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夜空のハル  作者: 里村
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暗いです!

 それは、一年前の二月の十八日。


 その日、莉子(りこ)(あおい)の部で合同の飲み会があって。

 一週間ほどの差で区切りがついた大きなプロジェクト。

 祭りの後のような()いだ空気が残っていた。

 次のプロジェクトはそれぞれ始まっているが、まだウォーミングアップ中、たまたま居合わせた数人で「週末に久々にどう?」程度の話が、部署長同士が同期で飲み仲間というのもあって「どうせなら部署全員に声かけるか」に変わって、それが他部署にまで前半が抜けた形でゆるりと広まり「誰でも行けるなら参加しても良さそう、出欠は塩見まで」の認識になってから、意外なほどの集客があり、当日は楽しい宴会になった。

 莉子も葵も酒は飲む。呑まれる少し前で、切り上げるかお茶をオーダーできるほどには、経験を積んでいるつもりでいる。だから、半分は部署長たちが払ってくださるという美味しいお酒を楽しんで、二次会は家飲みでチビチビやろうじゃないの、と、二人でその場を十分に楽しんでいた。

 酔うとアッパー系、二人は取り留めもない話をケラケラと笑い合いながら、莉子の当時住んでいたアパートまで帰っていた。

 築二十年は固い四階建てのエレベーターもない建物。

 近隣の大学へ通う住人が多いが、莉子のように学生の頃から就職後も続けて住んでいる人も珍しくはなかった。


 だから、という訳ではないが、どこか安直にとらえていたところもあった。

 

 数か月続く、小さな異変。

 

 何度か、ゴミが荒らされていたり、玄関に小さな汚れが散っていたり、郵便ポストの中に妙ないたずら書きが紛れ込んでいたり、階段を上がる時に視線を感じたような気がしたり…そのどれもが些細(ささい)なことで、莉子へ向けられたものと判別するには自意識過剰にも思えた。ゴミはこのアパートの住人なら誰でも出す場所だし、玄関のシミは汚れた靴で走ると飛び散る程度にも思えるし、いたずら書きは他のポストにも入っているかもしれないし、誰かに見られているかもしれないなんていう第六感を根拠にする話に信憑性(しんぴょうせい)はない。

 気にはなるが些末なことと、仕事に忙殺(ぼうさつ)されて、細切れに忘れて、何かが起きると思い出して、それを繰り返していた。


 莉子が先に階段を上がって。何度も来たことがある葵はそれに続いて。コンビニの買い物袋を二人とも下げていて、ガサガサとビニールのこすれる音とヒールの音とが階段に響いていた。

 2階の踊り場まで薄暗い階段を登って、廊下へと進むとライトの真下を通る。

 そこで右に折れて3つ目のドアが莉子の部屋。


 踊り場に上がると、駆け足で葵が莉子を追い越して振り向いた。

「これ、買ってきたんだ!」

 コンビニの袋から、二人にとっては上物のワインを一本取り出した。それは、いつものテーブルワインの数倍するワインで、葵がそこでサプライズで取り出すのもうなずける。

「うわぁ、奮発したねぇ…」

「もうちょっと、素直に喜びなぁ。さ、飲もう飲もう」

 そこでくるっと回転して部屋のドアの方を向いた葵が「ひっ」と声にならない声を漏らした。

 酔いの回った莉子にはそれが聞こえなかった。

 立ち止まった葵に「何?」と不機嫌そうに近づいて、葵の目線を追って「えっ」と莉子も固まった。


 莉子の部屋の前で、男が倒れていた。


 普通の感じではない。

 もう、一目で死んでいるとピンとくる、そんな生気のない状態で。


 その場から動けない莉子に、葵は我に返る。「当事者は莉子」それを痛感して、葵は救急車と警察に連絡をした。

 この日の宴会で、何年かぶりに再会した樋口の連絡先を聞いていた葵は、頼るように一報を入れた。

 十五分ほどでやってきた救急の人は、葵の説明で上がって行き、途方にくれたように(たたず)む莉子を一瞥して、その男を遠巻きで観察して脈を診て「警察に…」と臨場を求めていた。その少し後で樋口が息を切らしてやってきて、その場を見て周辺をくまなく観察している様子だった。


 警察が来てからが最悪で。


 葵と莉子は、何度も同じ話を繰り返した。というか、繰り返し尋ねられた。

 自分たちの勤め先や勤続年数、ここに住んで何年か、二人は知り合って何年か、今日の飲酒量どこで飲んだか飲んだメンバーは…何時の便に乗ってどうやって帰宅したか買い物に寄ったコンビニの店名まで詳細に話し、その上、翌日も話を聞きに来ると言う。翌日の所在を告げ、連絡先を聞かれ、矢継ぎ早な質問に、答えた。

 どこか第三者の目線で、莉子はその数々の質問に答えていた。

 呼び出された樋口も同様に、質問を繰り返し受けている様子で、莉子は言葉もなかった。

 日常では在りえない状況に、どこか気を飛ばしてしまった莉子は、うんざりして泣きたいような笑いたいような混沌とした気持ちのまま薄く笑ってさえいた。その表情に何を感じ取ったのか怪訝な顔の警官が、疑わしげな顔で莉子を観察する。まずいと思ったそのままのことが起きる。威圧感のある警官は意志を持って質問を繰り返す。莉子さえ知らない答えを持っていて正解が出るまで解放する気はないような、そんな態度に莉子には思えた。

 樋口と葵が少し離れた場所で呆然としているのが目に入って、莉子は再び胸を掴まれたような気持になる。

 何も悪くない、二人が、私のせいでこんな目に遭っている?

 繰り返し問いかけられる『知っている男ではありませんか?』『どこかで見かけたことはありませんか?』『わずかでも良いので考えてください』

 この状況って、巻き込まれたはずで、私は…。

 無い記憶は掘り下がらないというのに、その男のことは、莉子が知っていて当然のように質問を繰り返す目の前の人間のせいで、段々と気持ちが不安定になってゆく。知らないのに知っているような、自分が樋口と葵を巻き込んでしまったかのような、そんな、もやもやとした気持ちが上がってきた。

 と同時に、質問を繰り返す警察に、嫌悪感を抱く。そして、悪意を感じる。

『お友だちも待ってますから、どうか…』

 『どうか』とは、どういうことなのだろうか。

 見知らぬ男の遺体を自分の部屋の前で見つけて、怖いと思った私は、罪深いのだろうか。

 莉子は、敵意すら感じる男の質問にできる限り答えながら、何処かで間違った筋道を修正する分岐を探そうと、焦りのようなものを募らせた。

 その日、葵は莉子を部屋へ誘ってくれて。初めて言葉を交わした樋口がタクシーにも同乗し、送ってくれて。

 様々な嫌疑や誤解を次々に向けられて、酔いも覚め、心を沈ませて、何がなんだか分からないままに、一日が閉じた。


 部屋の中ではなく共有スペースである廊下だったということ、第一発見者の葵が救急車を呼んだこと、それが幸いしたのかどうか、嫌疑が晴れてから警察からの接触は、パタリとなくなった。



 ただ一度、その男の母親が訪ねてきたことがあった。

 大切な一人息子だったという。



 常識のある、優しい子でした。なんであんなことを…ご迷惑をおかけして…でも実家に一緒に居た頃は、こんなことができるような子ではなかったんです。近所の子どもにも人気だったんですよ、ええ。根を詰めて勉強するよりはと、自分でペースを作って…やっていて…本当に優しくて…難関校に合格しましたけど、その受験シーズンでさえ、近所の子供たちと少し遊んでやったりもしていました。お友だちもたくさん…本当にたくさんいて…あの、本当に、あの子を知らないの?どうして、あなたのお部屋の前で…本当に、私の知っているあの子とは思えないんです。どうして、どうしてぇ…勉強のできる優しくかしこい息子が、どうしてあなたのことを…あなたに…執着していたのかしら…。初めてお会いしますけれど、あの子が相手にするような…失礼ですけれど…だって、おかしいでしょう。あの子、女の子には不自由していなかったはずなんです。テニスも中学校から続けていました…国体にも出たんです…毎年チョコレートだってたくさんもらって帰って…お返しが大変ねって笑って…律儀に、そのチョコのお返しをするような、そんな優しい子が…その数年後に、こんなことって…そんなことって…おかしいでしょう、そうでしょう。…もしかして…肩を痛めたのがダメだったのかしら。テニスで挫折したから?でも、でも、近頃は、ようやくその挫折からも立ち直って。…それも、ちゃんと自分で立ち上がる、そういうことができる子、そんな、健気で賢い子が…やっぱり、おかしいでしょう?あなたも、そう思うでしょう?だって、どうして、そんな…元気になったって矢先だったんですよ、やっぱり、どうしても、どうしても、私には…。彼女もできたって、何か月か前の電話では昔のあの子に戻ってきていて…彼女の話をして、今度紹介するよって、明るい声で言ってて…私も喜んでいたんです。…彼女の話をするあの子の声が、とても弾んでいて。…元気になってくれたんだ、立ち直ったんだって思っていました…親ばかですけど、彼女の話をするあの子が微笑ましくって…息子の彼女ってどんな風なんだろうって思っていましたけど…あの子が立ち直った様子に、ただただ、安心していたんです。…あんなに、あんなに、楽しげに笑っていた子が…優しいあの子が…どうして、どうして、どうして、どうして…やはり、警察が見つけていないだけで、うまく隠しただけで…本当は、本当は、息子を誑かしたのは、あなたなんでしょう。だって、なんで自らの命をあなたに捧げるようなやり方で、私の息子は死に急いだの?だって、だって、…おかしい…わよ、そう、おかしいわよ。あの子が…彼女もできて、挫折からも立ち直って、優しく賢いあの子が、そんなことするわけないんだから!あの優しい子が!あなたのせいで!じゃないと、納得がいかないわ、どうして、どうして、私のあの子を奪うような、そんな…そんな、非道なことをするの!あなた、私に恨みでもあるの!それとも、優秀なあの子に逆恨みでもしたの?まさか、振られた腹いせに、まさか、あの子を殺したの?…そう、なの?ああ、そうなのね?やっぱり、そうなのね…殺したのね!そうよ、そうよ、そうじゃないと、おかしいのよ!やっぱり、やっぱりだわ…この、あ…あばずれ!私の息子を返して!あなたが(たぶらか)かしたんだわ、そうに違いないのよ!私には分かるのよ!私には分かるんだからぁ!



 身の底が冷えるような対面だった。


 他人からの悪意が、突き刺さった。声も目も態度も、突き出してくる皺を刻んだ手に施された剥げかけのマニキュアからも、怨念のように莉子へと向けられた思いが溢れて。それが、心にサクッと。


 女の言葉を最後まで聞くまでもなく、逃げるようにドアを閉めて、震える手で葵の番号を押す。業務中なのは承知していて、留守電へ切り替わるのを待った。


「ねぇ、葵…」

 それが精いっぱいだった。


 事情を承知してもらって、会社からは有給休暇を得ていた。

 自分自身の事後処理のための一日にしようと、このアパートから引っ越す前日。朝まで葵のマンションに仮住まいさせてもらって、一日だけ、引っ越す準備で一泊、どうにかがんばったら大丈夫だろうと、やってきた数週間ぶりのこの部屋で、女と会ってしまった。

 間が悪い自分を呪おうか、それとも、何かの選択を間違い続けた結果がこれなのか。

 莉子は、その女の悪意に(さら)されて、心底、不信感が募ってゆく。

 何に対しての不信感なんだろう。

 抱く疑問に答えが出せず、その矛先は両刃(もろは)の剣となって、莉子の心に刺さる。


 背後からは、未だ、女の声が扉越しに低く響いていた。


 すくんで動けない莉子の手の中で、スマホが着信を告げて震える。


「葵、今日も、泊めて…やっぱり、ダメだった…」


 すすり泣くように告げた莉子に、葵は「どうぞ」と軽く請け負った。






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