GOING TO AUSTRALIA ②
生まれて二度目の空の旅も眠れず、快適ではないシートにもたれていた。
廊下側の席だった僕は、窓際と真ん中の席に人が居なかったので、その三つの席を自由に行き来していた。時期外れだったから空いていたのかもしれない。
世間では正月ぼけがやっと低迷しだし、経済大国ニッポンを象徴するかのように働き蟻たちが動き出した頃、僕はオーストラリアに休息を目的に旅立っている最中だ。南半球の国なので今は夏真っ盛り、いい夏休みを送れそうだ。それも一週間やそこらの予定ではなく、三か月以内ならいつでも帰国できるのが可能なオープンチケットというものを持っている。なので帰る日をまだ決めていないという呑気な奴だ。けれども四月になる前に帰らなくてはと思っている。学校が始まるからだ。
本当なら四月から社会人としての生活が始まる年齢だが、それが嫌で一年間休学をしていた。このまま社会人になっていいのか!とは声を大にして言わないが、何かやり残したことがあるようなそんな気がしてならなかったからだ。それが今回の旅行ということではないが、何かを期待していることは否定しない。
なぜオーストラリアなのか。それは単純な発想だった。実にタイミングが良かった。休学をして間もない頃、さてどうしようかと考えていた僕のところに柴山雅樹が現れのだ。雅樹と僕はかれこれ二十年近くの仲だが別に一心同体のような関係でもなく、付かず離れずといった距離感の友達だった。だけれど、この二十年生きてきて雅樹ほど安心できる人間に出逢ったことはなかった。いつも僕より一歩前を歩いていたし、何をやるにしても雅樹には勝てなかったことを記憶している。自転車の補助輪をとったのも、泳げるようになったのも、彼女をつくったのも雅樹は僕より早かった。でも不思議と劣等感はない。どちらかというと憧れの存在だ。
雅樹は何の前ぶれもなく、僕の前に姿を見せた。
そんなことは毎度のことで別に驚いたわけではないが、奴の突然の訪問は僕をあっと言わせることが多かった。雅樹が絡んでいるいろんな出来事に僕はそのつど興奮した。世間に流されて生きていて無感情・無感動のエキスパートと自負している僕にとって、奴は唯一僕の五感を刺激してくれる存在だったのだ。雅樹が何故いつも僕の所に現れるのかはよく分からない。奴から与えられたものはたくさんあるが、僕が奴に与えたものなど一つもないからだ。
雅樹はいつも独りだった。僕も独りだった。お互いの共通点と言えばそれだけだった気がする。それだけで充分だったような気もする。
『オーストラリアに行ってくる』
そう唐突に切り出した雅樹に対して、僕は何のリアクションも取らずにいた。手にしていた小説を読んではいたのだけれど、ちっとも内容が頭に入らないままページをめくっていた。本を閉じ、雅樹の顔をまじまじと見ると、話を聞く体勢を整えた。それを合図とばかりに雅樹は話を続けた。
『とりあえずワンホリで一年かな』
『ワンホリって?』
『ワーキング・ホリデーっていうビザのことだよ』
『ビザ?』
『入国許可証。それがないといけないんだ』
新しい単語が出てくるたび質問する僕に、雅樹は根気よく答えていた。あまり質問ばかりだと奴も疲れてしまうだろうから、話題を変えようとしたが何も思い浮かばない。
『会社は?』
『辞めた』
なんとなくまた聞いてしまったことが功を奏したのか、一問一答地獄から這い出ることに成功した。
『ふーん。思い切ったことするよ、ほんとに』
『そうでもないよ』
頭を掻いて照れている雅樹の瞳は輝いていた。あの小さい体のどこから出てくるのだろうその熱意と自信。それが溢れんばかりで、湧き出る泉のような激しさを感じさせる。こういう時の雅樹は、恐怖を知らない子猫が野良犬に歩み寄っていくような大胆さをもっていた。その子猫が興奮ぎみに口調を変え、
『お前も遊びに来いよ』
と優しく語りかけた。
『飲もうか?』
混乱している僕の口からはそんな言葉しか出てこなかった。
家の近所にあるコンビニまで二人で歩いていき、ウイスキーを一本とペットボトルのコーラを一本ずつとつまみを買い僕の部屋で飲むことになった。僕はウイスキーをコーラで割って飲むのが好きでそうやってちびちび飲んでいたが、雅樹はそのまま飲んでいた。そして、取り留めない話で盛り上がり、小学生たちが学校に行く頃、雅樹は帰っていった。
いつまでもプー太郎のままでいるわけにもいかず、とりあえず僕はアルバイトを見つけせいを出すことにした。稼いだお金をどう使うわけでもなく、銀行の口座は頼もしいほどの金額になっていった。雅樹からはちょくちょく絵葉書がきた。僕はそれにちゃんと返事を書き、文通が続いた。
夏が過ぎ秋になり、お金の貯えはどんどん増えている。このまま冬になり春を迎えるならその前に冒険も悪くない。絵葉書を読む度に思った。僕は寒いのは苦手なので日本と季節が逆のオーストラリアへ行くことは何の抵抗もない。雅樹に遊びに行くと書いた手紙を出した日、冬をつげる雪がしんしんと降りだしていた。
何故なら、それがオーストラリアに行く理由だった。
なんとか寝つけたと思ったら、機内の明かりがパッとつき、凄く気分が悪かった。
思いまぶたをぎこちなく開けると、スチュワーデスが活発に動きまわっている。彼女たちはシンガポールの民族衣装を纏い、笑顔を絶やさず働いていた。シンガポール航空に入るためには胸が大きいのが大前提とも思えるほど、全員が全員めだって胸が大きかった。そこばかりを見ていたわけではないけれど凄く印象深く、シンガポール航空イコール胸の大きなスチュワーデスという何か数学の公式みたいな考えが僕の中では占領しつつあった。
朝食と呼ぶには早すぎるくらい早い朝食をむりやり胃まで流し込み、時計を見ると短い針が四の数字の所に何の罪もないかのように位置している。
「新聞配達じゃないんだから…」
と、独り言を言っている僕を、たまたま通りかかったスチュワーデスが気にして話しかけてきた。
「××××××」
あまりにも速く英語を話しているのでちっとも理解できない。困った顔をしていると、今度はゆっくり、
「どうかいたしましたか?」と、言ったに違いない。僕も伊達に大学生ではない。このくらいの英語なら僕にも理解できた、と思う。
「オーケー」
そう返事をすると、ニコッと笑顔を振りまいて行ってしまった。まったくくたびれてしまう。これから先が思いやられそうだ。
今回の最大の難関。それは英会話だと思う。
でも今さら悩んだところでしょうもない。
僕は、男は諦めが肝心だ!と心の中で叫んでいた。




