第26章:運命と現実
「ダンジョンは探索しないのか?」
俺はいつもの平坦な声で尋ね、前を歩くヴァンを見る。
「今日はしないよ」
ヴァンは気楽に答えた。
「そこそこ報酬のいい、面白そうなクエストを見つけたんだ」
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
パーティーのリーダーであるヴァンの後について、黙って歩く。
クララとリナも俺の後ろを歩いている。
オルニムスの街には、今日も冷たい風が吹いていた。
その冷気を肌に感じながら、俺たちはクエストの目的地へ向かって歩き続けた。
***
オルニムスの石造りの門を抜けて数分ほど歩くと、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
森が途切れ、白い雪に覆われた草原が広がっている。
さらに進むと、一面が雪に覆われた広大な農地へと辿り着いた。
その畑の中央では、一人の老人NPCが震えながら立っていた。
雪に埋もれた自分の畑を見つめ、途方に暮れているようだ。
パーティーのリーダーとして、ヴァンが真っ先に歩み寄った。
「こんにちは、おじいさん。クエストを受けて来たんですが……」
ヴァンが丁寧に頭を下げる。
その顔を見た瞬間、老人の表情がぱっと明るくなった。
白い息を吐きながら、老人はかすれた声で話し始める。
「若者よ……わしらは、本当にどうすればいいのか分からんのじゃ」
老人は不安そうに畑を見渡した。
「この地域には、もう百年も冬が来ておらんかった」
「だが、今回は……突然、冬が戻ってきおったんじゃ」
そう言って、老人は分厚い雪に覆われた土の山を指差した。
「このジャガイモたちが、この寒さに耐えられるのかも分からん。わしらはもう、冬というものを知らんのじゃ」
老人は困り果てたように眉を下げる。
「だから、凍ってしまう前に収穫したい。どうか……今すぐ、手を貸してくだされ」
ヴァンは広大な畑を見渡し、何かを理解したように頷いた。
「ジャガイモは土の中にあるんですよね?」
「ああ、そうじゃ」
「なら、土が完全に凍る前に掘り起こせば、まだ間に合うかもしれません」
ヴァンはそう言うと、軽く胸を叩いた。
「おじいさん、心配はいりません。俺たち四人で、今からジャガイモの収穫を手伝いますよ」
老人は両手を合わせ、少し涙ぐんだ。
「本当にありがとう。大助かりじゃ。最初は、わしのクエストを受けてくれるプレイヤーなんて、誰もおらんと思っておった」
ヴァンは小さく微笑んだ。
だが、すぐに真剣な表情へ変わり、雪に覆われた畑へ視線を向ける。
「確かに、ほとんどのプレイヤーは収穫や農作業のクエストなんて受けたがらないでしょうね」
ヴァンはそう言って、雪の向こうを見つめた。
「こういう作業は、地味で面倒ですから」
そして、少し間を置いて続ける。
「でも、俺は今のうちに食料を確保しておく方が大事だと思っています」
「この冬がいつまで続くか分かりませんからね」
ヴァンは畑を見渡した。
「もし冬が長引いて、街に十分な食料が残っていなかったら……食糧不足になる可能性だってある」
俺は黙ってヴァンの背中を見つめていた。
時々、自信過剰になるところもある男だ。
だが、今回の考え方は鋭い。
そして、理にかなっている。
俺も同じ考えだった。
生き残るというのは、モンスターを斬り倒すことだけじゃない。
最悪の状況が訪れた時、飢えないように備えておくことも、生き残るためには必要だ。
そんなことを考えている間に、老人は木製のクワと編み籠を俺たちに配っていった。
俺たちはすぐに指定された畑へ散らばり、それぞれ雪に覆われた畝の前に立つ。
まずは、畑の表面を覆っている雪を取り除く。
足首が埋まるほど積もった雪をどかし、土が見えてきたところで、クワをゆっくりと入れていく。
中に埋まっているジャガイモを傷つけないよう、慎重に掘り起こす。
冬の寒さが骨まで染み込んでくる。
氷の粒を運ぶ冷たい風が吹くたび、その寒さはさらに厳しくなった。
クワが土の表面を突き崩すたびに、凍りかけた湿った土が跳ねる。
やがて、土の塊が手袋やブーツを汚していく。
それでも――。
俺たちの誰も、文句を言わなかった。
ヴァンは前衛としての高い物理ステータスを活かし、固くなった土を力任せに掘り返していった。
クワの振り下ろしが少し強すぎることもあるが、その力は大きく、それでいて安定している。
隣の畝では、ヴァンがクワを振るうたびに冷たい泥が跳ね、クララのスカートやコートの裾を汚していた。
「ちょっと! もう少し気をつけてよ!」
時折、クララがヴァンに文句を言う。
それでも、彼女の手は止まらない。
土の中から姿を現し始めたジャガイモを、次々と拾い上げては編み籠へ入れていく。
一方、俺たちの中で最も物理ステータスが低いリナも、黙々と作業を続けていた。
時折、痺れた指先に息を吹きかける。
そして、またすぐに収穫したジャガイモを編み籠へ集めていく。
俺たち四人の服は、濡れた泥と汚れで徐々に染まっていった。
刺すような寒さで、指先の感覚も少しずつ失われていく。
それでも、作業のペースが落ちることはなかった。
モンスターを狩っている時のような、互いに競い合う空気はない。
ヴァンの力強いクワさばき。
クララの丁寧な掘り方。
リナの黙々と収穫物を集める姿。
そして、俺の効率を重視した動き。
それぞれが自分の役割をこなすことで、自然と作業が噛み合っていた。
雪に覆われた畑の静寂の中、俺たちは一つのパーティーとして作業を続けていた。
土が完全に凍りつく前に、できるだけ多くのジャガイモを収穫する。
それだけを考えて、俺たちは手を動かし続けた。
灰色の空の下。
気づけば、かなりの時間が過ぎていた。
俺たち四人が懸命に働いたおかげで、凍結を免れたジャガイモは、いくつもの編み籠をいっぱいにしていた。
ヴァンは木製のクワを地面に突き刺し、額の汗を拭った。
汗は冷たい空気に触れた瞬間、急速に冷えていく。
ヴァンは深く息を吐いた。
口から濃い白い息が立ち上る。
「終わった! 最後の畝も掘り終えたぞ!」
ヴァンは満足そうな声を上げた。
クララは濡れた泥でコートが汚れていることも気にせず、その場に積まれていた乾いた藁の上へ座り込んだ。
「やっと……もう指の感覚がないわ」
そう愚痴をこぼしながら、クララは両手をこすり合わせる。
その隣に座っていたリナは小さく微笑み、自分の乾いた手袋をクララへ差し出した。
俺たちの作業が終わったのを見て、畑の持ち主である老人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
綺麗に並べられた籠の列を見つめる老人の目には、涙が浮かんでいる。
「豊穣の女神のご加護があらんことを……本当にありがとう、若者たちよ」
老人は震える声で続けた。
「お前さんたちは、この畑を救ってくれただけじゃない。この村の多くの人々の命まで、つないでくれたんじゃ」
ヴァンは軽鎧の内ポケットに手を入れ、少し皺の寄った一枚の羊皮紙を取り出した。
正式なクエスト用紙だ。
ダンジョン内で受けるクエストやモンスター討伐なら、クリアした瞬間にシステムが自動で記録し、プレイヤーのホログラム画面にも通知が表示される。
だが、今回のように街や村の住民から直接受ける依頼では、今でも昔ながらの手続きが使われているらしい。
羊皮紙の下部には、小さな円形の印が描かれていた。
依頼者の認証印だ。
ヴァンは羊皮紙を老人へ差し出した。
「おじいさん、完了の証として、ここに認証をお願いします」
「もちろん、もちろんじゃ」
老人は何度も頷き、その印に親指を押し当てた。
すると――。
羊皮紙の表面に青白い細い光が走った。
それは老人の指紋をなぞるように広がり、円形の印の中へと吸い込まれていく。
光が消えると、そこには新たな認証印が残されていた。
「これで大丈夫じゃ」
老人は羊皮紙を返す。
「報酬の銀貨は、昨日この依頼を掲示した時に、すでにギルドへ預けてあるんじゃ」
老人は羊皮紙をヴァンに返した。
ヴァンはいっぱいになった籠を見つめ、それから俺たち三人へ振り返った。
パーティーのリーダーらしく、すぐに役割を決める。
ヴァンは羊皮紙を再び巻くと、それを俺に差し出した。
「シグ、お前とリナとクララは先に街へ戻ってくれ。この証拠をオルニムスのギルド受付に持っていって、報酬を受け取ってきてくれ」
ヴァンは気楽な口調で言った。
「俺はこのおじいさんが、ジャガイモの籠を全部荷車に積むのを手伝う。終わったら、俺も後から追いかけるから、そこで待っててくれ」
俺は何も言わずに羊皮紙を受け取り、そのままローブのポケットへしまった。
「了解した」
「あの……私はここでヴァンを手伝うわ。シグとクララは先に行ってて」
リナは、どうやらここに残るつもりらしい。
「リナ、本当にいいのか? ここはかなり寒いぞ」
「うん」
リナは小さく頷いた。
役割が決まると、俺たちのパーティーは二手に分かれた。
ヴァンとリナは、編み籠を収穫用の荷車へ積み始める。
一方、俺とクララは二人に背を向け、冷たい風の吹く中、オルニムスの街へ向かって歩き出した。
街の門へ続く道は、進むほど人の気配がなくなっていった。
俺たちの足跡だけが、薄く積もった雪の上に残っている。
隣を歩くクララは、コートの襟を寄せながら、自分の身体を抱くようにして寒さに耐えていた。
しばらく無言で歩いていると、突然クララが口を開いた。
「ねえ、ヴァンとリナが付き合ってるって知ってた?」
「……そうか」
「実はあの二人、恋人同士なのよ」
まるで大きな秘密を打ち明けるように、クララは少し声を落として言った。
俺の返事は短かった。
特に興味もない。
視線も前から逸らさず、そのまま街の門へ続く道を歩いていく。
クララがちらりと俺を見る。
どうやら、俺の反応が予想より薄かったらしい。
「シグはどうなの? 恋人とかいるの?」
一瞬、ヴィオナの顔が頭をよぎった。
「いない。それに、興味もない」
「ふーん……」
クララは俺の顔をじっと見つめた。
何かを探るような視線だった。
だが、俺は表情を変えなかった。
しばらくすると、クララは諦めたように前を向いた。
「そうなんだ」
小さく呟いた。
それから数メートルほど歩いたところで、クララがふと俺の左肩へ視線を向けた。
「そういえば、いつも一緒にいた黒猫はどこ?」
「あれは……ある人に預けてある」
俺は淡々と答えた。
「この街に知り合いがいるの?」
クララは少し興味を示すように首を傾げた。
「ああ。少なくとも、信頼できる奴だ」
それだけ答えて、俺は再び前を向いた。
まもなく、俺たちの前にオルニムスの街の正門が見えてきた。
***
オルニムスの街にあるギルドへ到着すると、俺たちはすぐに受付へ向かった。
俺はクエスト完了の羊皮紙をギルド職員に渡す。
彼女は羊皮紙を確認すると、報酬の銀貨が入った袋を俺に差し出した。
「こちらが今回の報酬になります」
「どうも」
俺は袋を受け取った。
その後、俺とクララはギルドの中でヴァンとリナを待つことにした。
だが――。
一時間経っても、二人は戻ってこなかった。
これ以上待っていても仕方がない。
俺とクララは暖かいギルドを出て、まだジャガイモの運搬を手伝っているはずのヴァンとリナを迎えに行くことにした。
畑へ続く小道を歩いている途中だった。
俺たちの前に、奇妙な光景が現れた。
道の真ん中に、収穫物を運ぶための木製の荷車が止まっている。
その荷台には、まだいくつものジャガイモが積まれていた。
だが、その一部は雪の上に散らばっている。
「……?」
俺は足を止めた。
おかしい。
周囲を見回す。
ヴァンも、リナもいない。
そして――。
荷車から数歩離れた場所に、畑の持ち主だった老人NPCが倒れていた。
動かない。
老人の身体には、まだ乾いていない血が付着している。
白い雪の上にも、赤い跡が広がっていた。
「お、おじいさん……?」
クララの声が震えた。
俺は何も答えず、倒れている老人を見つめた。
クララは荒い息を吐きながら駆け寄り、ヴァンとリナの姿を探すように周囲を見回した。
だが、血痕の残る雪の上に落ちていた二つの物体を目にした瞬間、その足が止まった。
ヴァンの剣。
持ち主を失ったそれは、地面に斜めに突き刺さっていた。
その少し離れた場所には、リナの回復用の杖が折れた状態で転がっている。
この世界のルールでは――。
あのような状態で武器だけが残されていることには、一つの意味しかない。
その持ち主は、すでに死んで消滅したということだ。
「嘘……そんなはずない……」
クララの膝から力が抜けた。
そのまま冷たい雪の上へ崩れ落ち、両手でコートの胸元を強く握りしめる。
そして――。
ついに泣き崩れた。
彼女のすすり泣きが、静まり返った小道に響く。
恐怖と喪失感が、容赦なく彼女を襲っていた。
俺は、ただ静かに立っていた。
ショックもなければ、悲しみもない。
涙が出ることもなかった。
彼らに対して、そこまで強い感情的な結びつきがあったわけではない。
それに――。
俺はこの世界で、これまでに数え切れないほど多くのプレイヤーの死を見てきた。
その中には、俺自身の手で命を奪った者も少なくない。
だから、目の前で起きた死を前にしても、感情に流されることはなかった。
俺は周囲を冷静に見渡す。
雪の上に残された足跡。
戦闘の痕跡。
地面に刻まれた傷。
一つずつ確認していく。
頭の中に、パニックはなかった。
ただ、何が起きたのか。
それだけを考えていた。
そして――。
ほとんど痕跡を残さない、鮮やかな殺し方。
それを見て、オルニムスの街で流れていた噂が、ふと脳裏をよぎった。
〈Voidface〉と名乗るプレイヤーの集団。
オルニムス周辺でプレイヤーを虐殺することを好む、殺人鬼たちの集団だ。
クララは立ち上がった。
目は赤く腫れ、身体はまだ激しく震えている。
そして、そのまま俺のところへ歩いてきた。
次の瞬間――。
何の前触れもなく、クララが俺に飛びついた。
「……っ」
俺の身体を強く抱きしめ、その顔を胸元に埋める。
そして、再び泣き始めた。
さっきよりも深いすすり泣きが、胸元から聞こえてくる。
クララの指は俺のコートを強く握りしめていた。
まるで――。
少しでも手を離せば、俺までヴァンやリナと同じように殺され、消えてしまうと思っているかのようだった。
俺は小さく息を吐いた。
何も言わず、そのまま彼女を受け止める。
ゆっくりと両腕を上げ、クララの背中へ回す。
そして、まだ震えている背中を、落ち着かせるようにゆっくりと叩いた。
俺はしばらくその場に立ったまま、クララが泣き止むのを待った。
やがて、彼女の震えが少しずつ収まっていく。
十分に落ち着いたところで、俺はこの事件をオルニムスの治安パトロール隊へ報告した。
その後、クララを宿屋まで送り届けた。
***
宿屋の部屋の前まで来ても、クララはまだ俺の黒いローブを強く握りしめていた。
まるで、俺を一人にしたくないと言わんばかりに。
俺はそんな彼女の様子を見て、結局折れた。
木製のドアを開け、そのままクララと一緒に部屋へ入る。
部屋の中は、かなり整頓されていた。
余計な物は何もなく、シンプルな家具が必要な場所に置かれているだけだ。
「少し休め。落ち着くまで、ここにいる」
俺がそう言うと、クララはまだ腫れた両目で俺を見つめた。
「シグ……ここにいてくれる?」
消え入りそうな声だった。
今にもまた泣き出しそうな顔をしている。
「ああ」
俺は短く答えた。
「しばらくはここにいる。心配するな」
その言葉を聞いて、クララの肩から少しだけ力が抜けた。
彼女はゆっくりとベッドへ上がり、分厚い毛布を胸元まで引き上げる。
一方、俺は木の床に座り、ドアからそう遠くない壁へ背を預けた。
見張るには、ちょうどいい位置だ。
座ったまま、窓の外へ目を向ける。
雪はまだ激しく降り続いていた。
白い雪が、静まり返りつつあるオルニムスの街を覆っている。
「ふぅ……」
俺は深く息を吐いた。
溜まっていた疲労のせいか、まぶたが重い。
気づけば、俺は無意識に目を閉じていた。
そして、そのまま浅い眠りに落ちた。
しかし、死と隣り合わせの状況に慣れたプレイヤーとしての俺の直感は、完全に眠りへ落ちることを許さなかった。
何かが近づいてくる。
その瞬間、鍛えられた反射速度が反応した。
俺の右手が前へ伸びる。
そして、空中でその動きを止めた。
俺の右手は、クララの唇を塞いでいた。
俺からほんの数センチの距離にある彼女の顔。
その唇が、俺の唇に触れる直前だった。
俺は目を開いた。
目の前には、驚きで大きく見開かれたクララの瞳があった。
「何をするつもりだ、クララ?」
外の風と同じくらい冷たい声で、俺は静かに尋ねた。
クララは俺の意図を察したのか、肩を落とした。
ゆっくりと身体を引き、俺から顔を離していく。
俺も右手を下ろし、彼女の唇から手を離した。
クララの唇が小さく震える。
その目に、情熱はなかった。
そこにあったのは――むしろ、ひどく空虚な絶望だった。
「私は……ただ……」
クララは下唇を噛み、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えた。
「何かを……確かめたかっただけ」
それ以上は何も言わなかった。
クララは突然立ち上がる。
半ば逃げるように部屋のドアを開け、そのまま気まずい沈黙を残して廊下へ出ていった。
外は、すでに日が傾き始めていた。
雪はまだ降り続いている。
今のクララは、かなり混乱している。
「ふぅ……」
俺は再び息を吐いた。
このまま放っておくわけにもいかない。
俺は立ち上がり、黒いローブを羽織り直す。
そして、クララの後を追って部屋を出た。
***
俺はクララを追いかけ、雪の降るオルニムスの街路を駆け抜けた。
彼女が残した足跡を追っていく。
やがて、その足跡は監視塔へと続いていた。
俺は塔を上り、ついにその頂上へ辿り着く。
屋根のない開けた場所からは、暗くなり始めた夕暮れの空が広がっていた。
赤く染まった夕日の残光が、まだ降り続ける雪と混ざり合っている。
その景色は、妙に寒々しく、陰鬱だった。
クララは石造りのパラペットの縁に立っていた。
冷たい風が顔や髪を吹き抜けても、気にする様子はない。
その視線は虚ろだった。
雪山の向こうへ沈んでいく夕日を、ただ真っ直ぐに見つめている。
「クララ……」
俺が声をかける。
「ごめん……ごめんなさい」
風に消えそうな震えた声が、俺の言葉を遮った。
「私は、ただ……」
クララはゆっくりと身体を反転させ、俺を見る。
両目は赤く腫れていた。
ただ仲間を失っただけではないようにも見えた。
「シグ……実は私……」
クララはしばらく黙っていた。
次の言葉を口にするために、覚悟を決めているようだった。
「私、ずっとヴァンとリナに隠していたことがあったの」
長い間、胸の奥に抱えていたものを吐き出すように、クララの声が掠れる。
「あの二人の死を見た時……私、気づいたの」
「……何に?」
「今の私の感情は、ただの悲しみだけじゃない」
クララは一度、言葉を止めた。
「失望もある。……それに、ずっと彼に正直になれなかったことへの、後悔も」
「どういう意味だ?」
俺が尋ねると、クララは無理に笑おうとした。
だが、その表情はすぐに崩れた。
再び涙が頬を伝う。
「私、ずっとヴァンに想いを寄せていたの」
「彼の死を見て……それに、シグに拒まれて……私……」
クララは一歩、後ろへ下がった。
「……もう、全部終わったんだって感じたの」
クララの踵が、塔の縁を越えた。
夕暮れの風が吹き抜け、コートの裾を激しくはためかせる。
「私も……あの二人と一緒に逝くべきだったのよ」
「さようなら、シグ……」
その声は、風に消えてしまいそうなほど弱々しかった。
そして――。
クララは、そのまま身体を後ろへ倒した。
重力に引かれるように、その身体が塔の頂上から落ちていく。
俺は動かなかった。
彼女を助けるために、走り出すこともしなかった。
まして、手を伸ばすこともしない。
この高さから落ちれば、プレイヤーでも確実に助からない。
そのままなら、Game Overだ。
『なぜ彼女を救わなかった?』
突然、南の竜王の声が頭の中に響いた。
俺は振り返った。
俺は何事もなかったかのように、開けた塔の頂上を吹き抜ける冷たい風を無視し、静かに石の階段を下り始めた。
『彼女の命を救ったとしても、俺には彼女の心まで救うことはできない』
『俺は、全ての人を救える英雄じゃない』
『俺はただの……』
一瞬、言葉を止める。
『人殺しだ』
俺の足音だけが、塔の石階段に小さく響いていた。
『それがお前の聞きたかったことか、南の竜王?』
『……?』
『これは、お前が俺の夢の中に作った幻覚だろ? あの島で起きたことと同じように』
『いつから気づいていた?』
『クララの態度だ』
俺は淡々と答える。
『変化があまりにも突然すぎる。それに、あれだけの決断をするには理由が弱すぎる』
『俺が見てきたクララなら、あんな簡単に死を選ぶとは思えない』
『チッ!』
舌打ちが響いた。
次の瞬間――。
ゆっくりと、俺の周囲の世界が漆黒の闇へと染まっていく。
そして――。
目を開けると、俺はまだクララの部屋のドアの横の壁に背を預けて座っていた。
一方、クララはまだベッドの上で、ぐっすりと眠っている。
「……」
俺はしばらく、何も言わずに彼女を見つめていた。
南の竜王が、なぜあんな幻覚を見せたのか。
その意図までは分からない。
俺にトラウマを植え付けようとしたのか。
それとも、俺がまだ理解していない別の目的があるのか。
いずれにせよ――。
どうやらあいつは、俺が眠っている間でも、俺の思考に干渉できるようになってきているらしい。
俺はしばらく、まだ眠っているクララを見つめた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
この街で、まだ片付けておきたいことがある。
俺はそのままクララの部屋を出た。
向かう先は――オルニムスのギルドだ。
***
数分後。
俺は、街の中心に建つギルドの正門を通り抜けた。
何事もなかったように、ゆっくりと歩く。
数十人のプレイヤーが行き交い、忙しそうに動き回る者もいれば、仲間同士で楽しそうに会話している者もいる。
いつもと変わらない、平穏な光景だった。
俺は広大なギルドホールの中央で立ち止まった。
「マジックスキル――タイムリープ」
俺は小さく呟いた。
周囲の時間は、何事もなかったかのように流れ続けている。
少なくとも、外から見れば何の変化も起きていない。
俺は続けて口を開いた。
「ユニークスキル――デスゾーン」
その瞬間。
俺の足元に落ちていた黒い影が、一気に広がった。
漆黒の領域が床を這うように拡大し、ギルドホール全体を瞬く間に飲み込んでいく。
そして――。
その場にいた全てのプレイヤーが、俺の領域へと引きずり込まれた。
ギルドの中に、死の領域が生まれた。
突然、周囲を包み込んだ闇のドーム。
閉じ込められたプレイヤーたちは、互いに顔を見合わせる。
何が起きたのか理解できず、困惑した様子で辺りを見回していた。
俺は何も言わず、インベントリからヴェインリーヴァーを取り出した。
一人のプレイヤーが、まだ何の警戒もせずに俺のすぐ近くを通り過ぎる。
その瞬間――。
俺は稲妻のような速さで剣を振り抜いた。
シュアァァン!
何が起きたのか理解する暇さえ与えず、その首を斬り落とす。
身体が床へ崩れ落ちた。
同時に、EXPが俺の身体へと流れ込んでくる。
それだけではない。
断片的な記憶までもが、俺の中へと流れ込んできた。
『こいつは……ヴォイドフェイスについて何も知らないな』
手がかりすらない。
俺はそう判断した。
そして――。
一人。
また一人。
俺はヴォイドフェイスに関する情報を探すためだけに、目の前のプレイヤーたちを次々と殺していった。
迷いもない。
感情もない。
俺の目には、何の感情も浮かんでいなかった。
たとえ剣を振り続けようと。
その刃で身体を斬り裂き、首を次々と落とそうと。
俺の心が揺れることはなかった。
数十人のプレイヤーを始末した後――。
俺はついに、探し求めていた偽者の〈Voidface〉へ繋がる、一つの手がかりを見つけた。
俺は左手を宙へ掲げ、指を鳴らす。
「フューチャーサイト――オフ」
その瞬間。
俺の周囲の時間が、完全に停止した。
次の瞬間――。
時間が、逆方向へ流れ始める。
ほんの数分前。
俺の意識は時間の流れを逆走し、再び元の場所へと引き戻されていく。
そして――。
気づけば、俺は再びギルドホールの中央に立っていた。
周囲では、プレイヤーたちが何事もなかったかのように行き交っている。
誰も俺を気に留めない。
当然だ。
ほんの数分前、俺がこの場所にいたプレイヤーたちを皆殺しにしたことなど――。
誰も知るはずがない。
俺は踵を返し、その場を後にした。
頭の中には、あのプレイヤーたちから得た情報と、無数の記憶の断片が残っている。
初心者プレイヤーとしての静かな生活は――これで終わりだ。
今こそ、その時だ。
この街のゴミ共を――。
片付ける時が。
次回、第27章 「交錯」
新しい章の更新は毎週土曜日です。




