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「おかえり!」
帰宅した莉子を目指して元気に飛んでくるハルを見ると、先ほど樋口に告げられて冷えた心が、満ちた。莉子は自然に微笑んでいた。
「ただいま」
「ねぇ、ねぇ、ねぇ、何か買ってきたの?」
「そうだよ、今日はお買い物とお食事」
「楽しかった?」
「そこそこ。楽しかった、かな。ハルは?」
「あのねぇ、えっとねぇ、ハルはねぇ、ちょっと、でかけてた」
「どこに?」
「えっとねぇ、おそと」
買ってきた物を部屋のローテーブルに置き、コートをハンガーにかけて、浴槽をシャワーで軽く流して風呂のスイッチを押した。その間、ハルは莉子の後をてくてくと着いてきて、時々、目についたものに足を止めたり戻って何かを確かめたり莉子に話しかけたりと自由に動いている。
やかんを火にかけて、ティーバッグを出してマグカップにセットして、部屋着と着替えの準備を脱衣所へと運び、沸いた湯をマグカップに注いで、それを持ってローテーブルへと移動した。ホットカーペットとテレビを点けて、キルティングのブランケットをひざにかけると、紅茶を一口含んで、スマホのメッセージを確認する。
『今日はありがとう。楽しかった。何かあったら呼んでね』
さっき登録したばかりの樋口からだった。
グループトークにしているようで、その後に『莉子、また、火曜日に。連休、ゆっくり休みなぁ』と葵からもふざけた架空の生き物のスタンプ付きでメッセージが入っていた。
ホットカーペットのカバーの模様を道路に見立てて、架空のミニカーを動かしていたハルは、一連の帰宅作業を終えたのを認めて、顔を莉子の方へと向けた。
「ねぇ、ねぇ、あのねぇ、リコ、僕、僕ね、パパに見えないんだよぉ。どうして?」
「パパの所に、行ったの?」
「うん」
「パパって、何してた?」
「あのねぇ、あのねぇ、お部屋にいた。それでぇ、それでぇ、冷蔵庫からビール出してあげたら、泣いた」
「パパは近くに住んでるの?」
「うんっとねぇ、わかんない」
「そう」
「えっと、でもね、でも、リコにおしえてあげるねぇ」
「私を、ハルの家まで連れてってくれるってこと?」
「んんっとぉ、そう、そうなんだけど、ちょっと違っててぇ。えっとぉ、あのねぇ。」
そう言うと、ハルが莉子へと近づいていた。驚いて落とす前にと、マグカップをローテーブルへ置いて、何をするか分からないハルの動向を莉子は見た。ハルは、そのままゆっくりと莉子へと進むと、そのまま姿を重ねるような位置で立ち止まる。触れることはできないが、自分の視界にハルが透けて見えて、莉子は不思議に感じた。
少しずつその視界がぼやけてくると、ふわりと浮き上がるように感じて、莉子は外へと出ていた。ベランダから数メートル離れた所で漂う自分の手を眺め、その後、カーテンの隙間から部屋の中でソファーに体を預けたまま目を閉じた自分が見えた。ハルを探すと横にいて、そっと手を繋いでくれている。
「これだと手がつなげるんだぁ」
ハルはそう言ってニィっと笑って、加速するように跳ねた。
「ああ、ちょっと、待って」
足場のない場所で浮かんでいる感覚は、あまり良いものとは言えず、落ちる感覚も飛ぶ感覚もないのに、莉子は慌てた。
「大丈夫、リコ、僕がつれてってあげるから。何もしなくても良いよ」
ぐいぐいと少年に導かれて夜の街を高速で進むこと数分で、とある場所に降りた。建てて数年ほどの、郊外の一軒家だった。自家用車が一台と三輪車や自転車が置いてあるカーポートがあり、小さな庭には伸び放題の数本の低い木があり、他の部分は雑草に覆われていた。道路に面した部分には塀が回されていて、その小さな庭の荒れ具合は、外からは見えない。一見、どこかで見たことのある、そんな一軒家に見える。
「ここは?」
「僕の家」
「へぇ。ほど良いお家っていうのかな、こういうの」
「でもねぇ、パパしか住んでないんだぁ」
「パパ一人で住んでるの?」
「ううんっとねぇ、たぶん、そう」
「ハルの部屋が、この中にあるってこと?」
疑う訳ではないが、そのハルが言うパパが実父なのか、この家が本当にハルの家なのか、莉子には確かめようがない。
「こっち」
庭から壁を通り抜けて、ハルは階段へと一直線に向かった。壁や家具が迫る度にドキドキして身構える莉子に対して、ハルは慣れているようでぐいぐいと進んだ。物を通り抜けた感じもなく、ただただ進む。階段では、足が着いているような浮いているような、そんな状態だ。その辺りの自由度は、ハルが自在にコントロールしているように莉子には見えた。
二階に上がってすぐの戸を抜ける。その部屋には、学習机と椅子とランドセルやベッドがあった。青と黄緑と白のボーダーにロケットがプリントされたカバーがかけられた布団、黄緑色を基調とした薄いボーダーのカーテン、机には水色のワンポイント、濃紺のランドセル、一目で男の子の部屋だと知れる。
「なんか、良い部屋だね。親の愛を感じるっていうか」
「でも、僕、ぜんぜん使ってないの」
「そうなの?」
「うん、おもちゃは一階のリビングにあるし、幼稚園のバッグは下に置き場所があったから。あのねぇ、えっと、ここはライネンから使おうねって、ママが言ってたお部屋。リコが見たかったのは、このお部屋?下のお部屋?」
「どちらでも良いのだけど…」
「ねぇ、ねぇ、リコ、ライネンってどういう意味?」
「そうね、来年って、来年だけど…どう説明するんだろ、子供にこういうこと聞かれたママさんって…」
「ママは、幼稚園終わった後って言ってた」
「ああ、そうだね。幼稚園の次に行くのが小学校で、小学校に行くときに使うのが、このランドセルだね」
「ランドセル、かっこいいでしょ!」
すぐにランドセルに興味を移したハルが、それを指差してうきうきとしている。
「すげぇ、最近のランドセルって、シルバーの縁とか入ってるんだね。かっこいいね」
「でしょう、じいじに買ってもらったんだ」
「ベッドあるけど、これも来年から使うはずだったの?」
「…うん…まだぁ一人で眠れないから…パパとママと一緒に寝てたんだぁ…ママが来年からはこの部屋で寝ましょうって言ってて、それがすごく不安だった」
「そっか、そんなもん?新しい学校とかそういうのは不安ないんだ」
「ないよー、幼稚園から一緒に行くお友達もいっぱいいるし、楽しみにしてたんだぁ」
「じゃぁ、次は、下のおもちゃ見てみようかな」
「良いよ」
そう言ってハルが手を繋いだ瞬間には、一階にあるリビングのおもちゃエリアに飛んでいた。
「ほら、これ、僕のお気に入り」
「うわぁ」
浮き上がって、思わぬ角度でおもちゃごと飛び込んできたハルによろけて、莉子は声を上げた。
「ぶーんってぶーんってやってると、ぐるんぐるんって回って、ごーって落ちる遊び」
説明されてもよく分からなかった。ただ、ハルがいつになくはしゃいでいるように莉子には見えた。
「そっか、それは飛ばすのね。で、このおもちゃの山が、ハルのエリアなわけねぇ」
見慣れないおもちゃや、莉子も使ったことのあるもの、よく見るキャラクターもの、色々なおもちゃが雑多に棚に並んでいた。その棚に納められたボックスを出してがさごそと探ってハルは一つの模型を取り出した。
「これねぇ、パパと一緒につくったんだぁ。ほとんどは、僕が作って、パパが接着剤でとめてくれたの。初めて自分で作れたねって褒められたヤツ。良いでしょぉ」
そう言うとハルは、その飛行機のような形の模型を手で持ってブーンブーンとやる。
ハルを横目に、莉子もそのボックスの中を覗いてみた。小さなおもちゃをまとめて入れている箱のようで、子供のいない莉子にとっては、棚同様混沌として見える。段ボールの切れ端やお菓子の箱、何かの紐も入っていて、おもちゃ箱とゴミ入れとの中間に思えた。
しばらくハルの遊びたいようにさせて、莉子は部屋の中を物色していた。家族写真のようなものはなかった。台所は近頃使った形跡はなく、ビールの空き缶やコンビニの弁当箱やカップ麺の容器が汚れたままシンクに転がっていた。部屋に積もる埃の具合が、主の無気力さや家事力のなさを物語っているように見える。リビングでもよく使うであろうソファーの一角に、タオルや飲みかけのグラスやタブレットの充電コードが転がっていて、少なくとも帰宅する人がいることは分かった。
ハルなしでも壁抜けができるかどうか試す勇気は莉子にはなく、そのままリビングの観察を続けようとしていた時、ガチャリと開錠の音が玄関から聞こえた。それを聞いたハルが「あ!」と目を輝かしてそちらへと向かう。玄関から廊下へと人物が進むにつれて明かりが灯り、その人がリビングへと入ってきた。リビングの電気を点けて、その人がどさりとソファーに沈むのを莉子は台所の端から、隠れて見ていた。ハルは、その人物の周りをぐるぐると回りながら、今日ここに莉子と来ていることや、おもちゃを自慢したこと、部屋を案内してランドセルかっこいいって言ってもらったとか、そういうことを止めどなく話し続けている。
ハルの表情とその人物の表情が、あまりにも、対照的だった。
莉子は、その人物から見えない角度から手招きしてハルを呼ぶ。すると、すぐ気づいてハルがこちらへとスキップしながらやってきた。
「ハル、あれがパパ?」
「そう、お話ししても、聞こえないし、僕ねぇ、見えてないみたいなんだぁ。それに、ずっと怖い顔してるの」
「そう」
「パパねぇ、ビール好きだから、出してあげようかなぁ」
「いつも、パパが帰ってきたら、出してあげてるの?今も?」
「うん、ずっと。パパねぇ、好きなはずなのに、泣くんだぁ、でも、時々、僕の名前呼んでくれて、ちょっと笑ったりするから…ねぇねぇ、リコ、やらない方が良いのかな?」
「どうかしら…ね。パパも、会社から帰ってきたばかりで、疲れてるかもしれないし。そろそろ、私たちも戻りましょ」
「…わかったぁ」
口を突き出してしぶしぶそう返事をしたハルの頭を、莉子はそっと撫でた。
「おりこうね」
「えへへへぇ」
ハルは褒めると素直に喜ぶ。
「じゃあ、そっとね、お外に出よう」
ハルが見えてないのだから自分も見えるわけはないと思ってはいても、勝手に上り込んだ他人の家を堂々と横切る神経は持ち合わせてはいない。「おじゃましました」と小さな声で言ってハルと手を繋いだ。大きな窓を抜けて外へと出て振り返ると、その人物は突然ガタンと気配を察したように後ろを振り向いたところだった。そして、そのまま一点を見つめて固まっている。
「あ、ハル、おもちゃのお片付けしてないね」
「ほんとだぁ、ママに怒られちゃうなぁ…」
そう言ってハルはハッとしたように顔を強張らせる。
「…ママは?」
「…ママは、どこかにいるよ…」
部屋の中の人物はようやく動き始めて、その部屋のおもちゃのある一角へと進んだ。ハルに手を引かれて莉子がもう一度部屋に戻ると、その人物はおもちゃを抱えて呆然としていた。
莉子には、背中で泣いているように見えた。
横のハルを見ると「パパ」と言ったきり、表情がない。
「さぁ、戻ろう」
誰かの泣き顔を直視できるほど、やさしくも寛大でもない、莉子は自分をそう判断する。その場の雰囲気が、とにかく苦手だった。それで、その場から部屋へ戻ることを急いだ。
強引に外へと出されたハルが莉子を見上げた。
「ねぇ、もう一つ行きたい場所があるんだぁ」
「良いけど…」
また同じような状況に置かれたらたまらない、そう思って莉子は不安になった。
「近くだよぉ、時々行ったことがある場所で、パパもよく行ってるの。着いて行ってるんだけど、えっと、パパが気づかないから、あのねぇえっとねぇ、聞きたいことが聞けなくって。リコに見てもらったら、えっとえっと、何か分かるかなぁって思ったの」
「うん、分かった。連れて行ってみて」
いずれにしても、ハルに連れて帰ってもらわなければ部屋の自分へ『戻れない』ような気がする。莉子は仕方なくそううなずいた。ぽんと跳ねるように空へと出るとすぐ下降していく。ハルは家からその場所へはよく行っているようで、迷いがなかった。
暗い中にチカチカと街灯や車道が光る様子は、夜景としては美しい。そこを飛ぶように跳ねるのは、なんとも怖い感覚はあったが、ただの傍観者としてならとても気持ちが良かった。
着地した場所は、お墓だった。
「ここ?」
嫌な予感がする。
莉子が避けて通ってきた事実がそこにあるような気がする。ふわりとこうなのかなぁと思って過ごしている方が、精神衛生上は良いと思うのに、それが目の前に答えとして出てしまえば、考えるべき現実に直面する。
ため息を吐いて、莉子は駆け上るハルに続いた。
「ここ」
ハルは階段を上がって少し進んだ所にある墓石を指差した。
新しい卒塔婆が立ててある、そこ。多少萎れてはいるが花も残っていた。他の墓と比べて、最近墓参りをした人がいることを告げている。難しい漢字が卒塔婆に書かれていた。目を凝らして見てみても、遠くにある街灯と月明かりだけでは何と書いてあるのかは分からない。その上、莉子の知識にはない漢字だと、その輪郭で思っていた。
「お墓だね」
そう言った莉子を、ハルは見上げる。
「お墓って、あの、あの、ママが言ってたけど、死んだ人がいるところでしょ?」
「そう。新しい板があるから、誰か最近亡くなったんだね」
暗くてよく見えないが、それはハルではないだろうか、莉子はそう思う。それをハルに告げるには、無責任にも思えた。何より、莉子にその覚悟がまだない。
「そっか。パパね、よくここに来るんだよねぇ…」
ハルはハルで、何か思うところがある様子だ。
「もう、暗くて何が書いてあるのかよく分かんないから、明日、見に来てあげるよ。休みでやることないし。元々、部屋の掃除とかで時間つぶそうと思ってたから、運動だと思って、何が書いてあるか見に来てあげる」
「ほんと?」
「うん。でもさ、私、この場所がよく分からないから、部屋まで帰る時に、この近くの駅を通って帰ってくれるかな。できる?駅ってわかる?」
「うん!ママとお友達のお家やお出かけする時に、時々電車に乗ってたから、分かるよ!」
「お風呂も溜まってる頃だろうから、そろそろ…。じゃ、駅通って帰ろうね」
そこでハルは夜空へと莉子を引っ張り上げた。
重さはない。小さな手に引かれて、夜空に、莉子は吸い込まれるように飛び上がる。
駅が近づくとハルは自在に角度を変えて下降した。見たことのある駅名で、それが最寄駅から数回乗り換えて一時間ほどの所だと見当がついた。駅の構内、屋根より下で頭上数十センチの高さを、ハルは笑いながら通過する。電車も駅名の表示看板も所々ある柱も躊躇なく抜けて抜けて、小さなつむじ風を起こしながら、陽気に通り過ぎて再び舞い上がった。その楽しげな表情のハルに連れられて、莉子も上昇する。通り過ぎた後を振り返ると、突風に驚いて、カーディガンやフードを押さえる人々が見えた。それがどんどん小さくなると次には、無数の光が明滅している景観が足元に広がった。夜の暗さと明滅に紛れて、汚れたものは目に入らない。浮上した先には少し弱い星の光、そして少し明るいハルの表情がある。
「この駅なら、知ってるよ」
「ひゃっほ~い」
莉子の声が聞こえたのか、それにうなずくようにして、ハルは声を上げて上昇を続ける。怖さはない。ただ、自分の周りが暗く暗くなり、足元の街の光がどんどんと小さくなって人工の光で縁取られた地図が浮かぶ。
気がふれたように喜ぶハルは、一向に降りる気がないようで、その手に導かれるまま莉子も暗闇に身をゆだねるしかなかった。
「ハル~、そろそろ戻ろうよ。お風呂が冷えちゃう。私、飲み直したいし。ハルも牛乳飲む?」
「うん!」
振り返ったハルが、ハッとしたように見えた。その少年らしからぬ冷静な目を見ながら、牛乳につられるところが素直でハルらしいと莉子は思った。
手を握る。
力が入る。
その、いつもは通り抜けてしまうやわらかな髪の感触を楽しんで、降りる途中でハルの頭を何度もなでた。
ハルは莉子を振り返って笑う。
莉子も笑って。
ふっと頭を上げると、真っ暗な自分の部屋の中にいた。




