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夜空のハル  作者: 里村
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 一週間は短い。


 何件か案件を同時進行で進めていると、特にそう感じる。

 もう、(あおい)との約束の日が来てしまった。


 ごろり、と帰宅早々、買い物袋を投げ出してソファーに横になる。

 来客があるから、と、いつもは買わない物を買い過ぎたようだ。2つに分けて詰め込んだものが、ずしりと両肩に荷重をもたらした。プライドを捨てて、おばあちゃんたちが椅子と兼用にしているあのキャリーの購入を、本気で考えようかなと、ふと思う。

「おかえり」

 キャリーの是非と来客までのシミュレーションをしていた莉子に、ハルが声をかける。

「ただいまぁ」

「どうかした?リコ」

 首をハルの方へと向けて莉子は少し目を見張る。

「…背、今朝とちがくない?」

「チガクって何?」

「おかしいって、今朝と比べて背が驚くほど伸びてるよ」

 ちょっとこっち来てよ、とソファーから立ち上がって手招きすると、ハルは素直にやってきて莉子の隣に並ぶ。

 目線が上がった。

 ハルも違和感を持ったようで「ほんと」と言った後、なぜか喜んでいる。

 中途半端に止まってしまった自分の身長を思う。そう言えば、毎年の身体測定で背が伸びているのが分かると、嬉しかった頃があったなと。

 喜ぶハルに笑って、テーブルに置いた買い物袋へと向かう。

「今日は買い過ぎちゃったよ。重くって。もう、帰宅するだけで、げっそり」

「リコは、ダーラダーラしてるもんな、いつも」

「ハルに連れてってもらう夜の空が一番。身も心も軽くて、キラッキラッの夜空でフーラフーラしてるのが、幸せ」

 このところ、ハルに連れ出されてほぼ毎日夜空へ出かけている。行先は様々で、それがまた楽しい。慣れると一人でも動ける、重力に左右されない空間は、解放感が居心地良く、白昼夢のように心に残った。

「…リコ、あれ楽しい?」

「そうね、反動がつらいけど、あれは、楽しくって幸せ。はぁ、そんなことよりも、準備しないと…」

 そう言って莉子は、買い物袋の中に手を突っ込んで、いつもより奮発(ふんぱつ)した栄養補助飲料を取り出して、ぐびぐびと飲んだ。

「それ?」

「お薬」

「リコ、風邪?」

「ううん、今日は来客があるから、色々と準備しなくちゃいけないの。飲んだって気分が欲しいだけかな」

「ふ~ん」

「そうそう。今日この後でお友だちが二人来るんだけど…」

「…そっか」

「そう。今日は手料理作らなくちゃいけないらしくて、気合を入れるために飲んでるの。効果がすごくあるってもんでもないけど。…さ、がんばろう」

 そう言って、料理の準備を始めた莉子をハルは見つめる。

「僕、じゃあ、出かけるね…」

 近頃ハルは小さなことで一喜一憂する。馴染んで素地が出ているからか、それとも他の理由があるのか、莉子には判別がつかない。

「うん…どうかした?」

「…だって、今日も、散歩、行けると思ってたからさ」

 ハルは夜空へ出かけることを『散歩』と言う。

 莉子からは、ハルの背中しか見えない。

 ついこの前まで、こんな時は、見下ろすと小さなつむじが見えていたのに。

 ハルの顔がのぞき込める位置へと移動して、ハルの目を見つめて、莉子は言い聞かせるように告げる。

「お客さん来ること言ってなかったね。ごめん。でも、帰ったらさ、連れてってよ。明日から休みだから、今日は夜更かししても大丈夫だよ」

「よし!」

 莉子の言葉に、ハルは弾けるように顔を上げて笑う。

 背が伸びても、体つきが変わっても、ハルの核の部分はあの小さなハルのままだと莉子は感じる。

「うん。行こう。約束ね」

 ハルの明るい表情を見て、莉子も自ずと微笑んでそう返事をした。



 作り慣れたパスタの下準備ができて、惣菜と切るだけのチーズや練り物を盛り付けた大皿が出来上がった頃、スマホのアプリが着信を告げた。

『昨日は無事家に帰ったのかい?』

 砕けた口調で入ったメッセージに、莉子の頬がゆるんだ。

『子どもじゃないんだから、大丈夫ですよ』

『そう、子どもじゃないから、心配もするんだよ』

『どちらにしても、通い慣れた道ですから』

『無事でなにより』


 昨日、最寄駅の改札を通ったところで、後ろから腕を軽く引かれた。驚いて目を向けると、笑顔を浮かべた友晴が立っていた。

 リゾットを食べて以来、友晴から毎日のようにメッセージが届いた。あの翌日は『昨日はありがとう』、その数日後に『体調は良くなった?』、その翌日は『今週末は出張で東北へ行く』、週を開けて『お土産があるから』と駅中のカフェで待ち合わせをして会って。

 それでも、偶然駅で会うことは今まではなかった。

 往復のタイミングも業態も違って。

 その友晴が莉子に気づいて、そんな風に会えたことに、驚きと喜びを感じた。

「食事はまだ?」そう言う友晴へうなずくと、「じゃあ行こうか」と、ごく自然にあのリゾットの店へと向かって。他愛もない、本当に何事もない会話と食事を楽しんで、店の前で別れたのが、昨日。友晴はその後のことを心配していたのだろうと莉子は思った。


『ご心配、ありがとうございます』

『今日はもう帰った?』

『はい。今夜は同僚が遊びに来る予定で、その準備中』

 そう打って時間を確認すると、昨日、友晴と駅で会った時間帯だと分かる。その意図するところが理解できて、返したメッセージが味気ないことにも思い至る。

『そうか。じゃあ、また』

 テキストだけを見ていても、友晴の落胆が莉子には見えた気がした。

『明日は?』

 そう何気なく送ってしまった後、莉子は少し後悔した。もしかしたら、そういうことではないのかもしれない、と。

『明日も仕事だけど、夕方には終わると思う。その頃、連絡しても良いかい?』

 躊躇なく返ってきた友晴のメッセージを読んで、莉子が気を回したところと友晴が考えたことが、過不足なくぴたりと合っている気がした。

 そんな小さなことを嬉しく思う。

『待ってます』

『じゃあ、また、明日』

 友晴からの『明日』の文字を見つめていると、チャイムが鳴った。

 無自覚に、メッセージを眺め続けていたことに、その時莉子は気づいて。

 現実へ戻るため少し目を閉じて息を吐き出した。

 葵からメッセージを受けた時間を確認して、そのチャイムを鳴らしたのが葵と樋口だろうと判断し、スマホをそっとテーブルへ置いた。



 一番の気がかりは、樋口、だった。

 樋口の行動や言動は、莉子の知らないことを知っている人間のそれで、少しばかり苦手に思う。悪い人ではない、それは、葵が心を寄せていることでも分かる。そういう頭で考える部分ではなく、莉子の感情が樋口をやんわりと拒否してくる。

 ハルのことを伝えていなくても、その存在を危惧(きぐ)して注意を喚起(かんき)してくる。

 ハルは、莉子にとって、現実で、ぬくもりでもあり。

 だから。いっそう。ハルを愛おしく思うほどに。

 散歩を一緒に楽しんでいるだけの存在に、悪意のある言動を取る樋口を、とても不快に思った。そう思う自分を、間違っているとは、微塵も思えない。

 樋口が、悪い人でもない。ハルが悪人でもない。自分も。

 何かが間違っているのだとしたら、存在の仕方が樋口とハルとでは違う、それだけなんじゃないだろうか。

 自分はあくまでも中間だと、莉子は思って。

 友晴にハルのことを話せば、喜んでくれるのだろうか。それとも、恐れるのだろうか。もしくは、(あわ)てて逃げて行ってしまうのだろうか。


 玄関を開けると、案の定、樋口と葵がそこにいた。

 確認もなくそのドアを開けてしまったことに、莉子は自分で驚く。

 この一年、無様なほど用心をしていたのに。

 これも、この気のゆるみも、ハルと一緒に過ごしたことで得られた安堵のおかげ、そんな風に莉子は感じる。

「いらっしゃい」

「おじゃましま~す」

 葵と樋口がそれぞれ玄関から中へと入る。

 後で入ってきた樋口が、土産だと言って、妙な置物を下駄箱の上の隙間にそっと下ろした。

「何ですか?その…その…緑色のもの」

 見たことがある、それ。

 あの悪霊っぽい男の足元に落ちていた、まさにあれと同じフォルム。

「安産祈願」

 ぎょっとして樋口を見ると、ニヤニヤと悪巧(わるだく)みの成功した顔をしている。

「何で、安産…」

「ちょっと散歩に出かけた神社で見つけてさ。莉子ちゃんも、この鈴のフォルムかわいらしいと思うだろう?今日の手土産にちょうど良いかなぁと思ったんだ。音も、なかなかかわいらしいんだよ、これ」

 樋口が釣り(ひも)を持ち上げるとその緑色のものが左右にぶらんぶらんと動く。すると、陶器がぶつかる控えめな音がコロンコロンと聞えた。

「いやいや。手土産なら、ビールとかつまみとかお菓子とか、適当なものがいっぱいあるでしょう」

「かわいいじゃん、この河童」

「…それ、河童なんですか?」

「そう、かわいい、河童」

「かわいい…?」

 あの悪霊の男でさえ、宇宙人とか何とか言ってなかっただろうか。それをかわいいと言う樋口に悪寒(おかん)を覚える。感じても、無理はないよね⁉と誰かに了承をもらいたい。

「はいはい、そこの二人。飲みに来たんだから、玄関でごちゃごちゃやってないで、中に入ろうよ」

 先にビールやつまみや持ってきた物を片づけにキッチンへ向かった葵が、顔だけ出してそう言う。その声に従って、河童の鈴を一瞥して莉子は、ため息を吐き出しながらキッチンへと向かう。その莉子の様子を見て、樋口が笑っている。

「…樋口さんって、こういう人なんですねぇ」

 言外に、意地の悪さをほのめかした莉子の言葉に、樋口は笑ったまま答える。

「え?ああ、そうそう。僕ねぇ、誰かの意表を突くの、けっこう好きだし、得意なんだ」

「…意表…いたずらって言うんですよ…」

「莉子、そういうことしてる樋口さん、放っておいていいから。こっち来て飲もうよ。ほら、美味しそうな…パスタ?もうちょっとで出来上がりなんじゃないのぉ。作ってぇ。もう、お腹ぺこぺこ」

 プルタブを開けた缶ビールを莉子に手渡して、葵は自分の缶ビールをこつんとそれにあてた。

「おつかれさま~」

 ごくっと一息飲むと、葵は莉子にも飲むようにうながす。

「あれ、僕のは?」

「これ」

「ありがとう。仕事の後の一杯は格別」

「ビールならいつでも美味しそうに飲んでるように見えるけど」

 樋口と葵のやり取りを後目に、莉子はビールをもう一口飲んでコンロの前に立った。沸騰したまま弱火にしていた鍋の中に、塩とショートパスタを投入し中火にしてスマホのタイマーをかける。調理済みのソースの入った鍋を弱火にかけて、冷蔵庫からチーズを取り出す。「今日は何?」とローテーブルの方に座ってテレビを点けた葵が莉子に聞いてきた。「マカロニチーズ」と莉子が答えると「それ好き」と言って葵が樋口に大皿に盛ったチーズを勧めていた。ブクブクと湧き上がる鍋のショートパスタを菜箸(さいばし)でかき混ぜて、ソースの味をみて、ビールを飲んでタイマーが鳴るのを待った。


―悪くない。


 莉子は、つくづくそう思った。

 仕事もあって、一人でつつましく生きて行く程度のことはできて、週末に訪ねてくる友人がいて、夜道の一人歩きを心配してくれる知人がいて、夜空に連れ出してくれるハルがいて…。仕事で悩んだりつまずいたり問題が起きたり失敗したりすることも時にはあるけれど、話を聞いてくれる人が何人かいて、何より夜空でハルと過ごす解放感があれば、些末(さまつ)なことは払拭(ふっしょく)できる。

 ふっと見やったスマホに『明日、二駅ほど離れた場所にあるお店でも良いかな?』と、友晴からのメッセージが入っている。


―今、わりと、幸せ、だよね…。


 莉子は、そんなことを、感じる。

 『大丈夫ですよ』と返事を送って、パスタをソースと絡めていると後ろから声がかかった。


「莉子、良い表情」

 ローテーブルへ出来上がったマカロニチーズを運ぶ。

「何?」

 莉子が問いかけると「さっき、誰にテキスト送ったの?」と、ニヤニヤ笑いを張り付けて葵が言う。

「…出来立てが美味しいから。ほらぁ、さっさと食べて」

 そう返すと、殊更嬉しそうな葵の視線とぶつかる。

 それに眉根を寄せて返しながら、パスタを取り分ける。粉チーズと胡椒をかけて二人に手渡し、改めて三人で乾杯をして家飲みが始まった。


 樋口は取り立てて何も言わない。

 そのまま、その夜は和やかに更けて。


 流れるテレビの話題で盛り上がり、食べ物の好みについての議論が始まり、同僚知人の噂話に花が咲き、樋口と葵ののろけ話に付き合い、またテレビに見入って…。葵たちが持ち込んだアルコールが底をついた辺りで、もう十一時近くになっていた。

 莉子はほっとしていた。

 来客と知っていても、ハルは時々ふらっと部屋へ顔を出すことがある。そんな時、樋口がその方向へと目をやることを、莉子は薄々感じた。そのハルも、2時間ほど出かけたままだ。樋口は、ハルさえこの部屋に居なければ、このまま帰ってくれるような気がする。

 あれだけ飲んでも、少し顔を赤らめる程度の葵とまったく変わらない樋口が、皿をシンクへと運んだり飲み終わった缶や瓶をまとめたりして、片づけを手伝ってくれる。そのおかげで、シンク以外、10分程度でいつもの様子に戻った。

 このまま二人を見送って、今日はもう寝てしまおう。

 そんなことを考えながら莉子は二人の後を玄関へと向かった。

「ありがとう。なんか、心配して来てくれたんだよね?」

「…私は、ただ、莉子とお酒が飲めてご飯が食べられて、楽しかったよ。こっちこそ、ごちそうさま。無茶(むちゃ)ブリしたのに、ありがと」

「僕も、ついでに誘ってもらって、どうも。マカロニチーズ、また食べさせてね」

「あんなので良かったら、また、どうぞ」

「じゃあね、莉子、おやすみ」

「じゃあ」


「樋口さん、お土産もありがとう」


 ふと目についた、すでに玄関に違和感なく居座っている緑の河童が目に入って、莉子がそう言うと、思いついたように樋口もそれに答えた。


「…莉子ちゃん、それ、騙されたと思って、しばらくそこに飾っておいて。それだけは、約束ね。じゃ、おやすみ」


「…おやすみなさい」


 ロックを閉めた後、首だけその緑の河童の方へ向けて、莉子はまた小さくため息を吐いた。

 樋口は、何もやっていない、語っていないようで、自分のやりたかったことは遂行(すいこう)したらしい。

 見覚えのある河童がそれだとは、思いもよらなかったけれど。

 それを見ながら、小さな不安を覚える。

 だけど、今は眠ってしまおう、尋ねても答えないのはお互い様なのだから。

 そう莉子は酔った頭で考えた。


 そう言えば…ハル…何かをハルと話したような…。


 そこまで考えて、莉子は瞼が閉じるのに抗うことができなかった。


 思ったより酔いもまわっていて。



 ベッドへ横になるとすぐ莉子は眠りに落ちてしまった。






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