居候生活 ②
とてつもない歓声で僕は起こされた。
女子世界ランキング一位の人が、コートに現れたのだ。
良い色に焼けた素肌は、猛暑でも練習を重ねたのか、さすが世界一の栄光の中に居る人物と感心していた。腕っ節も強そうで、喧嘩なんかしたら負けそうなくらいの筋肉質にみえる。
「ふーん。世界一強いだけあって…なんて言うか、色グロだね」
「別に色グロなのは関係ないと思うけど」
「ただ猛暑の中で練習してるから、真っ黒に焼けてるって意味で…そのー」
「あのね。その前にハッキリしときましょう」
お姉ちゃんは呆れている様子で一呼吸つくと、
「色グロの方は無名の選手で、あっちの白い肌のポニーテールにしている方が、世界一。…で、公平の言いたいことは?」
「だから、猛暑の中で一生懸命練習してるから、真っ黒に焼け……えっ!?」
寝起きのせいにするのが無難だからするが、テニスを知らない人間なら誰だってあのスタイルが良くて可愛い人が世界一うまいテニスプレーヤーだなんて思えるわけがない。どう見ても色グロの筋肉モリモリの方が強そうで、しなやかな体つきで美人の部類に入るだろう人が、まさか世界ランキング一位だとは。開いた口が塞がらないという状況はこんな状態なのかと変なところに興味をもちながらも驚いてしまっていた。
「…じゃあ、あっちの強そうな方はどのくらいのランクなの?」
「あんたも変な所に興味あるのね」
そう言いながら何やらパンフレットみたいなものをお姉ちゃんは広げた。覗き込んで見たはいいものの英語なのでさっぱりわからず、返事を待つことにした。お姉ちゃんは読むことになるとまだ理解するのに時間がかかるらしく、四苦八苦した後、
「あったあった…えーと、十八位。けっこうランクは上の方ね」
「ふーん、そうなの」
とは言ったものの、そもそも世界ランキングがどういう基準でつけられてるのか僕にはわからない。そのことをお姉ちゃんにも問いただしたが、
「基準なんてものはどうでもいいの。とにかく一位は強いのよ」
と、あまり説得力のない答えしか返ってこない。どうしても世界一強いプレーヤーには見えない美人がどこまでやるのか見てやろうと、いつのまにか眠気も覚めコートをじっと見つめ腕を組み、試合が始まるのを今か今かと待っていた。
普段スポーツなど見ることに縁はなく、ましてや運動することなど言語道断の僕にとって、テニスは新鮮だった。たかが球の打ち合い、何が面白いのかと高を括っていたが、それは間違いだった。ルールはよく分からないまでも、どっちが有利な展開かぐらいは僕にも理解できた。世界ランキング一位の美人は、相手に隙を見せず、揺さぶり、気持ちよく人々の歓声に応え、テニス界の女王ここにあり!と言わんばかりに堂々としていた。可哀そうなのは相手の選手で、見事に躍らされている。同情したくはなるが、勝負の世界は厳しいものだと思っているから自然と女王に拍手を送ってしまう僕は情け容赦もない。世の中は長いものに上手く巻かれないと、という発想から強い物を絶賛している。これを教訓に次のステップとして頑張ってもらいたいと、色グロの二流選手にエールを送る自分を何て寛大なんだと、一番嫌われるタイプの人間のようなことを考えてしまっている。だから罰が当たったのか、首が疲れてしょうがなかった。僕はコートを横に見る位置で観戦していた。一番近い席だと言っても見づらく、それに気づいたのは試合が始まってからだったので超満員の観客席で移動する余裕は無かった。
パコン、パコンと勢いよく打ち合い、右から左、左から右へ。
その度に僕とお姉ちゃんは右から左、左から右にと首を振っていた。さすがに打ち合いがかなり長く続くと、真剣にボールを追っていたので目が回ってきそうだった。何度か選手が休憩している時があり、それが僕たちの休憩の時間にもなった。そのつど首を労わりながら、もし今度テニスを見る機会があるなら、コートを縦に見る位置で観戦しなければいけない、と言う教訓を忘れずに覚えておこうと誓っていた。
この試合、もちろん女王の勝利に終わった。
あの美人のしなやかな曲線美からは想像も出来ないほど、彼女にはパワーがみなぎっていた。それが僕には不思議でしょうがない。それと同時に、テニスというスポーツがこれほど観ていて面白いものなのかということが分かっただけでも収穫だ。試合が終わり、僕が彼女に送った拍手は手がかゆくなるくらいだった。もちろん僕だけでなくお姉ちゃんや他の観客も盛大に拍手を送っている。四方八方からの祝福に、愛想良く手を振る光景はまさしく女王の名にふさわしく、堂々としていた。
「やっぱり勝ち慣れてるわね」
横でお姉ちゃんは変なところを感心していた。確かにそう言われてみれば、そうなのだろう。世界ランキング一位というのは、負けて手に入る栄光なのではないから勝ち慣れてなければいけない。負ければ負けたで非難を浴びるだろう。だけど、勝って当たり前の世界も辛いだろうなと、変な所で僕は女王に同情してしまった。コートから去ろうとしている女王の後ろ姿を見ながら、心の中で「がんばれ!」と声援を送った。いつまでもテニス界の頂点にいるようにと、たった一試合見ただけでいつの間にかテニスが好きになり、女王のファンになってしまっている僕だった。
「ここの他にもまだいっぱいテニスコートあるんだけど」
お姉ちゃんは今日の試合のスケジュールを見ている。
「ここの大きなコートは?」
僕は会場の地図に載っている一番大きなテニスコートを指差した。
「そこはセンターコートっていって、値段が違うの。私たちがいるところが一番安いんだよ。全豪オープンを味わうにはちょうどいいと思うけど、…まさか世界のトップに会えるなんてね」
お姉ちゃんは目を輝かせていた。
興奮冷めやまぬうちに、他のコートに顔を出したものの、ランキング上位の選手は出ないらしく、人気と実力で良い悪いを決め、面白いつまらないを判断しているお姉ちゃんと僕は、失望していた。この日の試合には人気・実力ともにある選手の出る予定はなかったからだ。そうと分かると、どちらが言うまでもなく、家に帰るためテニスコートを後にした。
僕が居候している家は、シティ(メルボルンの街の中心地)からトラム(路面電車)、バス、どっちを利用したとしても約三十分もあれば着いてしまう場所にあった。ノース・フィッツロイと呼ばれる地区で、芸術家が集まる土地柄らしい。僕はこの地区が大好きだ。
来てすぐの頃から夕食の前になると必ずと言っていいほど散歩をしていた。始めの頃は家の周りをウロウロする程度だったが、だんだんとエスカレートしていき、ちょっとした穴場を見つけたりもした。その穴場とは小高い丘のことで、頂上にはベンチが一つある。そのベンチに座り正面を見ると、遠くの方にシティのビル群が見え、車の排気ガスやなにやらで蜃気楼のようにぼやけて見える。僕はその景色がとても気に入っていた。
目の前には線路があり、めったにないことだが電車が通ることがある。そんな時、明日は良いことがあるかな?などと、勝手に決めたりしていた。
そんな散歩が楽しみだった。
ベンチに座っている時、僕の前を犬と一緒に通り過ぎる老人がいた。
毎日のように顔を合わせていた僕たちは、どちらからともなく挨拶を交わし始めていた。僕の片言の英語は分かりにくいだろうけど、いつも笑顔で色んな話をしてくれた。そのほとんどをかいつまんでしか理解できない自分に何度も腹がたったことがあったが、そんなことでこの場の雰囲気を壊したくなかったから、それとなく相槌をうちながら聞き役を演じていた。僕の方は取り留めない言葉でごまかしながらも、老人は一言一言に対して相槌を打ったり、返事をしたりしてくれていた。
この国の何気ない人たちの優しさは、何かを忘れている僕たち日本人に心のゆとりを与えてくれているような気がする。




