11
莉子は童顔だ。
初見で年下に『年上』と思われることは、まずない。
さっきとは違う砕けた口調の男に気圧されるように莉子は答える。
「ええ…どうぞ…」
怪訝な表情を浮かべる莉子に少し笑って、莉子の対面の椅子に座る。
マグを一つ莉子へと差し出しながら、男は付け足すように話を続けた。
「あれから、お寺の方と少し話があってね。返事をどう返そうか躊躇しているうちに、あなたは行ってしまった。…気になってね。この周辺にベーカリーは少ないから、イートインできる店で、若い人が好みそうな店舗というと、ここに思い至って。居ればいたで、居なければそういう縁だったんだろうという、ちょっとしたカケのような気持ちで、後を追ったんだ。良かった、ここで合っていたんだな」
そう言って男は、自分のトレーに乗せたパンを一つ噛った。
振り子のように首を縦に何度も動かして話を聞く莉子に、男は少し笑った。
「…おじさんの不意打ちは、若い人には苦手だったかな。そもそも、あなたが誘ったわけだから、そこは許してほしい」
「…あの、改めまして…私、塩見莉子といいます」
相手を、何と呼んで良いのか分からず、莉子はひとまず自己紹介をした。
「僕は、佐々木友晴です。会社員、営業職、三十六歳。コーヒーは毎日3杯は出されるけど、好きなのは紅茶だ。アルコールはだいたい飲める。休みは土日で、おおむね家にいる。趣味は、今は…ないなぁ」
そこまで言って、パンをまた一口かじる。
チーズの乗っているパンとピザとハムチーズ、ウィンナーロールにもチーズがかかっている。莉子と同様に紙袋を持っているところから、いくつかは持ち帰るようだが、全てのパンにチーズが入っている、そんなどうでも良いことに莉子は目を留めていた。
「…お好きなものは、チーズですか?」
そう言う莉子の目線をたどって、友晴は声を上げて笑った。
「本当だ。今、気づいたよ。僕はチーズとパンの組み合わせに弱いんだな」
もぐもぐと口を動かしてパンをほおばる友晴は、墓で見た時よりも、生き生きとして見える。
「…あのぉ、ご予定は?」
「さっきも言ったとおり、寺の用事は済んだし、休みはほぼ家にいるから、大丈夫。スーパーに行くことはあるけれども、その程度」
その言葉に、昨日見た小さな荒れた庭を思い出した。
目の前の人は、あの庭を放置しておけるような雰囲気には見えない。これは初対面の人間に見せる外面といったところか、そう考えて莉子は友晴の言葉に続いた。
「先ほどは、失礼しました。なんか、ここまで足を運んでいただくほどのこともない…というか、私のただのあの場での思いつきに、付き合っていただいて…なんか、申し訳ないです」
「正直、驚いた。さっきは、何だか動転したよ。だけど、言っていただろう、踏ん切りとかなんとか。僕も、きっかけめいたものがあったら良いのにと、漠然と望んでいたんだなと、君と話したあの一時で、思うところがあったんだ。これを逃したら、次がなかなかやって来ないような、そんな気が、少し、した」
「…きっかけ?」
「塩見さんは、ハルの知り合いだと言う。僕の知らないハルをあなたは知っている。そのことに、どこか安心して。生きているハルのことがどんどん遠くに思える。誰かと話をしたくても、ハルを知っている共通の知人は少なくてね。知っていても、僕を悲痛そうに見る人の方が多いんだよ。僕はそれを知っていながら、そこに逃げているところもあって。そんな状況に甘んじている、流されている。…きっかけがなかなかつかめないでいたけれど。…塩見さん、あなたの話すハルは、なんだか生き生きしていてね…」
そう言って、友晴は目を伏せて紅茶の入ったマグに口をつけた。
「…なんだか…すみません」
部屋に居るハルは、莉子にとって存在している、と思っている。
だから、その友晴の直感は当たりだ。
だけど、だけど。
ハズレだらけのくじの入った箱を前に偽物の赤くじを握っているような、どこかズルをしているような、そんな気分になる。悪いことをしているつもりはないのだけど、どこか気まずさを感じる。
「いや、そういう意味じゃない。こんな言い方…誤解しないでほしいけれど…死んでしまった人のことを笑って話せそうだと思ったんだ…塩見さんとなら」
友晴はあえて『死んでしまった人』と、言う。
自分と距離を取りたくて取れない、そんな友晴の心情を、莉子は直感のように感じる。
「えっと、佐々木さん?…私、ハルのことで、ひょっとして失礼な話をしてしまったんでしょうか」
故人を弔いに墓に参ったという体裁から浮いてしまっていたのか?と、莉子は不安に思ってそう尋ねた。友晴の話の流れが見えない。不快に思わせる部分があるのならば、指摘されないと莉子は理解しがたいところがある。人の機微に弱いとか疎いとか、そういう両極なことを葵に言われたことを思い出していた。
「いえ、むしろ僕にとっては逆だよ」
友晴は、何かを思い出すように目を泳がせた後、紅茶を少し飲みこんで話を続けた。
「カウンセリングも勧められたけれど、それは、踏み出せなくてね。ハルを知らない人に何を語れば良いのか…空々しいというか。そういうことも必要なのだろうけれど、今の自分には勇気がないんだ。私的なことで饒舌でいられたことが、ない。仕事でならいくらでも口も頭も回るが…このことに関しては特に。さっきも言ったけど、家族を亡くしたということで腫れ物扱いされて…そこに胡坐をかいて。仕事に没頭したように振る舞って…極力、仕事の話しかしないように、皆が気を回してくれてるのも感じるが、それを享受してる辺り、大人気ないんだ…。まだ、どう話して良いか分からない、自分の中のいろんなことが…ある、それが、誰かに吐露するレベルには至っていない…。そうやって自分自身に、長い間、言い訳し続けていた…」
友晴は、区切ったり大きな息を吐き出したりしながらも、一つ一つの言葉を繋げてゆく。友晴の痛みのようなものの所在が、その中で揺れ動いて小さくなったり大きくなったり、形を輪郭を比重を、ふらりふらりと変えている。
「さっき声をかけてもらって、この店で偶然会えたことで、ふと思いついたんだ。よかったら、こういう話をする機会を、また作ってもらえないかな。塩見さん?」
このベーカリーで話し始めて十数分。
寺での話を合わせても1時間も経っていない。
そこで出た意外な提案に、莉子は焦った。
元々、交友を広げるようなスキルを持ち合わせていない。年上の男性との新たな繋がりに、莉子は気を重くした。起きていない事柄を想像して、食事をしたりお茶を飲んだり、その度に、何かを削られて疲れて帰宅する自分が容易に想像できる。ハルを知りたいという小さな好奇心から持ち上がった、莉子にとっては面倒な事態に直面して、軽々しく『調べてみるよ』などと言ってしまった自分に後悔を抱いていた。
コーヒーに口をつけながら、莉子は模範解答を考える。
その短いスパンで思い浮かぶ体裁の良い言い回しは思い浮かばなかった。人と関わりを持つことを極力避けていたことが、こんな所でも悪いように働く。対人スキルを伸ばしていないのは、誰かのせいではなくて、紛れもなく莉子自身が招いたことだ。
「ごめん、図々しいお願いを初対面の君にしてしまった。今の忘れてくれる?」
降りた沈黙を振り払うように、友晴は陽気にそう言う。
友晴は友晴で、自分の発した言葉の通り、初対面のずいぶんと年下に見える女に対して言ってしまった言葉を、段々と理解して驚いてもいた。
何を言っているのだろう、と。
「…あの、私、そもそも交友関係が狭くて、こういう時に気の利いたお断り文句も受け入れ文句も、思いつかなくて、それで戸惑ってました。嫌、というわけではないんですけど…」
「そう。お寺で話しかけられた時は、積極的だなと思ったんだ。若さ故の踏込の良さのような、ね。そういうのがある人なら良いかなと、こちらも、気軽にさっきの誘いをかけてしまったけれど、良いんだ。無理にってわけじゃあない」
気の抜けたように話す友晴に、他意は感じられない。むしろ、断ろうとする莉子を気遣ってさえいるように感じる。
「そうですか…」
「ここでお昼を一緒にしてもらっただけでも、幸運だよ」
友晴は、冗談のようにそう流そうとしていた。
「…私、仕事は事務で、普段はできるだけ人と話さないようにしてるような、感じの悪い人間なんです。聞きたいこととか、申し送りは最小限で…。だから、さっき、お寺で声をかけたのは、私にとってはとても勇気のいることだったんですよ」
「へぇ。ということは、ハルはその君の、最小限フィルターを掻い潜ったわけだ」
「…そう、言われると、そうですねぇ。自然に…気づけば…そんなところだったのかな」
「ハルもなかなか隅に置けないな」
そう友晴がふざけて言うのを見て、莉子は笑った。
「…すみません、なんか、人と話さないとか最小限でとか、上から目線でエラそうですよね。見ず知らずの私に、大切なご家族のお墓参りをさせていただいた方に言うようなことではありませんでした。改めて、ありがとうございました」
「良いんですよ。ハルも喜ぶでしょう。それに、休日のランチが、こんな風に明るい場所で食べられるのも、久々だ。僕にとっては良い気晴らしだ」
「…そう言っていただけると…」
「それほど、かしこまらなくても構わないよ。僕たちは故人の思い出を共有しているだけの間柄だ。年齢や役職なんかは気にしないでくれ」
そう言って二つ目のパンを選ぶ友晴の表情に、莉子は少し安心した。
「…ハルは、あのキャラクター好きでしたよね?」
「そうなんだよ。しつこくてね。子どもって興味がコロコロと変わるものだろう…」
莉子が振った話題は正解だったようで、友晴はその後、ハルとキャラクターとのエピソードを楽しく思い出しながら、莉子に話して聞かせた。
ハルは5歳だったようだ。生きていた頃のハルは、今のハルとは違うのだろうか。親の目線から語られるハルは、莉子の知っているハルと比べて、少し幼く思えた。
邪気のないハルが、友晴の話の中で生きていた。
「ハルに会いたかった…」
ぽそりと出た莉子の本音に、友晴が少し怪訝な表情でうなずく。
「今は、無理だね。いつか、天に召された時には会えるだろうか」
「クリスチャンですか」
「いや。幼稚園はキリスト系だったけど…それに何より、塩見さんも目にしてると思うが、墓は寺にあっただろう」
「あ、ほんと、お寺でした」
そう言って目を合わせて二人は笑った。
少しずつ日が傾いていた。
「冬の一日は短い」
建物の陰に入った窓越しの太陽の光を、笑いながら目で追った莉子に気づいて、友晴がそう言った。
「そうですね。もう、こんな時間」
ふとスマホを見た莉子がそう言うと、友晴もつられてそれを覗き込んだ。
「ほんと。お昼が遅めだったから、余計にそう感じるね」
「このままここで三時のおやつってわけにはいきませんし…私は、そろそろ帰ります」
そう言って立ち上がる莉子に続いて、友晴は二人分のトレーを返却口へと下げてゆく。荷物をまとめた莉子が、戻ってきた友晴の方へと顔を上げると、「塩見さんはどこに住んでるんだい?」と聞いてきた。駅名を告げると、友晴は驚いたような顔をして「人の縁って不思議だな」と言った後、気を取り直したように話を続けた。
「じゃあ、バスで駅まで行って電車に乗り換えるんだね?」
「そう、そのつもりです。今日は、ご一緒していただいて、ありがとうございました。ハルの話が色々と聞けて、楽しかったです」
「僕もバスだから、路線は違うけれど、バス停までは一緒に行っても良いかな」
「ええ」
友晴の横を歩きながら、今日の一日を莉子は思い返していた。
有意義に思えて、体の重さも忘れて、楽しめた時間だったと思った。
バス停までの心地よい沈黙は、初めの話題を思い出させた。
カウンセリングが嫌だからハルを偲ぶ会をしないかというような話があった。断るならばここでわざわざ話題にすることなく別れたいし、次があるのならここでアドレスの交換をすべきなのだろうが一度断ったような流れになっているから莉子から切り出すのはためらわれる。そんなことを考えながら、冬の日で伸びた陰を眺めながら歩いていると、すぐにバス停にたどり着いた。時刻表を二人で確認すると、莉子が乗るバスの方が早く着くようで、それでも一五分ほど待ち時間があった。
「仕事は残業、多いのかい?」
唐突に切り出した友晴の話題に、莉子は諦めのような気持ちで返事をした。
「先週までが繁忙期で休みもなく残業続きだったんですけど、このところ落ち着いています。年末年始の休み前に慌ただしくなりますけれど、それはどの会社もでしょう?」
ここで年度末まで繁忙期が続きますとか答えてしまえば良いのだが、莉子はそれを選ぶことをしなかった。
「そうか」
「営業職だと、年末はお忙しいのではないんですか?急な発注や年末年始の休業中の対応の手配や挨拶回りで、私の勤め先の営業の方々は、十二月は大変そうですよ」
「そうだね。どの業種も似たり寄ったりなんだろうな。…実は、その塩見さんの最寄駅が、僕の勤務地なんだ。朝夜、電車で通っているよ。不思議なものだな。これまではその駅で一度も見かけたことはないのに、ハルと知り合いで、初対面がお寺だ」
「そう、なんですか…実は、今年の2月に引っ越して」
「あ、そうなんだ…。いやぁ、てっきり…。よく、仕事終わりに待ち合わせをして夕食をその周辺で済ませて一緒に帰るようなことがあったから…てっきり…」
おそらく友晴の言う『てっきり』が、ハルと出会ったのが…と続くと覚った莉子は、とり急ぎそれを曖昧に否定する言葉を出した。
「いえ、あの…。それまで住んでいたアパートの更新の前に、良い物件を見つけて、それで、引っ越してきたのが今住んでいるマンションなんです。次の3月でやっと一年になります」
「それだと、ハルと駅で遭遇するのは、実質無理だな…。ああ、学生の頃からの思い出のアパートを、やっと出た口かな?」
いたずらっぽい表情でそう聞いてきた友晴に、莉子はほっとして微笑んで返した。
「ええ…そんな感じです」
「僕も愛着があったから、就職して数年は住んでいたよ。狭くて古くてセキュリティも甘いところ。手狭になって引っ越したのが、二十七歳の頃だったかな」
「偶然ですね。私も、二十七で引っ越しました」
「そうなんだ」
「次の4月で二十九歳になるんですよ、これでも」
「…ああ、4月生まれで引越しが3月だったから、か。そうか、もう少し若く見えるよ」
「童顔なんです。子供の頃から、年下にも居丈高に振る舞われて…」
「それは気の毒だね」
そう言って、友晴は声を出して笑う。
「何がおかしいんですかぁ…」
少し拗ねたような声が出てしまった。
「いやぁ、その塩見さんのガードの堅そうなところ、きっと、子供の頃からのそういう出来事が、核にありそうだなぁって思って」
「…堅そうって。出会って数時間の人に何が分かるんですか」
するっと口をついて出た、そういうじゃれるような発言に、莉子はまた戸惑う。初対面で、数時間で、これほど気楽につっこみを入れてしまうのは、かつてない。隠したいことがあると、自分も随分と装ってしまうのだなぁと、莉子は思う。
「はははは。本当に。出会ってまだ数時間だね。…そうだ、僕の携帯の番号、これ。社用のだけど、今はこれしか持っていないから。SMSかメッセージアプリで繋がるようなら、登録してみてくれないか」
そう言って、折れた名刺を財布から取り出して、友晴は莉子に差し出した。それを見て少し莉子が表情をゆるめたのを見て、友晴は続けた。
「たまたま、財布にその名刺が一枚入っていたのを思い出したんだ。丁度、良かったじゃないか。折れてて申し訳ないけれども」
「しわくちゃって言うんですよ、これ。折れてるとかじゃなくって」
「言うね、塩見さん」
なんでこういう口調が出てしまうんだろうなぁと見上げた先に友晴の笑った顔が見えて、莉子は素直にそれに返した。
その肩越しに、近づくバスが見えた。
「バス、来ました」
「ああ、あっと言う間だ」
そう言って、友晴はバスを見た目線を莉子へと戻した。
「ありがとう」
友晴がそう言う。
それを聞きながら、莉子は、スケジュール帳のカバーに友晴の名刺を挟んでバッグに片づけた。
友晴は、その莉子の挙動を静かに見ていた。
顔を上げて近づいたバスの扉を目で追い、莉子はまた友晴を見上げる。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
そう言って莉子は、バスのステップへと向かう。
「また」
軽くそう言った友晴が、バスの中に入る莉子の背中へ手を挙げた。
莉子はその声に顔だけ向けて小さな会釈を返す。
友晴の見える窓側に座り、友晴を見て少し手をかかげた。
それに『また』と友晴が口を動かすのが見える。
窓越しのそんなやり取りに、何とも言えない気持ちが上がってくるのを感じて。
一つ息を吐き出して、莉子は友晴に小さく小さくうなずいた。




