12
『塩見莉子です。昨日はありがとうございました』
迷ったあげく、翌日の月曜日の夕方、自分のアドレスを添えて送ってしまったメッセージ。
簡潔に済ませたそのテキストを、友晴がどう捉えるのか、莉子は考えないようにして。
昨日は、帰宅した後すぐに出てきたハルから、質問攻めにされた。
お墓でハルの父親と偶然会ったこと。
笑った顔がハルに似ていること。
一緒にパンを食べたこと。
お墓は、ハルのものだということも伝えた。
「…そっか。だから、パパに見えないのかなぁ…」
莉子が言うことを聞いて、咀嚼するようにハルはそう言って。
小さな手を広げたり握ったり落ち着きのない様子ではあったけれど、ふっと莉子へ目線を戻してからは、いつものハルに戻っているように見えた。
子どもの好奇心とか集中力とか、長続きしないんだったっけ。
大人とは重要なことの基準がずれているのかもしれない。
思ったよりも元気なハルからの質問に答えている間に、莉子はソファーで眠ってしまっていた。
帰宅後にハルと話しながら寝てしまったということは、ざっと十二時間は眠っていたことになる。
自分の体力が弱っている。小さな事実の積み上げで、それを自覚する。その原因が、樋口の話によると、ハルだという。
それが、莉子の心をさらに弱らせる。
その悪循環を、考えないようにと、思う自分がいる。
「望んでこうなっている訳ではないんだけれど…」
今後の見通しが、莉子には見えない。
ハルはいつまでいるのだろう?
生きる力が尽きるまで側にいて、その莉子の亡骸を眺めながら、他の人を物色して、拠り所を変えて存在し続けるのだろうか。
自分はどうしたいのだろう?
ハルをいつか怖がったり嫌がったりして、自分の生を全うしたいと願うことがあるのだろうか。それとも、このまま受け入れることの方が、幸せなのだろうか。
帰ると笑顔で迎え入れてくれて、無責任に関われるその存在に助けられていて、自分の方が拠り所としてしまっているんじゃないのだろうか。
慣れてしまうとそれは日常で、樋口が危惧している事柄が、邪推にすぎないような気がしてしまう。
それに、物事には、いくらでも例外がある。
自分とハルとは、珍しくも貴重なその例外に収まってしまうんじゃないだろうか。
そんな都合の良い解釈に、いつも思考は流れた。
ローテーブルに伏せた腕に顔をつっぷして、そんな考えに蓋をして。その腕の力も半年前から比べて弱り、やっともぎ取った休日に朝から空腹を感じないまま、ローテーブルに体を預けて、何かする気力も起きず、起きないことを疑問にも思わず、重い体を持て余しているにもかかわらず、都合の良い夢を見るかのように莉子は思考が傾くのに抗えずにいる。
このまま目を閉じてしまおうか、また朝まで寝ちゃってたりして…、ふっとそんなことを思った時、ローテーブルに置いたスマホが揺れた。
『こんばんは。昨日はこちらこそありがとう。それに、連絡もさっそくもらえて嬉しかったよ。仕事は終わった?』
最後にクエスチョンマークの入ったそのテキストを眺めて、莉子は眉を寄せた。無気力なまま、ローテーブルに左頬をつけて、友晴からのそれに返事を返す。
『私は、先日までの繁忙期の代休で、今日もお休みでした。今日もお仕事ですよね?お疲れ様です』
数分で友晴から返事が返ってきて莉子は驚く。
ちょうど廊下で受け取ったメッセージに返事が来たとかいうことか…。デスクで私用のメッセージのやり取りはしないだろう。営業だから、外回りの途中か何か、と考えて次の返事はないだろうと思っていた。
『だから、夕方に連絡が可能なんだね』
会話をするように入る返信に、莉子は体を起こした。
小さなため息を吐いて、また、返事を打つ。
『そうですね。今日は一日寝てましたから。やっと夕方から起動しました』
『うらやましいな。僕は日帰りの出張で、新幹線の中』
ポンポンと返信が続く理由が分かって、莉子は少しほっとした。移動中、暇を持て余していたのだろう。
『営業職は、そういう移動が大変ですね。事務職からはうらやましくもありますが』
『そういうものかな』
『そういうものです。無い物が良く見えます。隣の芝生とか』
『塩見さんは、起きたばかりだったっけ。まだ部屋にいるの?』
『ええ。休日の惰眠ほど贅沢なものはないですよ』
『出かけないの?』
『いい年の女がとかいう前置詞、頭の中に置いてませんか?今日はこのまま部屋で過ごす予定です』
『夕食は?』
『そうですねぇ、昨日のパンが残ってるんで、それで済ませようかな』
『実は、あと30分ほどで新幹線から乗り換えて帰社予定なんだけど、良かったら夕食を一緒にどうかな?』
新幹線にいるという友晴のメッセージで安心していた莉子は、先ほどから自分が送ったメッセージをざっと見返して、わずかに後悔をした。
そういう関わりが面倒だと思ったのに。だけど、今日、先に連絡を入れたのは自分だ。関わりたくないと言いながら、自分の挙動に矛盾があるんじゃないのか…。
予定もなく家にいて、駅からは10分ほどの場所に住んでいることを友晴はすでに知っているのだし。
『ごめん、また、無理を言ってしまったかな』
それまでの返信速度からすると間が空いてしまって、友晴がそういうメッセージを流してきた。
『あまりにもだらしなく一日を過ごしていたので、これから出かけることに戸惑ってました』
『そう』
友晴からは、短い返事が、すぐに入った。時計を見ると七時前。
友晴が着く頃には、空腹を感じているだろうか。
そう言えば昨日友晴と一緒にランチを食べた後、何も口にしてない。自分に課していたルーチンがこのところ成立していない。これも、ハルの影響なのか、自分の怠惰のせいなのか…そこまで考えて、莉子は友晴の誘いを受けることに意識が傾いた。
『実は、まだ何も食べていなくて。誰かと一緒だと食欲も湧くかもしれません。お言葉に甘えて、ご一緒しても良いですか』
そう返したところ、友晴から連絡が途絶えた。既読は付いている。恐らく、乗換の途中か仕事かと莉子は考え、念のため外出する支度を整えることにした。外へ出れば、食べたいものが目につくかもしれない。体を動かすと空腹を感じるかもしれない。友晴からの誘いが反故になっても、近くのコンビニには行ってみようかと、思えた。
白い厚手のパンツにオリーブ色のニットを合わせ、コートに袖を通して、バッグと財布の中を確認して出かけようとした時にスマホが鳴る。
『返事遅くなってごめん。取引先からの電話に対応してた。乗り換えたから、あと十五分ほどで駅に着く。その近くで良いかな?』
『帰社しなくて良いんですか?』
『この時間に帰社したら、かえって遅くなるから、人が少なくなってからの方が残務がはかどる』
『分かりました。駅へ向かいます』
『着いたら連絡する』
『じゃぁ、駅で』
駅前の広場辺りでつかまるだろうと考えて、莉子は、昨日と同じニット帽と手袋を着けて鏡で軽く確認した後で玄関へ向かう。
「リコ、出かけるの?」
いつからいたのか、背後からハルが呼び止めた。
「ああ、ハル、来たの。ごめん、出かける。ご飯、食べてくるね」
少し考えて、ハルの父親と会うことを、莉子は小さな罪悪感と共に飲み込んだ。
「そっか。昨日の話の続きがしたかったんだけど…」
「良いよ、ご飯食べて、少し買い物もするけど、遅くはならないと思うから。帰ってからね」
「だって、リコ、最近、途中で寝ちゃうんだもん」
「しょうがないよ、なんか、体調悪いんだもの。できる限り、起きてるから、ね」
「…わかったぁ、待ってる…」
「なるべく早く帰るね」
萎れたように落胆を示すハルに、莉子は笑って告げる。
「大丈夫、帰って来るんだから。そんな落ち込まなくても」
「落ち込んでない。怒ってるの」
「怒らなくても…この部屋、私の部屋だから間違いなくここに帰って来るわけだから。たぶん、2時間くらい後には帰るだろうから、さ」
「はぁ~い」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ふてくされたハルは、莉子に背中を見せて手を振った。
それを笑って眺めて、莉子は部屋のドアを閉め、鍵をかけた。幽霊にネグレクトもないよなと思いながら、莉子は部屋で待つハルに心の中でもう一度「いってきます」と告げる。
エレベーターから降りたところで、どこで落ち合うか質問を送ろうとスマホを出すと、友晴から連絡が入った。
『この店に入って待ってる』
メッセージの下にGPSが入っていた。それを立ち上げると、莉子のマンションと駅の中間辺りの店が示されていた。駅へ向かう道から一本入ったところにあるようで、莉子は初めて行くエリアだ。友晴がどんな店を選んだのだろうと、少しの好奇心が莉子の中で持ち上がった。
その店は、マクロビを売りにしたお店のようだった。
店の中を覗くと、女性客が目につく。
友晴が、スーツにビジネスバッグで座っているのが、悪目立ちしていた。
タブレットを見つめたまま、さして周辺を気にしている様子もない。
「お待たせしました」
声をかけて、友晴の向かい側の席へと莉子は回った。コートを椅子の背にかけて、脱いだ帽子と手袋をバッグの中へと入れて、そこへ座る。
「ああ、早かったね。急に誘って悪いね」
見上げるようにそう言って、友晴はタブレットを片づけた。
「いえ。こちらこそ、私の体調を気遣ってくださったんですね」
「このお店のこと?」
「ええ。男性には、少し物足りないんじゃないです?」
「気になっていた店でね。食欲がないっていうのを聞いて、すぐこの店が思い浮かんだんだ。それで、思い切って誘ってみた。体調悪いのに、外食っていうのも、ダメなのか…」
「いえ、食欲がないだけで、何かが悪いっていうことでもないんです。このところ、ずっとダルイというだけで…だから、誘ってもらって良かったです。食べるきっかけになりますし。いつも駅へまっすぐ向かうだけだったから、一本入ったところに、こういうお店があるのも知りませんでしたし」
「ああ、僕も初めて来たんだ。同じ課の女性たちに人気のお店みたいで。こんな機会でもないと、僕も来ないだろうから」
「へぇ。やっぱり、女性はそういうの詳しいですよねぇ。私も、自宅近辺より、会社の周りの飲食店の方が詳しいかも…」
そんな取り留めもない会話を交わしながら、二人でメニューを覗いた。リゾットや薬膳などの定食のメニューが並ぶ。
あれこれと迷いながらメニューを選ぶ二人は、狭い店の小さなテーブルを挟んで、昨日よりも距離を近くしている。
頼んだ料理が運ばれてきて、水で乾杯をして、熱々のリゾットに口をつける。莉子は猫舌だと言って少しずつ食べた。友晴はそれを目を細めて見ていた。どこにでも居そうな、二人連れに見える。食べる間も、食べ終わってからも、友晴も莉子もハルの話題に触れることはなかった。友晴からは、出張先や仕事の話、ランチはどこへ行くとかそういう話が出て。莉子も、自分の休日の過ごし方や好きなアイスの話など、どうでも良いような話が次々と口から出ていった。気づけば、食後のデザートとコーヒーを追加で注文していた。
「こんな時間…あの、帰社しなくて良いんですか?」
「ああ、タブレットから日報送って直帰にしておいた。まれに、それでも帰って来いって指示が出るから念のため気にしてはいたけど…連絡入ってないようだから、今日はこのまま帰る予定だよ」
スマホを確認しながら、友晴はそう答えた。
「…なんか、昨日に引き続き、ご迷惑を…」
「いやいや。誘ったの、僕だし。あなたに連絡した時は、帰社するつもりだったんだよ。それは本当。ここに着いた時点で、その気持ちがなくなってしまったわけだけれども。だらしのない人間と笑ってくれ」
「そんな。長々とお引止めして…」
「引き止めたのは、僕だ。ところで、食べられたね、全部」
「そう言えば…おいしかったです。少し気力も戻ったかなって思います」
「そう、それは良かった」
そう言って、伝票を取って友晴は立ち上がる。
「あの!」
と声をかけるが止まらない。莉子は急いでコートを羽織り、バッグを持って友晴を追うが、すでに会計を終えていた。「自分の分は出します」とお決まりのセリフを言ってみて「今日は良いよ」とそんな答えを返される。莉子は困ったように眉を寄せる。
「そんな迷惑そうな顔しないで。食べて体調を良くして、また、ハルを参ってやってくれたら良いから」
小さくため息を吐いて、莉子は答える。
「…わかりました。ご馳走様でした」
「素直でよろしい」
「でも、本当に。食べやすくて、こんなに…いえ、なんでも。あの、ありがとうございました」
こんなに、箸が進む気持ちの良い食事は、久しぶりだと莉子は思った。楽しいだけで食欲が増すのだとしたら、いつもの自分はよほどツマラナイ食事をしているということか。
自嘲しつつ、莉子は友晴に礼を言った。
大通りに出ていた。ここで、二人は別の方向へと進む。
「また」
友晴は、そう言って手を振る。
送っていくと言われたがそれを莉子が固辞していた。
昨日と同様に『また』と言った友晴の背中を見送って、莉子はマンションへ向かう。
スマホを見ると部屋を出て3時間ほど経っていた。
ハルの様子が気になった。
『怒った』と言っていたのが、ふと頭を過ぎる。
早足で帰宅した部屋の玄関に入り扉を閉めてすぐ、パンっと弾けるような感覚と共に自分の体が壁へと投げつけられた。
莉子は、何が起こったのか分からずに、強く打った右肩に手を当てながら起き上がった。
上げた目線の先に、部屋の中からこちらを睨みつけるハルの姿があった。
「ああ、ハル、ただいま。遅くなってごめんね」
痛いなぁと肩をかばって立ち上がる。
ブーツを脱いで、肩の様子を見ながらコートを抜き取って、ソファーの背にかけようとした。
いつものように、ハルの横を通り過ぎた時も、莉子は気づかなかった。
「リコ!」
叫ぶようにハルが声を上げる。
「どうしたの?」
「どうしたじゃない!」
また、ドンっとはじかれて、莉子はローテーブルに体をぶつけていた。
玄関では、自分がよろけたのだと思い込もうとしていた莉子も、立て続けにそんなことは起きないと、冷えた頭で思う。
テーブルに手を着いて顔だけハルの方へ向けると、案の定、ひどくうろたえているハルが見えた。
「ハル」
そう、静かに莉子が問いかけると、怒った表情から段々と泣きそうに眉を寄せたハルが、叱られたようにうなだれている。
「…ハル、帰るのが遅かったから?」
玄関でぶつけた右肩と、ローテーブルで打った脇の痛みに、気持ちは完全に冷えていた。
ハルを怖いと感じたのは、初めてのことで。
自分では対抗できない、その力を持つ、それがハルなのだと、今は分かる。
「痛いよ、ハル」
莉子は、恐る恐るそう言って、ハルを真っ直ぐ見つめる。
はっとしたように顔を上げて、ハルは莉子を見た。
「ごめん」
顔をくしゃっと歪めて、ハルは泣いている。さっきまでの怒りに感情をコントロールされたハルは、そこにはなかった。
「いいよ、とは言えないけど。本当に痛かったから…」
「ごめん、ごめんなさいっ」
泣きじゃくり、両手で交互に涙をぬぐうハル。それを見ていると、自分が泣かせているようで、莉子は心に痛みを感じる。
「待ってたんだよね?私が帰るのが遅くて」
「うん。もう、もうね、帰ってこないかと思って。それで…怖かった」
ハルは、溜まっていたものが関を切るように、涙を流している。
「大丈夫、ここ、私の部屋だから、帰るところここしかないから」
「だってだって…パパも…ママも……パパは僕のこと見えないし…、ママはどこにもいないし…、リコもいなくなったらって…思ったら…かえってこなかったらって…思ったら…」
ぽろぽろとハルは涙を流す。
頭を撫でようと手を伸ばしても、そこには伝わってくる感触はない。
見えるのに触れることができない。
変わらず、ハルを抱きしめることができない。
「ねぇ、土曜日みたいに、私を夜空に連れ出してくれる?そうすれば、ハルのことよしよししてあげられるから…」
「良いの?」
がばっと顔を上げて、ハルは莉子を強い視線で見つめる。
「?うん…何か、問題あるの?」
「あのぉ、だってぇ、リコ、ちょっと病気みたいなんでしょ?」
「そうね、最近、体力ないね」
「…僕ね、僕ねぇ、思うんだぁ。それは、僕のせいなんじゃあないかなぁって…」
「そっか。でも、一回くらいなら、大丈夫じゃないの?私も、よく分かんない」
ローテーブルに体を預けて、莉子はそう言った。
出かけている間は、持った。
けど、さっき受けたハルからの攻撃で、体も心も簡単に萎えてしまった。
ただ、土曜日に連れ出された夜空では、体は軽く、心も凪いでいられた。あの浮遊感と解放感をハルと一緒に味わえるのならば、仲直りの一環としてアリなんじゃないかと、漠然とそんなことを莉子は考えていた。
まだ見ぬリスクなど、考えていない。
ただ、あの場所でならば、泣きじゃくるハルを抱きしめて慰めることができる気がする。
傷を負っているのは何も自分だけじゃあない。
ハルも友晴も、できることならばその場所から解放されてほしい。
そう行動することで、自分も救われるような錯覚もあって…。
莉子は、ハルに手を差し出した。




