10
瞼を開けると、真っ暗な部屋の中。
「目を開くとそこは自分の部屋でした…」
誰にともなく莉子はつぶやく。
ハルの気配はない。
ローテーブルの紅茶はすっかり冷えていた。
スマホを見ると夜中を過ぎている。
一瞬に思えた夜の散歩は、案外長かったのか、戻ったところで眠ってしまったのか。夢だと思えば、一番納得できる。そんな出来事だったと莉子は思い返す。
「そう言えば、あの駅からの道が微妙だわ…」
墓に行く約束をハルとしたのを、ふと思い出す。
駅はハルが帰りに通ってくれたから分かった。方向もなんとなく。寺が近くにあったことと住宅地から徒歩圏で駅から遠いというところから、当たりをつけてその墓を見つけなければならない。
あの『夢』のような中で、ハルにした約束は、莉子の中で一つの現実だ。
それを叶えることに前向きでいたい。
立ち上がって莉子は、風呂へ向かった。案の定、冷えてしまっていて、追い炊きのスイッチを入れる。それから冷蔵庫にある古い赤ワインとシナモンスティックを小鍋に入れて温めた。砂糖をカップに入れて湧き上がったそれを注ぐ。冷凍してあったレモンの輪切りを浮かべてローテーブルに戻って、ノートパソコンを立ち上げた。
オンラインのマップを立ち上げて、ハルの見せた駅名を打ち込んでそれを航空写真に切り替えた。縮尺を少し変えてみると、先ほど見たような景色に思えた。莉子は、検索窓に『寺』と打ってみる。思ったよりも少ないことにほっとして、自宅を起点に駅から反対側の寺に絞ってみる。5件ほどヒットしたが、敷地内に墓石があり、真横に幹線道路が走り、敷地に大木があったことから絞って行くと、3件になった。それぞれが徒歩で三十分以上離れているのをルート検索で確認して肩を落としたところで、追い炊き終了の音声が給湯器のスピーカーから流れてきた。風呂に浸かりながらどうするか考えることにして、莉子はノートパソコンを閉じて立ち上がる。
駅から一つ目は近い所を、二つ目は勘と記憶に頼って、それでも違っていたら三件目に行こうか。三つとも見当違いだとお手上げだ。先にヒットした5件の内の残り2件も視野に入れておく必要があるかもしれない。
「けっこう時間かかるかも…」
湯に浸って、防水ケースに入れたスマホで音楽を流して、ノートパソコンで立ち上げたのと同じ地図をアプリで見ながら、莉子はつぶやいた。
元々予定がなかったのはハルに告げた通りだったが…。
のんびりするはずが、一日遠足になるかもしれない道程に、ぬるま湯に物理的に浸っている状態で、少し行く気が失せてしまった。明日の天気予報を見ると、晴れているが今日より寒いという。そうとなったら…とその駅近くの飲食店を物色することにした。仮に正解が得られなくても、好きな系統の飲食店に途中で立ち寄れるなら、モチベーションも上がる。よく見るサイトのアプリを立ち上げて、検索項目を地図のエリアや食事の種類や日曜利用など色々と変えてみて、物色してみた。二番目と三番目の寺の中間付近に見当をつけてみるが、住宅地の中になってしまうので、大通りに面した大型店舗やファストフードの類しかヒットしない。仕方なく範囲を広げてみると、二件気になるお店を見つけた。一つはイートインスペースのある天然酵母を売りにしたベーカリーと、もう一つは女性向けに定食やランチを展開している古民家風の外見の店だった。二つをお気に入りに登録してアプリを閉じた。ここ最近の自分の体力を考慮すると、歩き疲れてタクシーで駅へ戻ってハンバーガーという可能性もなきにしもあらず、そう莉子は推察して、あまり期待しないことにした。
「そうね、最悪は駅のベーカリーでパンを買って帰ろう」
ぬるま湯につかりながら、そんなことを思った。
早朝、莉子はハルに起こされる。
「行くんでしょ⁉」と目を輝かせているそれが目の前にいる。
莉子は寝起きの重い体をゆっくりと起こして、ハルを見る。
「だから、朝早く、起こさないでって」
文句を言いながら立ち上がる莉子の周りを、ハルが嬉しそうに付いてくる。
ようやく出かける準備ができたのはその二時間後。
莉子が玄関へと出るまで、しつこくハルは「行くよね?」とか「行ってくれるんだよね?」とか、念を押すように繰り返した。「あんまりしつこいと、行く気がうせる。やめてよねぇ~」と冗談で莉子が言うと、ハルは真顔になる。それを見て溜飲を下げた莉子が「絶対行くから、大丈夫よ」とショートブーツに足を入れるのを確認して、ハルはホッとした表情で玄関から莉子を見送っていた。
昨日より寒いとの予報は気温の上で、燦々と降り注ぐ陽光の下歩き続ける莉子にとって、段々と汗ばむ陽気となった。羽織ったコートの前をはだけて、中に着ていた薄手のカーディガンの前のボタンも開けていた。毛糸の帽子が暑い。
ショートブーツはスニーカーで良かったかな…。
そんな、取り留めもないことを考えては歩いていた。
神社仏閣などを見て回る趣味もない。
莉子は、イヤフォンから聞こえるお気に入りの音楽と、ゲームアプリでボスキャラを倒しながら、その道を進む。
一件目は、元々ダメ元で立ち寄った寺だ。
駅から近く、二番目の寺の道中にある、念のため行った寺。案の上というか、昨日の寺とは違う。
二件目は、地図と莉子の勘から、三件目よりも可能性が高く、「ここだ」と思って挑んだ寺だ。それも違った。
ここで自分の勘が当てにならないことと、夜に上空から見た感覚で地図を見ながら歩いて探すことが自分には向いていないこととを、莉子は痛感した。
「きっと、三件目だよね」
と口に出してみたものの、闇雲に探して正解が得られるような気がしない。このままでは見つからないのではないのか、そういう不安も上がってくる。『絶対に行く』そう断言した今朝の自分に、莉子はプレッシャーを受けていた。スマホの時計を見て、ランチと寺とどちらを先にするか考えてながら地図アプリを立ち上げてルート検索をしてみると、今いる二番目の寺の前のバス停からそちら方面へ向かうバスが5分ほどで来ることが分かった。莉子はその小さなラッキーに、思いの他救われた。
バスは空いていた。
見知った顔を見た気がした莉子は、座ろうとしたまま中腰で、もう一度後部座席の方を見た。
―ん?
数本の花を持ったラフな服装の男がそこにいた。
誰かに似ているような気がする。
莉子は男の顔を記憶に残して着席する。
窓の外を見ると、トレーナーやセーター一枚で自転車に乗ってどこかへ向かう少年数人を、動き始めたバスが追い越したところだった。しばらくすると公園が近づいて、犬を連れた老人やカップル、三輪車を手にした親と小さな子どもなどが目につく。
この陽気で、公園へやってくる人も多いのだろうと莉子は思った。
そして、ふと見た運転席の近くにあるミラーに映り込んだ、後部座席に座る男の表情が気になる。その公園へと視線が漂っている、男の表情は痛ましい。
明るい外の陽気が届かない男の周辺は、どこか沈んで見えた。
凝視するように見ていた莉子は、男の視線がこちらへ戻ったところで我に返った。その時すでに遅く、男の視線をしっかりととらえてしまって、莉子はあわてて車窓へとそれを戻した。
それからは、ミラーを見ないように意識する必要に迫られた。その男の視線が自分に向けられているような気がしてならない。外の景色に意識を集中しようにも気になって仕方がない。一息吐き出して、スマホの画面をなんとなく操作しながら、男の顔を思い出して、莉子はあることに思い至った。
目が合った瞬間に感じた既視感のようなもの。
誰かに似ていると思った初見。
ふと、ここへ来るきっかけとなった昨日の出来事を思い出した。
後部座席の男と昨夜見たソファーから立ち上がったハルの父親の横顔とハルとが繋がった。
あ、と思った時には、自ずとミラーを見ていた。
男は外を見ていた目線をゆっくりとミラーへと戻すところで、再び莉子と見つめ合うことになっていた。そして、男を見て莉子は確信した。やはり、あの昨日見たハルの父親ではないかと。仕方なく、莉子は頭を軽く下げて、車窓へ視線を動かした。
男は花を持っている。
もしかしたら、墓へと向かうのではないか。その予想が莉子の勘をくすぐる。莉子は男が下車するのを待つことに決めた。
十分ほどすると、下車ランプが灯った。
ルート検索で出た駅ではなかったため迷った後、その男の後に従って降りることにする。
その駅で下車したのは、莉子とその男のみ。
降りた駅は住宅街にあるようで、莉子が帰宅途中だとすると不自然ではないはずだ。ミラーで頭を下げたことを突っ込まれることがあれば、ご近所でしょうか、とそんな感じで切り抜けようと莉子は思っていた。
男が大通りを真っ直ぐ進んでいるのを確認して莉子は、昨日下調べをした寺の場所をルート検索すると、まだ先のようだった。右手に向かうように指示が出てくるが、男は左の方へと迷いなく進んでゆく。
大きな荷物も買い物袋も下げず、花だけ持った男は、明らかに目的があるはず。
莉子はイヤフォンを耳にかけ、スマホの操作をしつつ男の後を歩く。
ちょうどお昼時。
前日調べたベーカリーと飲食店の場所までの距離を調べてみると、ベーカリーの方が近いことが分かる。ベーカリーから駅までの戻り方を調べていると、男が緑地帯のような場所へと曲がったのが見えた。その正面に行くと、オンラインの地図では検索してもヒットしなかった小さな寺がある。
そして、その男が登る階段を見上げて、自分が昨日来た場所がここだと分かった。
莉子は、バスに男と乗り合わせた偶然に感謝した。
そうでなければ、今頃、ハルとの約束を果たせないと途方に暮れていたことだろう。
男は、昨日ハルが莉子に教えた墓標の前で止まった。そして、供えてあった花を取り出し、容器をすすいで新しい花を供えようとしている。このまま、素知らぬ振りで、寺の入口でやり過ごすのは不自然に思えた。
男も、莉子の気配は感じている様子に思える。
公園に座っている老人は同じものを見ているだけで声をかけてくる。
旅先の気安さなどで他人に易々と声をかける人もいる。
だが、莉子は違う。
できる限り、接触する人を少なく済ませるようにして生きてきたのだ。それがこのところ、より顕著になりつつある。自覚はあるが、それを改めるようなこととは考えていない。
莉子は、このまま過ぎてゆく毎日を、享受することで日々をこなしている。
それは幸せでも不幸でもない。莉子の一部なのだから。
男が古い花をくしゅっと新聞紙に包むのを見て、莉子は、なけなしの勇気を振り絞った。そして、出たとこ勝負だと心を決める。不審だろうが、何だろうが、この好機を逃しては知りたいことは知りえないんじゃないかと。
「…あの」
階段を登り近づく莉子をどう思っているのか、男は莉子の声に振り向いた。
「こんにちは」
そう莉子に答える男からは、昨夜の肩を震わせていた悲壮感はない。
「…その…ハルの…ハル君のお父さんですか?」
「…ええ、あなたは?同じバスに乗ってらっしゃいましたよね?」
少し目を見張って、男が莉子へと答える。
「ええ、バスで見かけて、誰かに似てるなと思って、ずいぶんと凝視してしまいました。先ほどは、失礼しました」
見上げると男は、少し訝しみながらも莉子の話を聞いてくれている。表情は、仕事で初見だとこんな感じか、といったところだ。莉子も、なるべくなら不快感を持たれたくはない。持てる限りの努力はしようと思う。少なくとも、ハルのことを少し知りたいという欲求は自分にもあるのだから。
そして、この場を後腐れなく納めたかった。
「いえいえ…その、ハルの…?」
ハルの友達としては、年齢が離れている。莉子は、嘘を並べることは避けようと思っていた。
「縁があってハル君とは何度か会ったことがあるんです…で、バスの中で見かけた時に誰かに似てるなと思って。私が向かおうとしている場所と、あなたの目的地が同じ気がして、それで。私は、道に迷いながら進んで遅れをとりましたけど、やっぱり、ここにあなたがいて、それで、ひょっとしてって思ったんです…あの…ここは、ハル君の…?」
「…ええ、そうです。ハルのお墓です…それでは、ハルが亡くなったことを、あなたは最近知ったということですか?」
なぜ墓の場所を?と聞かれると困るな…莉子はそう思いながら、男の目を見た。
「はい、偶然ですが…他人事と思えなくて…」
「そうですか…どうぞ、線香を供えてやってください。ハルも知り合いが来たと、喜ぶでしょう」
男から差し出された線香を礼を言って受け取り、用意していた小さな食玩をバッグから取り出し備える。昨夜見たおもちゃ箱の中にたくさん紛れていたシリーズのものを、降りた駅のコンビニで、水を買うついでに買ったものだ。
「…それは」
それを、莉子が取り出すと、男はぽつりとそう言った。どうやら、男の莉子に対する少々の不審が、そのおもちゃで払拭されたようだ。
「…ハルが好きだったシリーズの…私も、せがまれて何度も買いましたよ」
男の視線を感じながら線香を供えて、莉子は墓石に手を合わせた。
この場合、何に向かって何を思えば良いのだろうと思った。ハルは未だに莉子の部屋に居ついているのだから、きっと成仏はできていない。つまり、ここで祈っても、ハルには届かないと莉子は思う。
しばらく手を合わせて、莉子は立ち上がる。
「ありがとうございました。現実…なんですね…やっと少し、納得できた気がします」
ハルはやはり死んでしまった魂なのだ。
莉子は墓石の前で、そのことをやっと飲み込めた、気がした。
男は、そう告げた莉子を見て、少し目を見開いた。
「そうですか…それは、良かった…また、寄ってやってください」
「急に伺ったのに、快諾いただいてありがとうございました。もし、また、機会がありましたら、立ち寄らせてください。…繰り返してたら、バカな私にでも…分かる時がくるかな…なんて」
そう言いながら階段の方へ進んで振り向いた莉子に、男はまた目を向けた。
「…ハルと、親しくしてもらってたんですね…」
そう言って男は莉子を見つめた。今日、莉子が見た中で一番生気の灯った目をしていると思った。そして、莉子は、この人の昨日の夜の姿と今の様子が重なった気がした。
二人で階段を下りて、男がゴミ箱へ花を包んだ新聞紙を丸めて投げ入れ、バケツと柄杓を受け取った莉子が小さな流しにそれを戻し、並んで門へと歩いた。会話が弾むわけではないが、ぽつりぽつりと続いている。内容は、ハルのことだ。
「…今日は、月命日で…」
「…そうだったんですね」
「ええ、もう一年と七か月。切りがないんですが、ついついカウントしてしまう。そして、墓に参って何があるというわけではないんですが…私の気が済むので…つい」
「毎月…ですか」
月に一度、必ず寄ってしまうという男の言葉に、莉子は同情のようなものを感じる。つい数えてしまうその感覚を知っていた。莉子の場合は、自分が無事でいることの確認のようなもので一種の怯えにも似ていて、男のそれとは違うだろうと思った。
「初めは…毎日、それが毎週末になって、一回忌の後は月に一二回程度です。ここ最近ではその週末辺りになりましたが、月に一度は来てしまう」
そっと視線を落とす男の表情は、自嘲にも似ていた。
「私、詳しいことは何も…ただ、そうなんだなと、お墓を見て、やっぱりなって思うしかないんだなと…」
努めて明るく莉子はそう言った。
昨日の男の背中を思い出していた。
この人は、今日も一人であの家に帰り、ひっそりと、その漂う気配に悲しみを募らせるのだろう。あの、男の様子が脳裏に残って離れない。莉子は、ハルの明るい笑顔を思い出して、その似たパーツのある男の顔を観察するように眺めた。
似ているのに、似ていない雰囲気に、男の悲しみが現れているように莉子には思えて、募る同情のようなものが抜けない。
「…もう一年以上、経っているんだから…私も現実を見ないといけないんだが…」
苦笑したように表情を歪めて、男はそう言う。莉子には泣き顔にも見えた。その姿が昨日の夜のそれと重なって見える。
「…あの、もし、お時間があれば、これからベーカリーに行きませんか?歩いて十五分くらいのお店があって。そこでお昼を食べようと思っていて。…良かったら、月命日にちなんで、ハルを偲ぶ会を…と思ったんですが…」
そこまで言ってしまって、莉子は気づく。
ハルだけではなくて、ハルの母親はどうしたんだろうと。重症で介護施設などに入っていたりするのかもしれないし、ハルの母親も一緒に亡くなっているのだとしたら、かなりのトラウマか心障なのではないかと。それを、初対面の自分と『ランチで偲ぶ会』とかお気楽すぎる。
「…すいません、軽々しくそういうことを言うのは、良くないですよね。忘れてください。また、月命日にお墓でお会いできたら…」
小さな情報はある、墓で苗字も分かった。葵に調べてもらったら、詳細が分かりそうだと莉子は考えをめぐらせた。なんなら、明日は平日で自分は休みなのだから、またここへ立ち寄って墓石の裏などを見れば、今以上の情報が刻まれているかもしれない。そうだ明日ではなく、ベーカリーの帰りに遠回りにはなるが、もう一度寄れば良い。ここで、ハルの父親と話すことのデメリットしか思いつかないのに、何を思って自分はその発言を進めてしまったのだろう。
そう思って見上げたその男の表情に、自分の口が滑ってしまった原因があるように思える。
莉子は軽くおじぎをした。
「失礼します」
そう言って、寺の門を抜けた。莉子はスマホを取り出して進むべき道を探した。ベーカリーへのルートを出して、ボスキャラとの戦いの進捗を見て、イヤホンを耳にする。
あの表情はいけない。
莉子は思った。
悲壮な感じが、どこか自分とダブル。
そして、傷を舐め合うような関わりは、自分が一番苦手としている関係だと、莉子は誰よりも分かっているはずだった。
天然酵母を売りにした雰囲気の良いベーカリーは、思ったよりも近くにあった。早く歩いてで十分ほど。駅へと近づくようなルートにあり、その後のんびりと散歩をして帰れば、夕方までには部屋へと戻れそうだ。
午後一時を過ぎたにもかかわらず、その店は住宅地にありながらよく混雑している。冬にしては温かな陽気も、良いのかもしれない。オープンテラスには、犬を連れた老夫婦や、バギーを押した小さな子供のいる家族などが座っている。莉子はそのイートインエリアを見渡して空いた席を伺いながらパンを選んだ。ハード系のパンのサンドウィッチとクロッカン、チーズのあふれ出た丸いパンやチョコレートとフルーツのデニッシュやバゲットなど、手当たり次第、目についた食べたいものをどんどんとトレーに乗せた。
食べたいと思うものを手元に置いておく、それが莉子の気を付けることリストの一つ。気になったら買っておく。余ったら冷蔵・冷凍で、数日分、好みの食べ物が部屋にあるのなら、体重維持のため、たまの休みのこういう贅沢は必要なことと割り切って。
「店内でお召し上がりですか?コーヒーか紅茶かアップルジュースをランチタイムは無料でお召し上がりいただけます。いかがですか?」
と、高校生くらいのアルバイトに説明されて、莉子はホットコーヒーをお願いする。「食べきれないと思うので、袋もいくつかください」と言うと、ニコリと笑って小さな袋と紙袋を用意して手渡してくれる。好印象な対応にホクホクして、莉子は空いたテラス側の日当たりの良いテーブルへ向かった。コーヒーが切れていたようで申し訳なさそうに「後程お持ちします」と言われ、パンの味が好みならば、気まぐれに投稿する口コミサイトへ満点の評価を上げようかと思いつく。
「コーヒーお持ちしました」
パンの撮影に夢中になっていた時だった。
女の子が持ってきてくれると思っていた莉子は、その低い声に驚いて顔を上げた。
すると、先ほど別れたばかりの男がマグを二つ持って立っていた。
それに驚いて「え?」と声を上げると、男は穏やかに笑う。
「座っても良い?」
と、先ほどのまるで取引先と話しているような口調からは想像できないほど柔らかく、そう言った。




