第1章:ルーキープレイヤー
ダンジョン第二階層。
「ハァ……」
荒い息を吐く。
白い吐息は、凍てついた空気に溶けてすぐに消えた。
背中が、冷たい石壁へとずり落ちる。
ざらついた感触が、じわりと伝わってくる。
手が震える。止まらない。
唾を飲み込み、呼吸を整える。
そして――壁の陰から、ゆっくりと覗き込んだ。
薄暗い廊下の中央に、影が立っている。
ゴブリンだ。
初心者の練習台にされる、最下級のモンスター。
小柄で痩せた体。
くすんだ緑の肌。
長く曲がった鼻に、横へ垂れた耳。
右手には、錆びた短剣。
だが――目の前のゴブリンは、どこかおかしかった。
その目が、赤く光っている。
普通の赤じゃない。狂気を宿した、濃い深紅。
それだけじゃない。
体が――時折、点滅する。
まるで壊れたモニターのように。
一瞬だけ、激しく歪み――すぐに元に戻る。
現実そのものが、バグっているみたいだった。
ダンジョンに入ってから、こんな異常は初めてだ。
ゴブリンはふらつきながら歩き、
俺を探るように、頭を左右へ小刻みに動かしていた。
「あと少しだ……」
小さく呟き、頭上に浮かぶ線――HPバーを睨む。
プレイヤーにしか見えないインターフェースだ。
緑のゲージは、すでに半分まで削れている。
……このゴブリンのHPを半分削るのに、どれくらいかかったと思う?
答えは――最悪だ。
一時間。
ほぼ丸一時間、命を懸けて戦っていた。
普通なら、ゴブリン一匹にここまで時間はかからない。
むしろ、笑い話にもならない失態だ。
だが――
俺みたいな低ステータスのプレイヤーにとっては、これが現実だ。
受け入れるしかない、クソみたいな現実。
モンスター狩りは、そんなに甘い日課じゃない。
まして――俺みたいな三流のソロプレイヤーなら、なおさらだ。
パーティーなんてない。
致命傷を受け止めるタンクも、傷を癒すヒーラーも、隙を埋めてくれる仲間もいない。
一歩でも間違えれば――死ぬ。
ゲームオーバーだ。
それだけの、単純で残酷な世界。
皮肉なことに――
俺は、どうしてここにいるのかさえ知らない。
ある日、目が覚めたら、すべてが消えていた。
記憶も、家族も、過去の痕跡も。
気づけば、名もない街に立っていた。
ファンタジー世界のど真ん中に、“スポーン”された十八歳。
ダンジョンとモンスターに支配され、命の価値すらレベルで決まる世界だ。
正直に言えば――
選べるなら、平和に、のんびり暮らしたかった。
だが、この世界はそれを許さない。
狩りをやめれば、コインは手に入らない。
食料も買えない。
そして――飢える。
モンスターに殺される前に、餓死するだけだ。
グゥゥゥ……
――音が鳴った。
反射的に息を殺し、体が強張る。
……だが違う。
そのうなりは、ゴブリンじゃない。
――俺の腹だ。
「あぁ……クソ……」
ねじれる腹を押さえ、低く吐き捨てた。
夜明けから、何も食っていない。
断食じゃない。
ただ――金がない。
財布は空っぽだ。
この街でも、底辺のプレイヤーだろう。
最後に短剣でモンスターを仕留めてから――
もう一週間。
一週間で、一匹。
……笑えない。
素人は、ソロプレイヤーって響きに憧れるかもしれない。
英雄的で、自立していて――一人でダンジョンを制覇できる、強者。
だが、現実は違う。
大半のソロプレイヤーは――
市場価値ゼロの、底辺だ。
パーティーでの狩りの方が、圧倒的に効率がいい。
安全性も高いし、死ぬリスクも抑えられる。
経験値は分配される。
だが、その分、狩りの回転が段違いに上がる。
――じゃあ、なぜ俺は組まないのか?
答えは簡単だ。
誰も、俺を拾わない。
レベルは低い。
ステータスも終わってる。
あいつらの目には――
俺はただの足手まといだ。
レイドを潰すだけの、邪魔者にしか見えていない。
「ハァ……」
胸の迷いを吐き出すように、息をつく。
ゆっくりと、石壁の向こうを覗く。
ゴブリンの動きを観察する。
選択肢は、ほとんどない。
ステルスは無理だ。
この低いアジリティじゃ、話にならない。
残るのは――タイミングだけ。
ゴブリンは、今、背を向けている。
チャンスだ。
心臓が跳ねる。
アドレナリンが全身を駆け巡る。
「今だ」
小さく呟き、短剣の柄を握り込む。
爪が白くなるほどに。
次の瞬間、踏み出した。
ザッ――
靴底が石を擦る音。
ゴブリンが反応する。
首が――あり得ない角度で振り向いた。
壊れたような、不自然な動き。
赤い目が――俺を捉えた。
「グギャァァ!!」
奴が錆びた短剣を横薙ぎに振り抜く。
身をかがめる。
刃が、頭上すれすれを通り過ぎた。
予想通りだ。
横薙ぎの下には、わずかな隙がある。
転がり込む。
死角へ入り――足の腱に短剣を突き立てた。
3 ダメージ。
HPがわずかに削れる。[ HP: 98/200 ]
……たったの3かよ。
クソッ。防御が硬い。
普通のゴブリンじゃない。
引き抜く間もなく――反撃。
錆びた刃が、腕を裂いた。
ザシュッ!
8 ダメージ。
[状態異常:出血(軽度)— 1HP/秒(5秒)]
ヒリッとした痛みが走る。
だが、視線は自分のHPに張り付いていた。
[HP:12/110]
ゲージは濃い赤に染まり、点滅している。
あと一撃、まともに食らえば――終わりだ。
モンスターは、考える暇をくれない。
再び、襲いかかってくる。
だが――
何かがおかしい。
ゴブリンの体が、突然グリッチする。
動きが、歪む。
まるで壊れたゲームみたいに。
この次元から、無理やり引き剥がされたような――
「なんだってんだ……」
俺は奴の顔めがけて、土を一握り投げつけた。
――目潰しだ。
当たった。
モンスターがうめき、動きが乱れる。
その隙を逃さない。
無我夢中で、斬りつける。
3 ダメージ。
3 ダメージ。
[HP:92/200]
……まだ硬い。
スタミナが黄色に落ちても構わず、攻撃を畳みかける。
泥にまみれた、取っ組み合いだ。
奴が短剣を落とす。
その瞬間――馬乗りになる。
迷わない。
心臓めがけて、短剣を突き立てた。
体重をかけて、押し込む。
奴は両手で刃を掴み、必死に止めようとする。
だが――
指の隙間から、生ぬるい血が溢れた。
4ダメージ。
4ダメージ。
4ダメージ。
4ダメージ。
ダメージの数字が、次々と弾ける。
手は、緩めない。
奴の体を地面に縫い付けたまま、
突き立てた短剣を――押し込み続ける。
命を、削る。
[ HP:76... 72... 68... 64 ]
4ダメージ。
4ダメージ。
4ダメージ。
4ダメージ。
手が痺れてくる。
それでも、止めない。
やがて――HPがゼロに落ちた。
「……はぁ」
安堵の息が漏れる。
本来なら、ここで終わりだ。
体は光の粒子となって、消えるはず――
だが。
ブブブッ!!
耳障りなノイズが弾けた。
俺の下で、ゴブリンの体が激しく震える。
頭部が、不規則に膨張と収縮を繰り返す。
緑の肌が――崩れていく。
まるで、バグったデータみたいに。
[ Critical System Error: Entity ID_G02_004 malfunction ]
[ Restarting Vital Logic... ]
空だったHPが――一気に100%まで回復する。
「はぁ!?冗談だろ!!」
理解する暇もない。
次の瞬間、胸を蹴り飛ばされた。
体が宙を舞い――
そのまま壁に叩きつけられる。
肺が潰れるかと思った。
4 ダメージ。
[HP:3/110]
視界が揺れる。
……勝てるわけがない。
何度も全回復する化け物相手に、
このHPで――
残り、3。
つまずくだけで、終わる。
あいつは、さっき手放した短剣を拾い直している。
この状況で――出口を探す。
逃げる?無理だ。
倒す?……それしかない。
「ハァ……」
深く息を吐く。
わずかに、落ち着きを取り戻す。
こんな戦いは、今に始まったことじゃない。
ゴブリンとやり合うたび、
俺は何度も死の淵に立たされてきた。
それでも――生きている。
理由は、三つ。
集中。
敵の動きを読む。
そして――体に叩き込む。
ミスは、許されない。
一つでも隙を見せれば――終わりだ。
これが、デスゲーム。
たとえ奴が何度も回復しようが――
終わらないゲームなんて、存在しない。
いずれ、必ず限界が来る。
しかも、あいつは明らかにおかしい。
気づいていないだけで――自分で自分を壊している。
これは、ただのモンスターじゃない。
壊れたユニットだ。
「だったら――そのシステムが音を上げるまで、壊してやる!」
再び、突っ込む。
もう、防御は捨てた。
目を見開き、奴の動きを追う。
一瞬たりとも、見逃さない。
瞬きすら、しない。
集中が、極限まで研ぎ澄まされていく。
――その時。
視界に、システム通知が割り込んだ。
[ 実績スキルを獲得! ]
《 Watcher on Death's Edge(死の淵の監視者)》
発動条件:
HPが10%以下になると発動。
効果:
敏捷性・集中力・移動速度が100%上昇。
フレーバーテキスト:
「死に近づくほど、人は速くなる」
効果は、すぐに現れた。
自信が、一気に高まる。
集中を切らさず――さらに踏み込む。
奴が動く。
その瞬間、攻撃の軌道を頭に叩き込む。
足を止め、体をひねる。
刃が、すぐ脇をかすめた。
PERFECT DODGE!
間髪入れず、懐に潜り込む。
そのまま――首へ。
CRITICAL HIT!
8ダメージ。
口元が、わずかに歪む。
やはりだ。
急所に入れば――当たる。
クリティカル率なんて関係ない。
当てれば、確実にクリティカルになる。
奴が反撃してきた瞬間――
考えるより先に、体が動いた。
横薙ぎの一撃。
反射的に、体を反らす。
ほぼCの字だ。
刃が、顔のすぐ前をかすめる。
ほんの数センチ。
PERFECT DODGE!
すぐに体勢を戻し、懐へ踏み込む。
そのまま――胸へ突き立てた。
CRITICAL HIT!
8ダメージ。
狂ったループに、閉じ込められている。
HPが減る。
グリッチが起きる。
そして――また全回復。
何度も、何度も。
体が壊れそうになるまで、斬って、避ける。
一度。二度。三度――
四度目のリセット。
システムも、限界に近い。
奴の体が、またグリッチする。
だが――今度は回復しない。
HPは減り続け――
ついに1で止まった。
……チャンスだ。
同時に、奴が動く。
攻撃パターンは、もう読めている。
体が反射的に動く。回避。
その瞬間――
まただ。
グリッチ。
攻撃の途中で、動きが変わる。
「くっ……クソ……!」
俺の足が止まる。
奴の攻撃が、まっすぐ俺に向かってくる。
その瞬間、理解した。
残りHP3――
これを、今ここで終わらせなければ死ぬ。
全力で踏み込む。
短剣を胸へ――
だが、届かない。
すべてが遅くなる。
時間が、止まったように感じる。
死の淵に立たされているのを、ただ見ているようだ。
思考だけが加速する。
あと3秒で――死ぬ。
いや。
諦めない。
その衝動――生き残りたいという意志が――
俺の体を、グリッチさせた。
次の瞬間。
短剣は、すでに奴の胸に突き刺さっていた。
時間が、再び動き出す。
俺たちは向かい合っていた。
互いの武器が、相手の体を貫いたまま。
どちらが先に倒れるのか――分からない。
それとも。
同時に、終わるのか。
ピキッ!
ゴブリンの体と――俺の体に、光の亀裂が走る。
ゆっくりと、その亀裂が広がっていく。
全身へと侵食していくように。
だが――
先に崩れたのは、ゴブリンだった。
砕ける。
光の破片となって、消滅する。
その瞬間。
システム通知が浮かび上がった。
+100 EXP
LEVEL UP!
[ HP&スタミナ全回復 ]
光が、俺の体を包む。
温かい。
傷が、一瞬で塞がっていく。
疲労も――最初からなかったように消えた。
……助かった。
あのレベルアップが――今、俺を死から救った。
俺はその場にへたり込む。息が上がっていた。
まるで、この世界そのものと戦っていたようだ。
そのとき。
システム通知が浮かび上がる。
[ユニークアイテム獲得]
レベル2のモンスターからドロップ……?
あり得ない。
俺は通知をタップした。
情報パネルが開く。
縁に、微かなグリッチ。
《 Curse of Death(死の呪い)》
種類:呪われた装飾品
効果:「Undying Will」 ユーザーがこのアイテムを装備している時、一撃で最大HPを超える致命的な攻撃(One Hit Kill)を受けた場合、HPは即座に100%まで回復する。
バフ:
「Undying Will」が発動するたび、ユーザーは以下を獲得する。
攻撃力+10%
クリティカル率+5%
クリティカルダメージ+10%
このバフは最大10スタックまで重ね掛け可能。 各スタックは30分間持続する。 10回の発動に達した時、ユーザーのHPは30分間強制的に1になる。 その後、「Undying Will」は24時間のクールダウンに入り、再発動することはできない。
俺は目を丸くした。
ぶっ壊れアイテムだ。
効果は、さっきのゴブリンとほぼ同じ現象を引き起こしている。
これを装備すれば――ほぼ不死、ということか。
「……チートか?」
考えるより先に、俺は『装備』を押した。
次の瞬間、冷たい金属の輪が首に現れる。
首から全身へ、冷気が広がっていく。
俺は思わず笑った。
――ようやく、運が向いてきたか。
だが。
メニューを開いた瞬間、その笑みは消えた。
[ 装備: Curse of Death ]
[ WARNING: Item cannot be unequipped ]
[ Status: Soulbound / Error_Code_404 ]
俺は呆然とした。
『装備解除』ボタンを押そうとする。
だが、赤いグリッチに覆われ、ロックされていた。
外す選択肢はない。
破壊の項目すら、メニューから消えている。
「……え?」
もう一度試す。
インベントリを開き、他の装備との交換を試みる。
結果は同じだ。
アクセサリースロットに触れるたび、UIが不安定に点滅する。
「バグか……? それとも呪いか……?」
俺はその場に立ち尽くした。
首の金属の輪は、まるで最初からそこにあったかのように馴染んでいる。
嫌な予感が、胸の奥を侵食していく。
不死を得たはずだった。
だが同時に――自由を失っていた。
第二階層の闇の中で、気づく。
コードに支配されたこの世界では、たった一つのバグが――救いにも、地獄にもなる。
***




