったマップを閉じてスマホをポケットへと落とし入れた。
電車の乗り換えもスムーズで、まばらに空いている店内の窓側へ案内されたのは、思ったよりも早い時間だった。
ゆったりと座れるソファー席で、初めての店とは思えないほど、くつろぐことができる。後日一人で入れそうだ、莉子はそんなことを思っていた。友晴がビールのカクテルとチーズを注文して、莉子はケーキとリキュールの入ったコーヒーを選んだ。お店に合ったインストの音楽が小さめに流れているのも心地よく、少しアルコールが入って、ますます莉子は弛緩していく。
「なんだか、映画の後って、自宅に帰りがたくないです?」
「そう?」
「見たり聞いたりしたことが一緒。映画を見た後の連帯感って、独特で。映画で気持ちを上にも下にも煽られた分、映画館から外へ出た時のリアリティへのギャップでへこむって言うか、なんと言うか。そのせいで、なんとなく、一人の部屋に帰るのが、なんか、さみしくって」
「それで映画館で見ることが減ったんだ?」
「いえ、そういうわけでは…ないんだけど…。映画館へ足を運ばなくなったのは、ただ単に社会人になって、わざわざ行くっていうのも億劫になっちゃったってとこですね」
カップル率高いですしねぇ…そう続けた莉子に、友晴は茶化すように問いかける。
「仕事人間?」
「いえいえ。ただの無趣味な体力なし自慢です」
「ははは。映画館で見ると、集中して見られるし画質も音も良いし。たまには良いね」
女らしくないセリフを吐き出す莉子を、友晴は気にしていない様子だ。莉子はそんなことにもほっとする。
「そうだ、お引越し、おめでとうございます」
そう言ってコーヒーカップを持ち上げつつも、
「おめでとうって表現、おかしいです…ね?」
と莉子が続けると、友晴は、
「僕にとっては、おめでとうで合ってると思うよ。祝うという意味合いではないけれど、第一歩としては、十分その単語に値すると思う」
少し硬い表情でそう答えた。
「ほら、退院祝いってことだな。病気が完治したわけじゃないけど、手術が成功したり、一旦退院できたりすると『おめでとう』って『良かったね』って往々にして言うだろう。そんな感じだと、思う。だから、僕からは、ありがとう、が答えとして正しいってとこかな」
投げやりには感じない、友晴のその言葉に、莉子は安堵しつつも小さな寂しさを拾った。
―そろそろ、かな。
そう、莉子は感じて。
「じゃあ、改めて、おめでとうございます」
「ありがとう」
―君のおかげだと思う。
友晴も、出せない言葉を心に落した。
友晴と初めて会ったあの墓地で、莉子は必然のように用意された出会いを訝しんだ。
どこかで、警戒してもいた。
終わりが見えるような気がしたのだ。
だから、「退院」ができるほどの回復がみられるこの時期こそ、頃合いのような気がして。
ハルから『親父をよろしく』と、わざわざ言われたことも重なって、それが何かの導きにさえ思える。
そろそろ潮時。
友晴と分かち合うハルとの思い出は、少しずつ薄くなっている。
ハルが成長してしまったのもあって。
友晴の心が、少し癒えたのならば、と。
葵に話せば一笑されるだろう、杞憂の類。
だけどね、関わりたくもないのに関わってきた人たちもいて、それがすごく怖かったんだよ。
目を合わせた記憶もないのに、他人に自分の思ってもいない意図を拾い上げられて、とても怖かったんだよ。
こんな時に思い浮かぶのは、あの剥げかけたマニキュアをまとった、こちらへと延びる手。
だからね、一緒だと思っちゃうんだよ、この人だってって。
私が関わることが、本当は、嫌なんじゃないかって。
もしかしたら、無意識に関わってしまっていて、踏み込んでしまっていて、それがとても迷惑なことなんじゃないかって。
だって、時々、勘違いしそうになるから。
「ごちそうさまでした」
レシートを取り上げるように立ち上がる友晴に、申し訳ない気持ちを抱く。毎回会うたびにご馳走になっていては、会う理由がそれのようで。
「良いんだよ、何度も言うけれど、カウンセラー料とでも思ってくれたんで。僕に申し訳ないと思うならば、家も近所になったことだし、また、夕飯にでも付き合って」
じゃぁ、と手を振って友晴が立ち去る。
莉子の住んでいる場所がこの店から近いことを知っている友晴は、送られるのを嫌がる莉子に、「帰宅したら一報入れてね」とだけ告げて背を向ける。
部屋にいるハルと友晴が莉子の見える所で出会うのを避けているだけなのだが、友晴はどうとらえているのだろうと莉子は思う。
「ごちそうさまです。さようなら」
莉子が声を上げると、友晴は少し振り返って、莉子へと手を振った。
少し息を吐き出し、莉子も友晴へと背を向けて歩く。
ちりちりとした感じがした。
もしかしたら、ハルが近くにいて、これを眺めているのかもしれない。
そう思いついて莉子は、再び小さなため息を漏らしていた。
ありがとうございました。




