第27章:交錯
オリオン視点
***
この広い部屋の空気は、いつもより冷たく感じられた。
まるで石造りの壁が、残された僅かな温もりさえ奪い取っているかのようだった。
部屋の中央には、無垢のオーク材で作られた円卓が鎮座している。
その周囲には、オルニムスを治める者たちのために用意された七つの椅子。
それぞれに複雑な彫刻が施された、重厚な造りの椅子だった。
だが――。
その七つの椅子のうち、埋まっているのは四つだけ。
残る三つは空席のままだった。
まるで、この緊急の集まりそのものを嘲笑うかのように。
俺は椅子の背もたれに身体を預け、この部屋に集まった三人のプレイヤーへ順番に視線を向けた。
部屋を満たす沈黙は、ひどく不快だった。
「なぜ、俺たち四人しか集まっていない? 他の連中はどこだ?」
重い沈黙を破るように、俺は口を開いた。
声が高い天井へ響き、静かな部屋へと消えていく。
俺の向かいに座るレオンが、小さく鼻を鳴らした。
足を組み、腕を胸の前で組んでいる。
その態度には、いつもの傲慢さが滲んでいた。
「さあな。おそらく、今回の会議を重要なものだと思っていないんだろうさ」
レオンは見下すように笑った。
「まあ、こんな急な呼び出しにわざわざ応じるほど暇じゃないってことだろ」
その口元には、皮肉な笑みが浮かんでいた。
レイヴンが身体をずらすと、重い鋼のプレートが擦れ合う音が響いた。
この男は、まるでここが会議室ではなく戦場であるかのように、完全武装した姿でこの場に現れていた。
鋭い目が、まっすぐダリウスを見据えている。
「この会議が、くだらない話をするためのものじゃないことを願う」
レイヴンは低い声で言った。
「俺には、そんな暇はない。今日、俺たちのパーティーはダンジョンの深層へ遠征する予定なんだ」
その声には、苛立ちが滲んでいた。
会議の主催者として上座に座るダリウスは、ゆっくりとこめかみを揉んだ。
いつもなら、この男が真っ先に仲裁役を務める。
だが、こうして集まったエリートたちのエゴを抑えるのが簡単ではないことを、俺も知っている。
ダリウスは咎めるような視線を俺たち一人一人へ向けた。
「ここでは、大人として振る舞ってもらいたい」
静かだが、逆らうことを許さないような声だった。
「この街で最高クラスのエリートプレイヤーである以上、俺たちにはオルニムスの秩序について話し合う義務がある」
ダリウスは一度、言葉を切った。
「俺たちはもう、ダンジョンの攻略や自分の利益だけを考えていればいい初心者じゃないんだ」
レオンは目を細めた。
どうやら、ダリウスの説教じみた話に退屈しているらしい。
「いいから、さっさと本題に入れ」
レオンが苛立ったように言った。
ダリウスは深く息を吐いた。
「この会議を始める前に、アテナ嬢が来るのを待たなければならない」
レオンの表情が、あからさまに曇った。
「まだ待つのか?」
舌打ちを一つ。
「彼女が来てから俺たちを呼べばよかっただろ。俺の時間は、この部屋の壁を眺めて過ごすほど安くないんだ」
「お前も知っているだろう」
ダリウスは苛立ちを抑えながら答えた。
「神の使いである彼女の行動を、誰かが制限することはできない。まして、命令することなどな」
レオンは身体を前へ乗り出し、探るような目でダリウスを見た。
「一体、あの女はこの街に何の用がある?」
「自分の神の教えでも説きに来たのか?」
レオンは鼻で笑った。
「俺たちはプレイヤーだぞ。剣とスキルで戦うんだ。祈りなんかで戦うわけじゃない」
その時だった。
出入り口から、静かな足音が聞こえてきた。
なぜか、部屋の空気がさらに冷たくなったように感じる。
両開きの木製の扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうから、一人の女が姿を現した。
黒いローブ。
そして、顔を覆う薄い黒布。
「私がこの街にいる理由は――」
アテナは静かに口を開いた。
「あなた方プレイヤーを、正しい道へ導くためです」
その声は柔らかかった。
だが、不思議と耳に残る。
「あなた方をこの世界へ召喚した神。その御方が定めた規則に従うために」
アテナはそのまま部屋へ入ってくる。
レオンの敵意に満ちた視線にも、レイヴンの警戒するような視線にも、まるで動じる様子はない。
ダリウスはすぐに席を立ち、敬意を示すように軽く頭を下げた。
「アテナ嬢、待っていたよ。座ってくれ。すぐに会議を始めよう」
アテナは軽く頷き、空いている椅子の一つに腰を下ろした。
レオンは相変わらず顔を背けていたが、彼女が席に着くと、その反抗的な態度もわずかに和らいだ。
レイヴンは鋼の彫像のように沈黙を保っている。
俺は前を見据えたまま、ダリウスが俺たち全員を集めた本当の理由を待っていた。
アテナが席に着いたのを確認すると、ダリウスは改めて口を開いた。
先ほどまでの余裕は、もう表情から消えていた。
こうして、ようやく会議が始まった。
「些細な問題で君たちを呼んだわけではない」
ダリウスの声が、静かな会議室に響き渡る。
彼は両手を円卓に置き、俺たちを見渡した。
「今日、俺たちは三つの問題について話し合う」
一度、言葉を切る。
「第一に、フレデン領を突然襲った異常な冬。第二に、この街で不安と恐怖を広げているヴォイドフェイスの存在だ」
ダリウスは少し間を置いた。
俺たちがその二つの問題を理解したのを確かめるように、一人ずつ視線を向ける。
やがて、その表情がさらに険しくなった。
「そして第三に……プレイヤーの出現に起きている異常だ」
彼は再び口を開いた。
「通常、新しいプレイヤーはこのフレデン領に一か月に一度ほどの頻度で出現する。だが、今回は違う。半年前から、新しいプレイヤーが一人も現れていない」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
「その一方で、命を落とすプレイヤーは後を絶たない。このまま何も対策を講じなければ、いずれプレイヤーは絶滅しかねない」
会議室が静まり返った。
レオンでさえ、すぐには皮肉を口にしなかった。
俺たちは皆、何かがこの街の外に潜み、少しずつプレイヤーを追い詰めていることを理解していた。
やがて、レオンが小さく鼻を鳴らし、面倒そうに片手を挙げた。
「そのヴォイドフェイスなら、俺が片付けてやるよ」
苛立ちを滲ませた声だった。
彼は身を乗り出し、まるで大した問題ではないと言わんばかりにダリウスを見た。
「他のプレイヤーがあれほど恐れているってことは、どれだけ大層な奴なんだ? どうせ他人のアイテムを奪いたいだけの負け犬だろ。俺に任せろ」
レオンは、さっさと話を終わらせてこの退屈な会議室から出ていきたいようだった。
ダリウスは険しい目でレオンを見据えた。
「ヴォイドフェイスは、ただのPKじゃない。奴を相手にするときは、もっと慎重になれ、レオン。自分の理解できないものを甘く見るな」
レオンが鋭い視線を返そうとした、そのとき。アテナの声が二人の間に割って入った。
「この街に現れたヴォイドフェイスは、私の知るヴォイドフェイスとは別物です」
穏やかな声だった。だが、その場にいる全員の注意を引きつけるだけの重みがあった。
「彼らは単にアイテムを奪っているだけではありません。別の目的を持ち、他の街からやってきたプレイヤーたちのようです」
レオンは薄く笑うと、拳を握り込んだ。指の関節がポキポキと鳴る。
「同じことだ! 何者だろうが、俺が全員ぶっ殺してやる!」
その言葉を聞いて、俺も黙ってはいられなくなった。
短く息を吐き、俺はようやく口を開いた。
「なら、俺がヴォイドフェイスに対処した方がいいだろう」
何気なくレオンに目を向けると、奴はすぐさまこちらを振り向いた。
「お前たちも分かっているはずだ。レオンが動けば……たった一人のプレイヤーをぶちのめすために、街の一角を破壊しかねない」
レオンの顔色が一変した。
「はぁっ!? どういう意味だ、オリオン!」
自分のプライドを傷つけられたのが、よほど気に入らなかったらしい。
だが、ダリウスはレオンの怒りなど意に介さず、俺を見てゆっくりと頷いた。
街の修復費用まで考えれば、妥当な判断だろう。わざわざ余計な出費を招く必要はない。
「君の言う通りだ。ヴォイドフェイスの件は君に任せる、オリオン」
ダリウスはそう言い切ると、レオンがさらに口を挟む前にアテナへと視線を移した。
「ところで、この冬のことだが……アテナ嬢は何か知っているのか?」
アテナはまっすぐ前を見据え、しばらく沈黙したあと、口を開いた。
「はい。これは人為的に引き起こされた冬です。南の竜王の力が原因となっています」
その言葉を聞いた瞬間、ただでさえ冷え切っていた部屋が、さらに冷たくなったように感じた。
「南の竜王だと!?」
俺たちはほぼ同時に声を上げた。
先ほどまで黙っていたレイヴンでさえ、思わず身を起こした。鋼の鎧が甲高い音を立てる。
「フリゴリス・イグニス。それが彼女の真の名です」
俺たちの反応を意に介さず、アテナは淡々と続けた。
「この世界に永遠の冬をもたらす力を持つ、南の支配者です。現在、フリゴリス・イグニスがフレデン領に滞在しているか、あるいは通過している可能性があります。彼女はあらゆる熱を吸収する能力を持っています。その影響で、フレデン領一帯の気温が急激に低下しているのでしょう」
レイヴンが身を乗り出した。闘争心を刺激されたのか、その目には明らかな熱が宿っている。
「それで、どうする? この冬を止めるには、そいつを倒すしかないのか?」
アテナはレイヴンに視線を向けた。
「その必要はありません。それに……あなた方全員が力を合わせたところで、彼女を倒すことは不可能です」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「彼女は、この世界を支える四つの柱の一つです。もし彼女が消滅するか、殺されれば、世界の均衡が崩れてしまいます。北の竜王が放つ極端な熱波を相殺できる存在も、いなくなるでしょう」
再び、部屋に沈黙が落ちた。
南の竜王を殺せば、世界の均衡が崩れる。
かといって、この冬を放置すれば、いずれ凍死者が出る。
どちらを選んでも、代償は大きい。
「つまり、この冬を止める方法は他にないのか?」
俺は、この行き詰まった状況を打開する手がかりを探るように尋ねた。
「この件に対処できる知り合いがいます」
アテナの声には、先ほどまでの張り詰めた響きがわずかに薄れていた。
「彼女は竜たちに祝福された女性――竜祝女です。ルナという名のプレイヤーで、竜や竜王を鎮める力を持つ聖なる歌を歌うことができます」
ダリウスは深く息を吐いた。張り詰めていた表情も、いくらか和らいでいる。
「それは助かる。世界を支える神話級の存在と、直接やり合わずに済むのはありがたいな」
そう言ってから、ダリウスは姿勢を正した。だが、最後の議題を思い出したのか、その表情は再び曇った。
「残る問題は、このフレデン領で新しいプレイヤーがまったく現れなくなったことだ。アテナ嬢、その原因について何か知っているか?」
この部屋に入ってから初めて、アテナは俺たちの視線を避けた。
彼女はわずかに目を伏せてから、静かに答えた。
「申し訳ありませんが、この件について、何が起きているのかをお話しすることはできません」
その声からは、先ほどまでの柔らかさが消えていた。まるで神の言葉を伝えるかのような、厳かな響きだった。
「これは神々の絶対的な権限に関わることです。私はインクイジターとして、法の執行を監督する立場にあります。ですが、神々の啓示を伝える者ではありません。ただ……」
アテナは再び顔を上げ、俺たち一人ひとりに視線を向けた。
「……心配する必要はありません。新しいプレイヤーの召喚が止まっていることは、悪い兆候ではありません。ましてや、この世界の終わりを意味するものでもありません」
ダリウスはしばらくアテナを見つめていた。神の使いが口にした言葉の裏に、嘘や隠された事情がないか探っているようだった。
やがて、彼は諦めたように小さく頷いた。
この世界では、神の意志を剣や魔法で覆すことなどできない。それは、俺たち全員が理解していることだった。
「そうか……なら、仕方ないな」
ダリウスは席を立ち、俺、レオン、レイヴン、そしてアテナへと順に視線を向けた。
「少なくとも、目の前の脅威に対する方針は決まった。よし、今回の会議はこれで終わりにしよう」
***
ギルドの拠点に戻ると、部屋の隅に設置された大きな暖炉が、室内を暖めていた。
だが、先ほどの会議室で感じた冷気は、まだローブにまとわりついているようだった。俺の心に残った緊張も、簡単には消えてくれない。
俺の前には、パーティー内でも特にレベルの高い八人のプレイヤーが一列に並んでいた。全員の表情が硬く、俺の指示を待っている。
俺は今回の状況を手短に説明し、それぞれに指示を出した。
一人ずつ顔を確認していくと、列の少し後ろに立つ銀髪の少女が目に留まった。
「イリーナ、お前も俺たちと一緒に来い」
俺がそう告げると、イリーナはびくりと肩を震わせた。
「えっ、私ですか?」
彼女は自分を指差し、青白い瞳を丸くしている。
無理もない。イリーナは前線で戦うタイプのプレイヤーではなかった。特殊な能力を持つサポート役であり、PK討伐の任務に同行することはほとんどない。
「ああ、お前だ」
俺は彼女の目を見て、はっきりと頷いた。
「お前のユニークスキルなら、俺たちの助けになる。誰かの記憶の断片を読み取れるんだったな?」
イリーナが頷くのを確認してから、俺は続けた。
「奴を捕まえたら、その仮面の下に隠された正体と、何を企んでいるのかを突き止めたい。そのために、お前の力が必要なんだ」
イリーナはしばらく黙っていた。やがて、自分に与えられた役目を受け入れるように、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。お任せください、オリオン会長」
全員が指示を理解したことを確認すると、俺たちは出発に向けて準備を始めた。
回復薬にマナ回復薬、そして武器の状態まで、それぞれがインベントリの中身を確認していく。
ギルドの拠点を離れるのは、まるで拷問のようだった。
南の竜王がもたらした異常な冬は、決して冗談ではない。吐く息は白く凍りつくように感じられ、冷気が骨の髄まで染み込んでくる。
俺たちは九人でまとまって行動を開始した。
数時間にわたり、街の門の外を巡回し、南部の森を探索した。薄い霧と肌を刺すような風の中、雪を踏みしめながら進んでいく。
全員が周囲を警戒し、雪上に残された不審なテントや、〈Voidface〉の足跡を探していた。
だが、何も見つからなかった。
〈Voidface〉は、まるで吹雪に呑み込まれたかのように姿を消していた。足跡すら残っていない。
普段なら、オルニムスの街の外でクエストをこなすプレイヤーを狙っているはずだ。だが今回は、俺たちを襲う気配さえなかった。
寂れた交差点で足を止め、俺は白い息を吐きながら長く息をついた。
この天候の中、九人全員で行動するのは効率が悪い。移動速度が落ちるうえ、敵にも見つかりやすくなる。
「全員での探索はここまでだ」
風を避けるようにローブをかき寄せる八人を見渡し、俺は決断を下した。
「これだけの人数で動いていれば、ヴォイドフェイスも警戒して近づいてこないだろう。探索範囲を広げて奴らを誘い出すため、四つのチームに分かれる」
俺は全員の能力を考慮しながら、各チームの編成を決めていった。攻撃と防御のバランスを取り、どのチームも単独で行動できるようにする。
九人を四つに分ける以上、一つのチームは三人になる。
「ルークとヴェイルは東、ノエルとアランは南、ケイルとレインは西を担当しろ。ヴォイドフェイスを見つけたら、すぐに俺に連絡を入れろ。絶対に一人で無謀な戦いをするな」
「俺とルイス、それにイリーナは北を担当する」
俺は背の高い剣士と、その隣に立つ銀髪の少女へ交互に視線を向けた。
***
俺たちは、オルニムス北部の人影もまばらな街外れを進んでいた。
凍てつく空気の中、古木の間を吹き抜ける風が、笛のような音を立てている。
その轟音に紛れて、俺の耳が別の音を捉えた。
金属同士が激しくぶつかり合う甲高い音。そして、それに続く爆発音。
俺は足を止めた。
ルイスとイリーナもすぐに俺の異変に気づき、立ち止まる。
「聞こえたか?」
俺が小声で尋ねると、ルイスは黙って頷いた。ゆっくりと剣の柄に手を伸ばしている。
俺たちは音を立てないよう警戒しながら、音のする方へ足早に向かった。
やがて、荒れ果てた神殿の境内が見えてきた。
俺たちは崩れかけた石柱の陰に身を隠し、様子を窺った。
目の前の光景は、オルニムスで囁かれていた不穏な噂を裏付けるものだった。
薄く雪の積もった境内の中央に、一人のプレイヤーが立っていた。
漆黒のローブが風に揺れている。
顔を覆うのは、装飾一つない真っ白な仮面。その奥には、底知れない闇を思わせる目が覗いていた。
右手には、異様な剣が握られている。
刃は血を思わせる濃い赤色に染まり、まるで生き物のように不気味な光を放っていた。金属そのものが呼吸し、殺戮を渇望しているかのようだ。
その姿から漂う殺気は鋭く、肌を刺す冷気さえも、さらに重く感じられた。
間違いない……。
あいつが、今回の異常の元凶――〈Voidface〉だ。
しかし、俺の注意を引いたのは、〈Voidface〉の外見ではなかった。
その足元に、一人の女性プレイヤーが倒れていた。
凍りついた地面に横たわる彼女の顔は青白く、ぴくりとも動かない。意識を失っているようだった。
ルイスが歯を食いしばり、剣を鞘から半ばまで引き抜いた。静かな金属音が響く。
俺はすぐさま片手を上げ、ルイスの肩を押さえて制止した。無闇に飛び込ませるわけにはいかない。
白い仮面から目を離さず、相手との距離を測る。防御の隙を探りながら、いつ戦闘が始まっても対応できるよう身構えた。
一瞬たりとも無駄にはできない。
俺は左手を掲げた。指先からマナが勢いよく流れ出し、凍てつく空中に幾何学模様を描いていく。
「マジックスキル――レクタンギュラー・プリズン!」
俺の声が、神殿の境内に響き渡った。
次の瞬間、青白い光の線が空を走り、透明な直方体の檻を形作った。〈Voidface〉は、立っていた場所から一歩も動けないまま、その内側に閉じ込められる。
魔法の壁が低く唸り、逃げ道を塞いだ。
不意の攻撃に反応した〈Voidface〉が、ゆっくりとこちらを振り向いた。三十メートルほど離れた場所にいる俺たち三人へ、白い仮面が向けられる。
「イリーナ、今だ! ユニークスキルで奴の記憶を探れ!」
俺が命じると、イリーナは俺の背後から一歩踏み出した。その手はわずかに震えている。
「ユニークスキル……メモリー・サイト……」
彼女の瞳が、淡い銀色の光を帯びた。
これで奴の正体が分かるかもしれない。
オルニムスにいる目的も、何を企んでいるのかも。あるいは、奴の背後にいる連中の正体まで突き止められるかもしれない。
そんな期待が脳裏をよぎった直後――。
突然、イリーナが激しく咳き込んだ。
何度かえずいた後、彼女は顔を背け、雪の上に胃の中身を吐き出した。その場に膝をつき、肩を大きく震わせている。
まるで、地獄の底を覗き込んでしまったかのように、彼女は再び〈Voidface〉を見ることができなかった。
「おい、イリーナ! 大丈夫か?」
俺は思わず声を上げ、すぐに彼女のそばにしゃがみ込んだ。
イリーナの顔は死人のように青ざめていた。目は恐怖に見開かれ、焦点も定まっていない。
「あ、あれは……怪物です。人間じゃ……ありません……」
「は?」
思わず声が漏れた。
「一体、何があったんだ?」
ルイスも驚きを隠せない様子で、イリーナに問いかけた。
彼女は口元を両手で覆い、こみ上げる吐き気を必死にこらえていた。呼吸は浅く、荒い。
「見えたんです……。あの男の中に、何百人ものプレイヤーの記憶が渦巻いていました……」
イリーナは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ほんの一部が頭に流れ込んできただけで……気が狂いそうになりました。でも、あいつは……そのすべてを抱え込んでいる……」
言い終える前に、イリーナは再び吐いた。流れ込んできた記憶の奔流に、心も体も耐えきれなかったのだ。
俺の心臓が激しく脈打った。
ダリウスの推測は正しかった。あいつは、ただのプレイヤーキラーじゃない。
俺がその事実を受け止めきれずにいると、不意に、空気が歪むような異音が響いた。
ビジィィィィッ!!
その瞬間、〈Voidface〉が一歩前に踏み出した。
黒いローブをまとったその姿は、まるで幽霊のように、俺が張った四角い魔法の檻をあっさりと通り抜けた。
爆発も、魔法を無効化するような動きもない。
ただ、透明な青い壁を通過する間、その体がちらつき、グリッチのように歪んだだけだった。
『まずい……』
俺は心の中で毒づいた。
隣では、ルイスがすでに剣を抜き、戦闘態勢に入っていた。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
だが、俺の本能が警告を発していた。
相手は一人。こちらは三人。
それでも、ここで戦うのは危険すぎる。
正体も能力も分からない相手に、今の俺たちが正面から挑むのは無謀だった。まして、イリーナはまともに動ける状態ではない。
戦うにしても、もっと情報を集め、準備を整えてからだ。
「撤退する」
俺は静かに、しかし有無を言わせぬ口調で命じた。
すぐにイリーナの体の下へ腕を差し入れ、抱き上げる。彼女はまだ激しいショックから立ち直れていないようだった。
俺の腕の中で身を縮めるイリーナ。その顔には、拭いきれない恐怖が浮かんでいた。
「マジックスキル――ディメンション・ワープ」
俺が唱えると、足元に魔法陣が浮かび上がった。
次の瞬間、俺たち三人の姿はその場から消え、別の場所へと転移した。
***
次回、第28章 「殺意」
新しい章の更新は毎週土曜日です。




