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第25章:繋がり



俺は最後尾につき、ヴァンを前衛に置き、クララとリナをその後ろに配置した。


三人の動きを見るには、ちょうどいい位置だ。


……まあ、そこまで気にしているわけじゃない。


せいぜい、道案内は任せるか。


湿った石造りの回廊に、四人分の足音が静かに響く。


壁に掛けられた魔法の松明が薄暗い光を放ち、床には長い影が揺れていた。


「そういえば、シグ」


ヴァンが静寂を破った。


歩みを止めることなく、ちらりと後ろを振り返る。


「お前のクラスは何だ? それと……よかったら、今のレベルも教えてくれないか?」


「俺はただの初心者プレイヤーだよ」


俺は、わざと少しためらうような声を作って答えた。


「レベルも、まだ15だ」


ヴァンの足が、ぴたりと止まった。


「……レベル15?」


彼は完全に振り返ると、通路に響くほど大声で笑い始めた。


「はははっ! レベル15だって!?」


前を歩いていたクララとリナも、驚いたように顔を見合わせる。


ヴァンは少し見下したような笑みを浮かべ、首を振った。


「レベル15で、一人でダンジョンに入ろうとしてたのか? お前もなかなか無鉄砲だな」


「前の街では、パーティーを組まないとダンジョンに入れないなんてルールはなかったのか?」


「なかったよ。リフェリーはかなり自由な街だからね」


俺は平然と答えた。


「なるほどな……」


ヴァンは小さく頷いた。


「だが、安心しろ。今日はお前にとって運がいい日だ」


そう言って、ヴァンは自信満々に自分の胸元を軽く叩いた。


「俺はレベル39。クララは36で、リナは32だ」


三人のレベルを順番に口にする。


「20階層以下なら、俺たちのパーティーでもお前をキャリーするくらい余裕さ」


「そうなのか。本当にありがとう」


俺は短く答えた。


彼らが誇らしげに並べた数字を聞いて、俺は感心したような表情を作った。


――もちろん、本心ではない。


***


俺たちは苔むした石段をさらに下り、いくつもの通路を進んで、ようやく10階層が近づいてきた。


だが、ダンジョンに入ってから、どうにも様子がおかしい。


モンスターを一匹も見かけていない。


いや、正確には――遭遇すらしていない。


まるで、この辺りからモンスターだけが消えてしまったかのようだった。


「この街のダンジョンって、いつもこんなに静かなのか?」


俺はヴァンたちの後ろを歩きながら尋ねた。


「本来はこんなはずじゃない。いつもなら、ダンジョンの奥へ進めば、どこかで必ずモンスターが立ち塞がってくるんだが」


ヴァンが答える。


その声には、少し戸惑いが混じっていた。


「ヴァン、これって……何かの前兆じゃないかしら?」


リナが不安そうな声で尋ねる。


「落ち着け、リナ。ここはまだダンジョンの上層だ」


ヴァンはそう言ってから、少し間を置いた。


「それに、俺たちの目的は30階層じゃない。18階層まで行けば十分だ」


不安そうなリナを落ち着かせるように、ヴァンは言った。


俺たちはさらに深くへと下り続けた。


11階層、12階層、13階層、14階層……そして15階層。


だが、どこまで進んでも、状況は変わらなかった。


静寂に包まれ、モンスターの姿は一匹たりとも見当たらない。


……確かに、静かすぎる。


そして、明らかに異常だった。


本来なら、これほど深いエリアには中級モンスターがうようよしているはずだ。


それなのに、俺たちの前に立ち塞がるどころか、その姿すらほとんど見えない。


暗い通路の奥で、何度か動く気配を感じた。


だが、俺たちが近づくと――。


その生き物たちは、まるで何かから逃げるように、一目散に走り去っていった。


「おかしいな……」


ヴァンが呟いた。


足取りが少しずつ遅くなる。


右手は剣の柄を強く握りしめていた。


先ほどまでの余裕は、もうなくなっている。


「どうしてさっきから、一匹もモンスターに遭遇しないんだ? ここは普段なら、一番モンスターが多いルートなのに」


俺の横を歩いていたクララが、自分の腕をさすった。


鳥肌が立っている。


「その通りね、ヴァン。雰囲気が静かすぎるわ」


クララは周囲を警戒するように見回した。


「もしかして……ボスモンスターが階層を抜け出して、この辺りを徘徊しているんじゃないの?」


「滅多なことを言わないで、クララ」


リナが小声でたしなめる。


そう言いながらも、彼女の手に握られた魔法の杖は淡く光り始めていた。


いつでも防御スキルを使えるよう、すでに準備しているらしい。


俺は三人の様子を眺めながら、黙って歩き続けた。


……モンスターがいない。


それだけなら、まだ偶然で片づけられる。


だが――。


俺たちを見たモンスターが、逃げている。


そこだけは、どうしても気になった。


このダンジョンで起きている異変。


特に、俺がこいつらと一緒に入ってからの状況を考えると――一つの可能性が頭に浮かんだ。


俺は左肩でぐっすりと眠っている黒猫、モアへ顔を向ける。


……あるいは、もしかして。


その時――忌々しい声が、再び頭の中に響いた。


『私に何か不満でもあるのか、人間……?』


やっぱりな。


このダンジョンにいるモンスターたちは、お前の存在に怯えているんだろ?


南の竜王?


俺は心の中で問いかけた。


『それが何か問題か?』


もちろんある。


気配を消すことはできないのか?


『そんなことは造作もない。だが、私が気配を消したところで、モンスターたちが近づいてくるわけではない』


少し間を置いて、彼女は続ける。


『私の力の一部を持っているモアは、気配の消し方を知らないのだ。だから、やっても無駄だ』


『それに――』


彼女の声が、少しだけ楽しそうになる。


『貴様の要望に従う気もない』


最後の言葉とともに、彼女はくすくすと笑った。


……くそっ。


先ほどから不安そうにしていたリナが、ついに口を開いた。


「あの……私たち、上に戻ったほうがいいんじゃないかしら?」


その言葉を聞いたヴァンの表情が、再び険しくなる。


「慌てるな、リナ。まずは18階層まで様子を見よう」


ヴァンは胸を張って言った。


だが、その両目は依然として警戒を解いていない。


通路の隅々まで視線を走らせながら、彼は続けた。


「たまたまモンスターのスポーン周期が空いてるだけかもしれない。それに、俺たち三人のレベルなら、何が出てきても対処できるさ」


そう言って、ヴァンは自信満々に笑った。


***


数分後、俺たちはついに18階層へ到着した。


この階層は、これまでよりもずっと湿気が多かった。


階段を下りた途端、沼地のような生臭い匂いと、濡れた苔の匂いが混ざった悪臭が鼻を突く。


俺たちが広大な洞窟へ足を踏み入れた、その直後だった。


エリアの端に、暗緑色の鱗を持つリザードマンの姿が見えた。


「――」


ヴァンが何か合図を出そうとした。


だが、その前にリザードマンがこちらを振り返った。


その目が、大きく見開かれる。


恐怖。


俺たちを見た瞬間、明らかに怯えていた。


リザードマンは一瞬も迷わなかった。


手にしていた石の槍をその場に落とすと、必死の勢いで走り出した。


そして、そのまま石筍の柱の影へと姿を消していった。


「奴ら……また逃げたのか?」


ヴァンが眉をひそめる。


剣はすでに抜かれている。


だが、目の前にはもう標的が一匹も残っていなかった。


すでに弓を引き、狙いを定めていたクララも、強張った表情のままゆっくりと弓を下ろした。


その隣では、ヒーラーのリナが不安そうに周囲を見回している。


彼女は回復の杖を強く握りしめながら、ヴァンのすぐそばまで身を寄せた。


俺はただ、その光景を黙って見つめていた。


……まあ、予想通りだ。


俺の肩では、モアが静かに目を閉じている。


周囲の異変など、まるで気にしていない。


黒猫は気持ちよさそうに眠り続けていた。


ダンジョンの静寂の中に、小さな喉鳴らしの音だけが規則正しく響いている。


目の前の三人がまだ混乱しているのを見て、俺は口を開いた。


「このままモンスターが隠れ続けるなら、探索に時間がかかりすぎる」


俺は通路の先へ視線を向けた。


「二手に分かれるのはどうだ? そうすれば、このエリアをもっと早く探索できる」


もちろん、口実だ。


俺の本当の目的は、こいつらから離れること。


そうすれば、モンスターたちがこいつらの前から逃げることもなくなる。


俺も手加減する必要がなくなるし、何もできないひ弱な初心者を演じ続ける必要もない。


ヴァンはしばらく黙り込み、俺の提案を考えていた。


やがて、真剣な表情で口を開く。


「ダンジョンの中で分散するのは、確かに危険だ」


ヴァンは俺を見る。


「だが、この状況なら、お前の提案も悪くないかもしれないな」


「ただし――」


ヴァンは少し間を置いた。


「レベル15のお前を一人で歩かせるわけにはいかない。それこそ自殺行為だ」


そう言って、ヴァンはクララへ顔を向ける。


「クララ、お前はシグと一緒に行ってくれ。西のルートを頼む」


「分かったわ」


「お前の弓の腕なら、モンスターが突然襲ってきても、遠距離からシグを守れるだろ」


ヴァンは続けて、リナを見る。


「俺とリナは東のルートを進む」


リナは小さく頷いた。


「ええ、分かったわ」


クララは背中の矢筒へ手を伸ばし、いつでも矢を取り出せる位置にあることを確認した。


俺は反論しなかった。


ここで拒否すれば、余計な疑いを持たれる。


それに、話が長引くだけだ。


「分かった」


俺はいつも通り、淡々と答えた。


一人で行動するという当初の計画は失敗した。


だが――少なくとも、状況は少しマシになった。


***


西側へ続く洞窟の通路は、さっきのメインエリアに比べてはるかに狭く、明かりも少なかった。


両側には石の壁がそびえ立ち、天井からは鍾乳石がいくつも垂れ下がっている。


時折、その先端から水滴が落ち、床に小さな音を響かせていた。


クララの足音。


そして、俺の靴音。


それ以外の音は、ほとんど聞こえない。


リザードマンの咆哮もない。


武器が擦れる音もない。


水滴が落ちる音さえ、妙にはっきりと聞こえる。


……静かすぎる。


俺は密かに影のスキルを発動させた。


もちろん、クララには気づかれないように。


俺の足元にある影が、ゆっくりと広がっていく。


四方八方へ這うように伸び、こぼれた黒いインクのように、洞窟の床や壁を伝っていった。


影が触れた場所の情報が、少しずつ俺の中へ流れ込んでくる。


床。


壁。


石筍の裏。


暗がりの奥。


周囲に何があるのか、その存在だけが感覚として伝わってくる。


……今のところ、何もない。


俺は歩きながら、さらに索敵範囲を広げていく。


クララは俺の数歩前を歩いていた。


すでに弓には矢が番えられている。


いつでも引き絞れるよう、準備はできていた。


彼女の視線も絶えず動いている。


石筍の隙間。


明かりの届かない暗がり。


少しでも何かが動けば、すぐに反応できるよう警戒しているようだった。


……かなり慎重な奴だな。


俺はそんなクララの背中を見ながら、黙って索敵を続けた。


しかし、数分歩いてもモンスターを一匹も見つけられない。


そのせいか、クララの警戒も少しずつ緩んできた。


だが、落ち着いたわけではない。


むしろ、何も起こらないことが気になっているようだった。


アーチャーにとって、周囲の音やわずかな動きを読むことは重要だ。


だからこそ、ここまで何も聞こえない静寂は、逆に不気味なのかもしれない。


「シグっていう名前だったわよね?」


ついにクララが口を開いた。


彼女は少しだけ後ろを振り返る。


「ああ」


「シグは、いつもそんなに落ち着いているの?」


「そうでもないよ」


俺は短く答えた。


「そう? でも、かなり無口な方だと思うわ」


「……そうか?」


「ええ」


クララは前を向いたまま続ける。


「普通、シグみたいな低レベルのプレイヤーなら、こんな状況に遭遇したら、もっと慌てたり不安になったりするものよ」


「……」


「でも、シグは全然違う。冷静だし、ほとんど動揺してない」


俺が嘘をついていることに気づいたのか?


一瞬、そんな考えが頭をよぎった。


だが――。


「……正直、ちょっと感心したわ」


クララはそう言って、ちらりと俺を見た。


どうやら、そこまで深く考えているわけではないらしい。


何が起きているのか分からないまま緊張を強いられていることが、彼女を不快にさせているようだ。


だからこそ、おそらく緊張から気を逸らすために、彼女は話し続けているのだろう。


「ところで、どうしてこんな危険な場所にペットを連れてきているの?」


クララは俺の左肩に乗っている黒い毛玉をちらりと見ながら尋ねた。


「宿屋の部屋に置いてきた方がよかったんじゃないの?」


「あいつを一人で部屋に残しておくのは、ちょっと落ち着かなくてね」


クララは少し黙った。


「そう……」


彼女は小さく呟く。


「こんな場所に連れてこられても、ずいぶん落ち着いているから……ちょっと驚いたわ」


俺はモアをちらりと見る。


黒猫は、まだぐっすりと眠っていた。


胸が規則正しく上下している。


かすかな寝息が聞こえてくるが、冷気や長旅、俺たちの会話など、まるで気にも留めていないようだった。


「こいつは怠け者なんだ」


俺は平坦な声で答えた。


「誰にも邪魔されなければ、ずっと寝てるよ」


クララが小さく笑う。


「シグと一緒にいるのが、よっぽど心地いいみたいね」


そう言って、彼女は再び前方へ視線を戻した。


石筍の影に何か潜んでいないか、慎重に確認している。


数歩進んだところで、クララが再び口を開いた。


「シグ、このダンジョンの階層についてどう思う?」


「18階層にしては、静かすぎるな」


クララは歩調を少し緩めた。


「ええ。静かすぎるわ」


彼女は眉をひそめる。


「なぜかしら……私の直感が告げているの」


少し間を置いて、クララは続けた。


「ここのモンスターは消えたわけじゃない。何か……ずっと恐ろしいものに怯えて、わざと隠れているんだと思う」


俺は立ち止まらなかった。


彼女の言葉にも答えない。


ただ、心の中では一つのことを認めていた。


……このアーチャー、思ったより勘が鋭いな。


残念ながら――。


彼女が言っている「恐ろしいもの」が、まさに自分のすぐそばにいることには、まったく気づいていなかった。


その時、俺の視界の隅に通知が現れた。


[ +650 EXP ]


俺はわずかに眉を上げた。


どうやらヴァンたちがモンスターを倒したらしい。


驚くことではない。


俺たちが別れてから、すぐにモンスターを見つけるだろうと思っていた。


クララが突然、声を上げた。


「ヴァンとリナがモンスターを倒したのね?」


俺は彼女の言葉に答えようとした。


だが――。


影が何かを捉えた。


その瞬間、俺は口を閉じた。


前方に何かいる。


数十メートル先。


一匹のリザードマンが、岩の突起の陰にじっと立っていた。


いや。


正確には――動こうとしている。


その片足は、すでに床を這っていた俺の影に絡め取られていた。


奴は動けない。


逃げることもできない。


俺は何事もなかったように前方へ視線を向けた。


「クララ、モンスターが近づいている」


「えっ!?」


クララがすぐに振り返った。


彼女の視線が通路を走る。


そして、必死に影から足を引き抜こうとしているリザードマンを見つけた。


「本当ね……」


一瞬で、さっきまでの緩んだ表情が消える。


「逃がさないわ!」


クララは弓を構えた。


弦を限界まで引き絞る。


その動きはあまりにも速く、そして自然だった。


考えるより先に身体が動く。


長い時間をかけて、そうなるまで鍛え上げてきたのだろう。


「アーチャースキル――レッドライン……」


矢の先端に、赤い光が集まり始める。


次の瞬間――。


ヒュッ!


矢が一直線に放たれた。


空中に鮮やかな赤い軌跡を残しながら、暗い通路を一瞬で駆け抜けていく。


そして――。


リザードマンの頭部を正確に射抜いた。


[ HP: 2,600/2,600 ]


CRITICAL HIT!


2,800 ダメージ


[ HP: 0/2,600 ]


リザードマンの身体が大きくふらついた。


そして、数秒もしないうちに全身へひびが走り始める。


「――」


次の瞬間。


ピキッ!


その身体が、空中へ舞い上がる光の破片となって砕け散った。


無数の光の欠片が宙を漂い、やがてゆっくりと消えていく。


[ +650 EXP ]


クララは弓を下ろした。


「やった……」


俺は、目の前で消えていく光の名残をただ見つめていた。


特に何の表情も浮かべていない。


どのみち、俺がやったことはクララには見えていない。


彼女にとっては、モンスターが偶然現れ、それを自分が見事に仕留めた。


それだけのことだ。


俺は、そう思わせておいた。


その方がいい。


リザードマンの身体が消えた直後、俺の影が再び何かを捉えた。


別のモンスターだ。


そして、もう一匹。


さらに、もう一匹。


俺は通路の奥へ視線を向けた。


クララは、俺より先に気づいていた。


彼女はすぐさま新しい矢をつがえる。


俺は何も言わなかった。


俺の影はすでに、最も近くにいたリザードマンの足へ触れている。


その瞬間、リザードマンの動きが止まった。


足を引こうとしている。


だが――動かない。


自分の足が何かに拘束されていることにも気づかないまま、必死に身体を動かそうとしていた。


ヒュッ!


赤い矢が再び放たれる。


CRITICAL HIT!


2,800 ダメージ


[ HP: 0/2,600 ]


そのリザードマンの身体もまた、光の破片となって砕け散った。


クララは満足そうに微笑んだ。


[ +650 EXP ]


しかし、数秒後。


また別の通知が視界の隅に現れた。


[ +650 EXP ]


俺はシステムパネルをちらりと見る。


どうやら、ヴァンがモンスターを倒したらしい。


クララも同じ通知を受け取っていた。


「あら?」


彼女の眉が少し上がる。


「彼も負けたくないようね」


俺は答えなかった。


遠くに、また別のモンスターが見える。


そして気づけば、この狩りはヴァンとクララの間で、どちらが多くモンスターを倒すかという、ちょっとした競争へと変わっていた。


一方、俺はといえば――。


クララが倒したモンスターからダークストーンを拾うだけの、ポーターのような役目になっていた。


彼らの前で俺の力を見せたくない。


それは確かだ。


仕方がない。


少なくとも――。


このポーターの仕事でも、ちゃんと収入にはなる。


***


その夜。


オルニムスの街にある賑やかな酒場で、俺たち四人は店の隅にある木製のテーブルを囲んで座っていた。


酒場の雰囲気は、ダンジョンとはまるで違う。


カウンター近くの小さなステージからは、かすかな音楽が聞こえてくる。


グラスがぶつかる音。


冒険者たちの笑い声。


あちこちのテーブルから聞こえてくる会話。


焼けた肉と酒の香りが、店内の空気を満たしていた。


「最初から数えてみろ。俺の方がお前より多くモンスターを倒してるぞ」


ヴァンはそう言って、グラスをテーブルに置いた。


クララは勝ち誇ったような表情でヴァンを見つめながら、グラスを掲げる。


「多いって? 本気で言ってるの?」


ヴァンは即座に眉をひそめた。


「もちろんだ」


俺は二人の向かいに静かに座り、時折飲み物を口にしながら、二人の言い争いを眺めていた。


ヴァンの隣に座っているリナは、ただ呆れたようにため息をつく。


「どうしてあなたたち、まだそんなことで言い争ってるの?」


「これは些細なことじゃない」


ヴァンは真剣な顔で答えた。


「キル数が、今日一番貢献したのが誰かを決めるんだ」


クララがすぐに言い返す。


「それなら、最初から数え直しましょうよ」


俺は二人を見つめた。


……本当に真剣らしい。


数時間前、ダンジョンではあんな奇妙なことが起きた。


だから、てっきりその異常について話し合うものだと思っていた。


だが――違った。


少なくとも今夜は、ダンジョンで起きた異常よりも、狩りの成果やキル数の方が、二人にとってはよほど気になっているらしい。


俺は再び三人を観察した。


ヴァンは相変わらず、自分のキル数が多いことを証明しようとしている。


クララは、納得できない計算にはことごとく反論し続けていた。


一方、リナは二人の言い争いを聞きながら、ますます疲れた様子を見せている。


俺はただ静かに座っていた。


口を挟む理由はない。


そもそも、俺はもう欲しいものを手に入れている。


金だ。


そして何より重要なのは――


彼らは俺の本当の正体を知らない。


少なくとも、今はまだ。


「シグ」


突然、ヴァンの声が俺を呼んだ。


俺は顔を上げた。


「何だ?」


ヴァンは真剣な表情で俺を見つめていた。


「今日の狩りの成果には満足しているか? 俺たちのパーティーに入って、がっかりしていなければいいんだが。見ての通り、俺たちはかなり騒がしいからな」


俺は少し黙った。


クララもテーブルの向こうからすぐに俺へ視線を向ける。


リナも同じようにこちらを見た。


三人の視線が、今は俺に集まっている。


俺は彼らを一人ずつ見た。


そして、表情を変えることなく答えた。


「もちろん。全然がっかりなんてしていない。むしろ、あんたたちのパーティーにはかなり助けられたよ」


「そうか。それなら良かった」


ヴァンは安堵したように笑った。


クララとリナも、温かい笑みを浮かべていた。


***


翌朝、目を覚ますと、モアの姿が消えていた。


彼女はもう部屋にはいない。窓も少し開いており、そこから入り込んだ冷たい空気が、カーテンをゆっくりと揺らしていた。


俺はまだ半分眠ったまま、何度か瞬きをした。


「……モア?」


俺は部屋の中を見回した。


「どこへ行ったんだ?」


長いため息が漏れた。


彼女が突然、竜の姿に戻って街の真ん中で暴れ出したりしないことを祈るしかない。


それとも、もっと悪いことに――たまたま目の前を通りかかった人間を、そのまま食べてしまったりしないことを。


「ふぅ……」


時間を無駄にすることなく、俺はすぐに起き上がって服を着た。


そのまま宿屋を飛び出し、オルニムスの街を歩き始める。


街はまだ雪に覆われていた。


建物の屋根も、通りも、道沿いの木々も白く染まっている。まだ除雪されていない雪の上には、住民たちの足跡がいくつも残されていた。


俺は探し続けた。


通りの片隅から別の片隅まで。


店の前から、細い路地まで。


だが、モアの姿はどこにもなかった。


やがて、俺は街の一角にある公園へと辿り着いた。


その公園は、街の他の場所と比べてずっと静かだった。


辺り一面が白い雪に覆われ、葉を落とした木々が寒々しく立ち並んでいる。


公園の中央には、木製のガゼボがあった。


そして、その中に誰かが一人で座っていた。


長い金髪が、すぐに俺の目を引いた。


俺は彼女を知っている。


「……彼女だ」


あの時、森の中で出会った女性。


俺は足を止め、少し離れた場所から彼女の様子を眺めた。


風に乗って、彼女の歌声がかすかに聞こえてくる。


彼女は歌っていた。


聞き慣れない、柔らかなメロディーだった。


それなのに、その歌声は冷たい公園の空気さえ、どこか穏やかに感じさせていた。


彼女の手がゆっくりと動く。


その膝の上にいる何かを、優しく撫でていた。


一匹の黒猫。


「……モア」


なんだ、ここにいたのか。


どうやらモアは、宿屋まで届いた彼女の歌声に誘われて、俺に何も言わず、ふらっと出てきてしまったらしい。


俺はゆっくりとガゼボに近づいていった。


「すみません……」


彼女の歌が止まった。


女性が俺の方を振り向く。


俺たちの視線が交差した。


だが、俺が何かを説明するより先に、彼女は俺がここへ来た理由を察したようだった。


「きっと、この子は私の歌が気に入ったのでしょう」


そう言いながら、彼女は膝の上で大人しくしているモアの頭を撫で続けていた。


「すみません。邪魔になっていなければいいんですが」


「全くそんなことありませんよ」


彼女は小さく微笑んだ。


「むしろ、この子が来てくれて嬉しいくらいです」


「……それなら良かったです」


モアを抱き上げて、そのまま連れて帰ろうかと思った。


その時、女性が再び口を開いた。


「あの、もしよろしければ……」


彼女は俺を見つめた。


「しばらくの間、この子を私と一緒にいさせてくれませんか?」


「……?」


俺は黙り込んだ。


正直なところ、モアが彼女に傷つけられることを心配しているわけではない。


むしろ逆だ。


俺が心配しているのは、モアの方が彼女を傷つけてしまわないかということだった。


何と言っても、モアは普通のペットではない。


万が一、モアが力を抑えきれなくなったら、この街に彼女を止められる人間がいるかどうかすら怪しい。


しかし……。


俺は女性の膝の上で、安らかに眠っているモアを見つめた。


脅威を感じている様子は一切ない。


それどころか、モアの顔はひどく満足そうに見えた。


「……わかりました」


俺はついに折れた。


「俺はシグです。もしよければ、名前を教えてもらえませんか?」


俺が尋ねると、彼女は優しく微笑んだ。


「私の名前はルナ」


そして、穏やかな声で続ける。


「ルナと呼んでください」


「ルナ、ですか……」


俺は小さく呟いた。


ルナは再び口を開く。


「それと……連絡先を交換しませんか?」


「フレンド登録する、という意味ですか?」


俺は念のため確認した。


「ええ」


ルナは小さく頷いた。


「後でモアを返す時に、あなたへメッセージを送れば迎えに来てもらえますから」


「ああ……もちろんです」


俺はそう答えると、システムを開き、ルナをフレンドに追加した。


やがて、フレンドリストに彼女の名前が表示される。


その名前を見た瞬間、なぜか奇妙な感覚を覚えた。


だが、あまり深く考えないことにした。


何より重要なのは――


これでもう、モアのことを気にし続ける必要がなくなったことだ。


俺はルナの膝の上で、まだぐっすりと眠っている黒猫を見つめた。


「それじゃあ、モアをお願いします」


ルナは頷いた。


「安心してください。私がちゃんと面倒を見ますから」


「……お願いします」


俺は軽く頷き返す。


それから背を向け、ガゼボを後にした。


ガゼボを離れて数歩歩いたところで、公園の門の近くで誰かとすれ違った。


黒いローブを身にまとい、透けるような薄い黒布で顔を覆った、謎の女性だった。


俺は彼女に見覚えがあった。


リフェリーの街で見かけた、あの女性だ。


彼女は足音を立てることなく公園へ入っていき、そのまま俺の横を通り過ぎていった。


すれ違った、その瞬間――。


俺の左手が再び脈打った。


電気が走るような痺れが、瞬時に腕全体を駆け抜ける。


あの時と同じだ。


「……?」


俺は足を止め、後ろを振り返った。


謎の女性は、ガゼボへ向かって歩き続けている。


遠くから眺めていると、ルナが手を挙げ、彼女に挨拶しているのが見えた。


どうやら、二人は知り合いらしい。


「ふぅ……」


俺は静かにため息をつく。


それから、再び歩き出した。


今はまだ、そのことについて考えるのはやめておこう。


あのクエストの答えを、これ以上追い続ける気にもなれなかった。


そのクエストには、まるで終わりなんて存在しないように思えた。


南の竜王が言った通りなのかもしれない。


もしかしたら――。


この全ては、本当に呪いなのかもしれない。



***

次回、第26章 「運命と現実」


新しい章の更新は毎週土曜日です。


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