第2章:ステータスの格差と一つの招待
リフェリーの街
ダンジョンのゲートから足を踏み出すと、肩にのしかかっていた重みが一気に軽くなった。 ゲームオーバー寸前の死線からようやく逃れたばかりだからか、
それともポケットの中に、ようやく金になるものが収まっているからかはわからない。
ダークストーンが一つ。
親指ほどの大きさしかない、安っぽい石だ。だが、俺みたいなクズプレイヤーにとっては、これが生命線だった。
俺は、活気に満ちたリフェリーのメインストリートを歩く。
道の両側には石造りの建物が並び、
武器屋や防具屋、食堂にプレイヤー向けの宿まで揃っている。
商品を売り込む商人NPCの声と、
新しく入ってきたプレイヤーや、レイド帰りの連中の会話が入り混じる。
狩りの成果を祝って笑い合うパーティーもいれば、
スタミナ切れでふらついているやつもいる。
HPバーが危険域の仲間を肩に担いでいる連中も、珍しくなかった。
俺の目的地はただ一つ。街の中心にある巨大な建造物――ギルドだ。
この壮大な建物は、プレイヤーたちの活動拠点だ。ダークストーンのようなドロップ品を換金し、クエストを確認し、ダンジョン遠征前に集まる場所でもある。
俺は高くそびえる木製の両開き扉を押し開けた。
中に足を踏み入れた瞬間、五つ星ホテルのロビーを思わせる空間が広がる。天井は高く、中央には暖かな光を放つ巨大なクリスタルのシャンデリア。
奥には受付NPCが並ぶカウンターがあり、左手には依頼書で埋め尽くされた巨大なクエストボードが設置されていた。
俺はその喧騒を無視し、まっすぐ一つのカウンターへ向かう。
その向こうには、エルフの女性NPCが立っていた。
緑がかった銀髪を背に流し、尖った耳が覗く。だが、その整った顔立ちは、あまりにも機械的で――完璧すぎる無表情に凍りついていた。
俺は親指ほどの暗い石をカウンターに置いた。
「これを換金してくれ」
エルフのNPCは石を手に取り、しばらく確認する。
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言って踵を返し、奥の処理室へと消えていった。
俺はその場で待つ。
腹は減りすぎて、もうまともに動くのもつらい。数分ですら拷問みたいに長く感じた。
やがて彼女が戻ってきて、カウンターに数枚の硬貨を置く。
「ダークストーンは、銅貨五枚での交換となります」
俺はそのくすんだ硬貨を見つめた。
たった五枚。あまりにも少ない。
……だが、今の俺には、それで十分だった。
これだけあれば、今日をしのぐための硬いパンくらいは手に入る。
「ありがとう」と小さくつぶやき、硬貨をまとめてインベントリに放り込む。
そのまま立ち去ろうと振り向いた、そのとき――
視界の端で、隣のカウンターの動きが目に入った。
一人の女性プレイヤーが取引をしている。
その姿は、一瞬で目を引いた。
雪のように白い長髪。
胸と左肩を覆う銀のアーマーは、明らかに上位プレイヤーの装備だ。
腰には、上質な剣が静かに収まっている。
……雰囲気が違う。
いわゆるカジュアルプレイヤーとは、まるで別物だ。
彼女はインベントリを開き、カウンターに石を一つ置いた。
ダークストーンだ。
だが――その大きさに、俺は凍りつく。
大人の拳ほどもある。
思わず息を呑んだ。
あれほどのドロップを手に入れるには、どんなボスを倒せばいい……?
彼女の前のNPCは、わずかに間を置いてから口を開く。
「このダークストーンは、金貨六枚での交換となります」
俺は思わず息を詰まらせた。
金貨。六枚。
この世界のレートでいえば――
金貨一枚は銀貨三十枚、銀貨一枚は銅貨三十枚だ。
俺は、たった銅貨五枚のために命を張ったばかりだっていうのに。
あの女は、一度の取引で銅貨五千四百枚分を手に入れたことになる。
その差は――まるで底の見えない深淵だった。
……だが。
俺の心を一番抉ったのは、あいつの反応だ。
彼女は金貨を見つめ、小さくため息をついた。
「たったの金貨六枚か……」
その瞬間、血が逆流したような気がした。
俺にとっては、人生が変わるかもしれない額だ。
それが、あいつにとっては取るに足らない数字でしかない。
……俺は、この世界に来てから、まだ一度も銀貨すら手にしたことがないっていうのに。
歯ぎしりが漏れる。
だが、すぐに理性で押し込めた。
「はぁ……」
何をムキになってるんだ、シグ。
嫉妬したところで、どうにもならないだろ。
システムは嘘をつかない。
あいつは、それだけのリスクを乗り越えてきたはずだ。
俺なんか、一瞬で消し飛ばされるようなモンスターを倒して、
HPだってギリギリまで削ったに違いない。
……そう考えれば、金貨六枚でもおかしくはない。
「ああ……そういうもんだよな」
それだけで、どうにか感情は収まった。
俺はその場に立ち尽くし、彼女が金貨をインベントリにしまい、背を向けて出口へ向かうのを見ていた。
……そのときだ。
彼女の手から、金貨が一枚こぼれ落ちた。
カラン――
硬貨は石の床を軽やかに転がる。
くるり、くるりと回り――やがて勢いを失い、俺のつま先に当たって止まった。
だが、彼女は気づかない。
そのままの歩調で、何事もなかったかのように歩いていく。
俺は足元の金貨を見下ろした。
……時間が止まったみたいだった。
金貨一枚。
これだけあれば、一ヶ月は潜らずに済む。
しゃがんで、拾って、インベントリに入れる。
それだけでいい。
周りは人でごった返している。
誰も、こんな小さな出来事に気づくはずがない。
俺の手が、反射的に動いた。
金貨を拾い上げる。
……だが。
それをしまうことはできなかった。
代わりに、俺は顔を上げる。
そして――彼女の背を追った。
「あの、待ってください......!」
周囲のざわめきを裂くように、俺の声がぎこちなく響いた。
白髪の女は、出口の手前で足を止める。
ゆっくりと振り返り、こちらに視線を向けた。
その動きは、やけに静かだった。
近くで見ると――息を呑むほど綺麗だった。
背中に流れる銀髪が、やわらかく揺れる。
肩のアーマーは、ギルドの灯りを受けて鈍く光っていた。
……場違いだ。
こんな初期エリアにいるような存在じゃない。
「はい、何ですか?」
彼女はそう問いかけた。声は意外なほど柔らかい。
俺は右手を差し出し、金貨を見せる。
「これ……落としたぞ」
彼女は眉を上げ、一瞬きょとんとした。
「え? 本当ですか?」
一歩近づき、俺の手から金貨を受け取る。
「ありがとうございます」
そう言って、ほんのりと微笑んだ。
その笑顔に、なぜか余計に焦る。
「い、いえ、どういたしま――」
ぐぅぅぅぅ!
唐突に、間の抜けた音が俺のセリフをぶった切った。
しかもやけに大きい。
……そして最悪なことに、その音源は俺の腹だった。
俺は一瞬で固まる。
顔に一気に熱が集まった。
朝から何も食っていない。そりゃ鳴る。
俺は慌てて頭を下げ、腹を押さえた。
今、俺はギルドの床が開いて、
そのまま生きたまま飲み込んでくれることを心から願っていた。
しばしの沈黙。
……くすっ、と。
前の方から、こらえきれない笑い声が漏れた。
俺は前髪の隙間からちらりと様子を窺う。
……やっぱりな。
彼女は顔を背け、口元を手で覆っていた。
小さな肩が、かすかに震えている。
笑ってる。
恥ずかしさで、頭の中が真っ白になった。
顔が焼けるみたいに熱い。
少しして、震えが収まる。
「ごめんなさい……」
彼女の声が、もう一度聞こえた。
俺はゆっくり顔を上げる。
彼女は目尻に浮かんだ涙を、そっと指で拭っていた。
「ごめんなさい。あなたを笑うつもりじゃなかったの」
そう言って、やわらかく微笑む。
……さっきまでの距離感が、少しだけ和らいだ気がした。
彼女はしばらく俺を見つめた。
「もしよかったら……」
少し間を置いて、
「私と一緒に食事しませんか?」
俺はまばたきをした。
聞き間違いかと思った。
「金貨を返してくれたお礼、ということで」
彼女はそう付け加える。
頭が一瞬フリーズした。
さっき金貨六枚を手に入れたばかりの上位プレイヤーが――
この俺を、食事に誘っている?
返事が出てこない。
……だが。
理性よりも先に、体が反応した。
ぐぅぅぅぅ!
俺の腹が、これ以上ないほど正直に答えた。
俺は慌てて腹を押さえ、顔がさらに熱くなる。
こんな状況で、食事の誘いを断る理由なんてない。
そもそも、俺の手持ちじゃ満足に腹も満たせない。
俺はぎこちなく頷いた。
「……ああ」
彼女はふっと微笑む。
「それじゃあ、ついてきて」
そう言って振り返り、ギルドを出ていく。
俺はその後を追った。
……この世界に来てから、初めて。
ひとりじゃない。
なぜか、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。
***
数ブロック先、俺たちはリフェリーでも評判のいい食堂の前に立っていた。
建物はこぢんまりとしているが、店内はプレイヤーでほぼ満席だ。
扉を押した瞬間、焼けた肉の香りが鼻を突き抜けた。
俺の腹が即座に反応する。
スープの匂いに、思わずよだれが出そうになった。
店内はプレイヤーと地元のNPCで溢れている。
話し声と食器の音、立ちのぼる湯気が混ざり合い、いかにも酒場らしい空気を作っていた。
彼女は迷いなく歩き、通りが見える窓際の席へ俺を案内する。
俺たちは向かい合って腰を下ろした。
ウェイターのNPCが来ると、彼女はためらいもなく料理を次々と注文していく。
……俺はただ固まっていた。
混乱と気まずさ。
それ以上に――信じられない、という気持ちが強かった。
料理が運ばれてくるのは、驚くほど早かった。
大皿に盛られた焼き肉。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパンに、香ばしい野菜炒め。
それだけじゃない。
名前も聞いたことのないような、豪華な料理まで並べられていく。
気づけば、テーブルはあっという間に皿で埋め尽くされていた。
目の前の光景に、思わず目を見開く。
「これ……全部、俺たちの分か?」
彼女は小さく微笑んだ。
「ええ」
そう言って、メインの皿を一つ、俺の前へと差し出す。
「どうぞ召し上がって」
その一言で、体の固まりが一気にほどけた。
腹がぐうっと鳴る。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「……いただきます」
作法なんて気にしていられない。
俺はすぐにナイフとフォークを掴んだ。
まず狙ったのは、分厚い肉だ。
荒く切り分け、そのまま口へ運ぶ。
――うまい。
噛んだ瞬間、肉汁が溢れた。
柔らかくて、熱くて、味が濃い。
思わず目を見開く。
(なんだこれ……!)
今まで食ってきた硬いパンとは、まるで別物だ。
舌が、一気に塗り替えられていくような感覚。
そこからはもう止まらなかった。
肉を頬張り、パンにかじりつき、スープで流し込む。
また肉に手を伸ばす。
ただひたすら、食う。
夢中で食べていて、向かいにいる彼女のことすら忘れていた。
「どう? 美味しい?」
その声で、はっと我に返る。
俺は慌てて頷いた。
「これ、すごく美味い!」
だが口いっぱいに肉を詰め込んでいたせいで、うまく喋れない。
「おれ、しゅごくおいひぃ……」
頬がぱんぱんに膨らんでいる。
……一瞬の沈黙。
それを見て、彼女はくすっと笑った。
「食べてる間は、無理に話さなくていいのよ」
俺は固まる。
顔がまた一気に熱くなった。
「んぐっ……」
慌てて飲み込み、ようやく息をつく。
それから、ぎこちなく彼女の方をちらりと見た。
彼女はまだ微笑んでいる。
楽しそうに――まるで俺の食べっぷりを面白がっているみたいに。
しばらくのあいだ、穏やかな沈黙が続いた。
やがて、彼女が口を開く。
「あなたって、面白いわね」
俺は熱いスープにむせた。
「お、面白い?」
彼女はくすりと笑い、軽く頷く。
「もしよかったら……名前、教えてくれる?」
俺は口の中のものを飲み込み、息を整える。
「俺はシグだ」
この世界に来てから使っている名前だ。
ヴォルレスティアでは、名前はシンプルでいい。
余計な飾りはなく、短い呼び名が普通だ。
彼女はゆっくり頷いた。
「シグ、ね……」
その響きを確かめるように、もう一度小さく繰り返す。
そして、やわらかく微笑んだ。
「私はヴィオナよ」
その名前は、彼女にぴったりだった。
美しくて、どこか上品で。
少しの間。
ヴィオナはふと真顔になる。
「シグ」
まっすぐ俺を見つめて――
「……私と、友達になってくれる?」
俺はまばたきした。
突然の申し出に、一瞬思考が止まる。
……だが、迷うまでもなかった。
断る理由なんてない。
俺は力強く頷く。
「ああ、もちろん」
ヴィオナは満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ……」
右手を軽く上げる。
「オープンメニュー」
次の瞬間――
ぱっと、空中にメニューが展開された。
青く光る半透明のパネル。プレイヤーにしか見えないシステム画面だ。
ヴィオナは[フレンド]タブを開く。
一覧が表示され、その中から検索アイコンをタップした。
仮想キーボードが浮かび上がる。
指先が素早く動く。
[S H I G]
次の瞬間、俺の名前が表示された。
……なんだか妙な気分だ。
自分の名前が、他人の画面に載っているのを見るのは。
ヴィオナは迷いなく操作する。
[フレンド申請]
ディン。
軽い通知音が鳴った。
俺は視界の端に目を向ける。
小さなパネルが表示されていた。
[ヴィオナからフレンド申請が届きました]
その下に、二つのボタン。
[承認] [拒否]
俺は迷わず[承認]を押した。
パネルはすっと消える。
ほぼ同時に、ヴィオナの側にも通知が届いたらしい。
彼女は軽く目を細めて微笑んだ。
「ありがとう」
そう言って、[×]をタップする。
青いパネルは粒子のようにほどけ、そのまま空中に溶けて消えていった。
ふっと、場の空気が和らぐ。
なぜか、胸の奥が少し軽くなった。
この世界に来てから、ずっと一人だった。
狩りも、回復も、生き延びるのも――全部。
……でも今は違う。
少なくとも、この世界で繋がっている相手が一人いる。
ヴィオナは頬杖をつき、興味深そうな青い瞳で俺を見つめた。
「ところで、シグ」
「ん?」
「さっき、ずいぶん小さいダークストーンを換金してたわよね?」
俺は気まずさを誤魔化すように、ぎこちなく笑う。
「ああ……俺、そんなに強いプレイヤーじゃないからさ」
後頭部をかきながら、正直に答えた。
「キル数も少ないし、ドロップも全然出なくてさ。一個手に入れるのに、ほぼ一週間狩りっぱなしって感じだ」
ヴィオナはすぐには答えなかった。
ただ黙って、俺の表情を見つめている。
だが、その目に嘲りや軽蔑はなかった。
むしろ、どこかやわらかい光を宿している。
やがて、彼女はふっと微笑んだ。
「一匹に一週間、ね……」
じっと俺を見つめる。
その笑みは、不思議と人間らしく感じられた。
「気になるわ。どうやって、ここまで生き延びてきたの?」
俺は肩をすくめて笑う。
「正直……俺にもわからない」
次の瞬間、俺たちは同時に吹き出した。
笑い声が、食堂のざわめきに溶けていく。
気づけば、テーブルの皿はすっかり空になっていた。
この世界に来てから初めて、まともに腹が満たされた気がする。
視界の端で、緑色のテキストが点滅した。
[スタミナ回復:100%]
[パッシブバフ「満腹」発動:120分間、HPリジェネ+2/秒]
体の奥から、じんわりと温かさが広がっていく。
さっきまでの疲れが、すっと軽くなった。
ヴィオナは優雅にハーブティーを口に運び、静かにカップを戻す。
俺は少しだけ彼女を見つめてから、口を開いた。
「ごちそうしてくれて、本当にありがとう」
心からそう言う。
「こんなに満たされたの、久しぶりだ」
ヴィオナは小さく微笑んだ。
「お礼よ。金貨、返してくれたでしょ」
「クエスト報酬だと思って」
そう言って、ちらりと時間を確認する。
「そろそろ行かなくちゃ。ギルドで用事があるの」
俺も立ち上がり、軽く頷いた。
「ああ。気をつけてな」
「あなたもね」
彼女はやわらかく微笑む。
「この世界、ソロにはちょっと厳しいから。何かあったら、遠慮しないでメッセージ送って。いい?」
そう言って手を振り、食堂を出ていく。
やがて、その姿は街の喧騒に紛れて見えなくなった。
俺は小さく息をつく。
……やっぱり、住む世界が違う。
今の俺とは、いる場所がまるで違う。
それでも――
この世界に来てから初めて、
誰かとちゃんと話した気がした。
NPCじゃない。
見下してくる連中でもない。
ただ、普通に接してくれる相手。
……ヴィオナみたいなやつと、繋がれたこと。
それが、少しだけ嬉しかった。
***




