21
どうしたの?
大丈夫?
リコ…
スマホを握りしめて震えていた感覚のまま、がばっと布団から起き上がった。
その場所が、自分の部屋のベッドの上で、あの部屋ではないことが分かると、心底ほっとした。
「はぁ…」
あれが夢だったと分かって、がちがちに固まっていた体がほぐれた。手で顔を覆って、そっと腕まで手を下ろす。自然と自分を抱きしめる感じで。
「莉子、大丈夫?」
隣で寝ていたハルが、心配そうに莉子を見ている。それに気づいたのも、声をかけられて、やっと。
「ハル…」
大丈夫、そう続けようとしてできない自分を見つけて。
莉子は、カレンダーに目をやった。
「そっか、一年…」
妙なもので、覚えなくて良いことなのに、体に刻みつけられたように残っている。
「莉子、あのさ、大丈夫?」
いつものふざけた雰囲気は鳴りを潜めて、ハルは再度莉子に問う。
「ごめん、今日は、ちょっと、大丈夫じゃない…」
長身のハルが、そっと莉子へと手を伸ばした。
触れ合わない手を、莉子の頭に沿って何度かなで下ろす。
「…ありがと」
今日ばかりは、莉子も、軽口を返す余裕を持てず、ハルの動きをありがたく受け入れた。
友晴の背は高い。
ハルも当然のように、ぐんぐんと伸びた。
出会って半年ほどで、少年といったところまで成長している。
髪を撫でていた手をそっと合わせて、そこから膨らんだ雲のようなものを、莉子へ向けてハルが投げる。それが、すっと莉子へと染みこむように入ってくる。
「…何?」
「夢見が悪かったんだろ?」
そう言うハルの言葉が、少しずつ遠く聞こえる。
自戒、というか、時々思うことがある。
やりきれないほど心細くて自信がなくなって足元がぐらぐらして、小さなことで一喜一憂してしまって、どうしてもふさぎ込んでしまう、そんな時。
一人だと思う。
そう、自分は一人なのだから、良いんだと、自己暗示にも近い強さで願ってしまう。
それが顕著に表れるようになったのは、今朝の夢で見た出来事の後だ。
一人。だから、誰にも迷惑もかけていない。だから、何かに囚われることなく在れる。
誰にも、影響なんて及ぼしたくなくて。
発したはずのない自分からの何かで、その誰かを傷つけたり導いたり、そんなことに見舞われないように、とにかく、身を潜めていたい。
誰にも、何にも、影も光も与えない、そう在りたい。
責任持てない。だから。
助けて、と同じくらい、近寄らないで、という思いも強くて。
自分の中で相殺されないまま両極の感情に囚われてしまっているのは、間違いなく莉子自身。
助けてほしい、何からかは分からないけれど、自分を苛む感情の原因から。
だけど、無暗に伸ばされる手は、気持ちが悪くて易々とはつかめない。
それでも、助けてほしい、救われたい、ここから、誰か…。
それも、莉子の中の同じ所にある。
一つ、チクリとするだけで、自分は崩壊してしまう。
そんな風に捉えて、怯えてもいた。
壊れたくない、居続けたい、ここに。だけど、怖い。
夢を見て表面化した、深層の感情に翻弄されて、沈みたいような叫びたいような不安定な心の中に、ハルからの白昼夢が沁みてゆく。
風になって空を舞って、雪を縫って山々を巡り、雨を通り抜けて海に出る。カモメをすり抜けて魚影を追いかけ、何処とも知れない島々へ下降し、林を抜けて咲き誇る花にくすぐられ、また、雲間を巡る。
太陽はまぶしい。
一瞬見えた陽を背中に、雲を通り抜け陸へと向かう。
人々の生活が見える。
学校から流れる音楽に気を取られて、目の前の鉄塔を寸でのところでやり過ごす。
避けなくても良いものを、と自嘲するハルの心が莉子にも伝わる。
次の鉄塔を大げさに避けて、また次の鉄塔も、と左右交互に避けて飛び続ける。
時々、鳥がぎょっとしたように、動きを止めてこちらを見る。
突風に驚いてか、野生のものにハルが見えるのかは分からない。
避けるように飛ぶ鳥を横目に、暮れゆく太陽に照らされる街の様子を眺めながら、ゆるやかに飛翔する。
旋回しながら高度を下げた所に、莉子と友晴の姿が映った。
―あれは、いつかの墓参りの後の…
近づきすぎないほどの距離で並んで歩く二人を、ハルは旋回しながら眺めていたようで。
何かの話題に笑った莉子の表情と、それを受けてはにかむ友晴を見て、この記憶の中のハルが少し笑ったような気がした。
突然莉子の方へと近づきザザッと一陣の風を起こして、ハルは高度を上げる。
風に驚いた莉子が、マフラーを手で押さえながら風の行方をなんとなく目で追っている姿が眼下に見える。
それに、また、ハルが笑って答えたような気がした。
すうっと瞼が上がると、微笑むハルが見えた。
「あれ、見てたんだね、ハル」
「ああ、あれね。パパと楽しそうにしてたね。それよりさ、魚影とか、島の絶壁の花とか、すごくない?」
「うん、気持ち良かった。昼間も散歩行けるんだね、ハル」
今更ながら、莉子はハルの実態をよく知らないままだ。
「昼間はさ、莉子にも見えないみたいなんだ」
「へぇ。今のみたいに、私の近くを通ったことあるんだ」
「何度かあるよ。でも、横に立ってみたり、声かけてみたりしたけど、反応ないんだよね」
近頃、ようやく、ハルは自分が他人に見えないと分かってきたようだ。
「あ、時々、ぴりぴりすることがあるような…」
「…そうだねぇ、そう、莉子、たまに、びくって反応することもあるかな。でも、その程度。僕って分かってる感じじゃないね」
「ふーん。なんか用事があるなら、そうと分かる合図とかあると良いかな。あ、でも、ハルと分かったところで、私がハルの事見えないし声も聞こえないから、意味ないのかな…」
出始めから、ハルは早朝にやってきたことを思い出した。それに、外が暗いとはいえ今も莉子の隣にいる。
「ね、朝は大丈夫だよね、こうやって、話すことができるし、見える」
「そうだ。この部屋の中だったら、昼間でも大丈夫な気がする。けど、それやっちゃうと、ダメな気がするんだ」
ハルは何かを考える素振りでそう言う。
「そうなんだ」
「あの男の時は例外だよ。夕方だったし、莉子が危ないっていう感じだから、力が出たというか」
「あ、牛乳かけられた時ね」
「…そうそう」
牛乳と言った時から、薄笑いになったハルが、詳細を思い出したかのように、ゲラゲラと声を上げて笑い始める。
「もうっ」
「だって、あの時の莉子の顔、笑えるんだもん」
「うるさいなぁ」
笑うハルを見ていて、ふと莉子は思いついたことを思いついたまま声に出していた。
「…じゃあ、何かどうしてもって時は、ものすごーくがんばって、私の手をにぎってくれる?」
「昼間に?」
「そう」
「…そんな、どうしてもって用事ができるとは思えないけど…」
「だから、万が一ってこと」
「でも、手を握った後、どうするつもり?」
「なるべく早くこの部屋に帰る」
そう断言した莉子に、半眼でハルは答える。
「レスポンスおそっ!それって、何の解決にもつながらないと思う…。万が一の緊急事態なのに、莉子を探して手を握って、その握ったことを分かってるかどうかも怪しい莉子の帰りを部屋で待っててってこと?なんか、どう考えても、緊急の対応じゃない気がするんだけど…」
「だから、どうしてもって時。私の帰りを待ってられない、夜まで待ってられない、そんな時ね」
すっげーバカにされてるわぁ、そう感じながらも、莉子は強くそう言う。
「りょうかい…」
「だから、ないだろうけど、もしもってこと。どうしてもって、こと。何て言えば良いか分かんないけど…じゃあさ、他に良案ある?」
「はいはい」
「どっちがどっちだか」
子どもにたしなめられている気になって、莉子はそんなことをつぶやいた。
拙い作品、読んでいただいて、ありがとうございます!




